一話
諸手で包みこんだカップを口元へ寄せ、安藤天音は息をふうっと吹きかけた。
泡立てたミルクをそそいで作られたハートが揺れる。
手袋なしで喫茶店まで歩いてきたため、すっかり冷えてしまった指先を、カップのぬくもりがじんわりと包み込む。
今日は二月十四日。
好きな人にチョコレートを贈り、告白することを、日本中で公認されている摩訶不思議な一日だ。
小学生の頃から友達同士でチョコを交換し合っていた天音は、憚ることなく、チョコを食べられる日として、お菓子食べ放題のハロウィンと並び、一年で一二を争うほど、バレンタインデーは大好きな日だった。小学五年生までは……。
「あれから何年だっけ……」
視線を天井に向けた天音は、カップの縁に唇を寄せる。泡立ったミルクが唇に触れ、エスプレッソが口に流れ込む。ほろ苦い味わいを目を閉じて堪能し、瞼をあげた。
上唇に触れたミルクをなめとりながら、カップをソーサーに戻すと、持ち手に指を添え、頬杖をつく。
柔らかなクラッシックをBGMに流すここは、家から徒歩十数分という距離にある喫茶店だ。
子どものころから時が止ったかのような趣ある店構えをしており、天音の両親も昭和の香りが漂う店とよく言っている。店内は薄暗く、家具のほとんどがこげ茶色であり、飾り棚には店主の趣味をうかがわせる品々が並ぶ。駅近くにあるガラス張りのオープンなカフェにはない落ち着きが、未だに人を惹きつけてやまない。天音もまた、一冊の文庫本と五百円玉一枚を握りしめ、一杯のドリンクとともに長居するのが常習となっていた。
頻繁に通うようになったのは、中学からだ。
誰にも邪魔されず、黙々と文字を目で追いかけるだけの時間と空間が、天音の心と妙にフィットし、家の喧噪や、学校の諸々をリセットするために、月に二度ほど通うようになった。高校受験、大学受験と落ち着かない現実を断ち切るために、奥まった二人掛けのテーブルに陣取っていたことが懐かしい。
「もう八年かあ……」
二十歳を無事に迎え、お酒が飲めるようになった初めてのバレンタインデー。
今年の手作りチョコは、洋酒入りに初挑戦した。
試食してみれば、舌触りは甘いのに、洋酒の芳醇な香りが鼻腔を抜けていき、慣れない大人の苦みが広がった。
天音は持ち上げたカップへ視線を落とす。崩れつつあるハートを見ていると、大人になったなあと、年寄めいた感慨にしんみりと満たされてゆく。
「天音」
顔をあげると迎えの席に、待ち合わせ相手、新井俊彰が座った。真冬の外気にあてられ、頬と鼻が赤くなっている。コートのボタンをはずし、籠った熱を逃がす彼は、幼稚園から小中学校まで同じ公立に通っていた腐れ縁の幼馴染だ。
「俊彰、久しぶり」
「待たせた?」
「少しね」
注文を伺いに来た店員に、俊彰は珈琲を注文する。
俊彰は、勉強なんて知ったことかとばかりに漢字のテストで十点を取りクラス最低を自慢する、典型的な元気だけが取り柄という小学生だった。中学に入ってから急に勉強をし始めると、あれよあれよと順位を上げ、高校は県内屈指の進学校に進み、在学中もトップクラスの成績を納め、地元で最も難しい国立大に合格している。
中高と運動部に所属していた彼は体格もよく、やんちゃ盛りの小学生時代が嘘のように、黒髪が似合う落ち着いた青年へと成長していた。
天音はと言えば、近いことを優先にした中堅の高校に進学し、今もそこそこの私立大に通っている。高校デビューも大学デビューもなく、地味なまま、ひっそりと二十歳を迎えた。
はたから見れば、二人はどこか不釣り合いに見え、高校進学を機に疎遠になっても不思議はなかっただろうが、訳があり途切れることなく今も関係が細々と続いていた。
マグカップが運ばれてくる。すかさず俊彰はカップを両手で包む。なみなみと注がれた珈琲のぬくもりによって、かじかむ指先に血が廻ったのか、心地良さそうに表情を崩す。
「今日も寒かったよね。私も真っ先にカップで手を温めたわ」
「まだまだ寒い時期だしなあ。手袋してくればよかったよ」
はあと腑抜けた顔をする俊彰に、天音は口元をほころばせた。