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アイ シイ

作者: 渚のいん

2009年に同人誌『Spファイル』に掲載した小説です。

2012年末に世界が滅ぶというマヤ暦の予言騒動を背景にしていますので、当時のオカルト界隈を知っている方には懐かしく感じてもらえるかも。

タイトルは「I C」であり「I She」であり「I See」でもあります。

解釈はご自由に。


※pixivに掲載済みのものを加筆修正して投稿しています。

 僕は一人だった。

 今も一人だ。

 でも、あの時あの子がいた。

 そしてまた、あの子に会える日が、やってくる。


 あの子は僕の救いだった。

 たった一つの救いだった。

 彼女が居たから、僕は生きていられたと言っても過言ではない。

 2000年、小学校六年生の時、僕は毎日教室の自分の席で、ただ校庭を眺めるのが日課だった。

 当時僕に友人はいなかった。

 それどころかいじめられていた、と言ってもいい。

 暴力やいやがらせがあったわけではない。

 ただ、無視されていたのだ。

 きっかけは分からない。

 ひょっとしたらそんな物なかったのかもしれない。

 とにかく、僕は学校で一言も喋る事もなく、話しかけられる事もない。

 そういう毎日を送っていた。

 それでも僕は学校に通い教室に居続けた。

 彼女が居たから。

 僕の隣の席に、彼女は座っていた。

 黒い長髪を垂らした背筋を伸ばし、黒い長袖の膝丈ワンピースの腿に白く小さい手を置き、黒いゴム長靴に包んだ両足をしっかりと床に下ろして。

 彼女はいつもその恰好だった。

 どんな時もどこにいても、まるで制服であるかのように同じワンピースと長靴を纏っていた。

 真正面を向いたまま一ミリたりとも動かない彼女が、僕には人形が座っているように見えてならなかった。

 それだけ彼女は奇妙で、作り物めいていて、美しかった。

 彼女の美は、着せ替え人形の親しみ易さではなく、ビスクドールの清純さでもなく、言わば球体関節人形の不穏さに近しい物、生きたものの気配がしないそれに思えた。

 肌は滑らかだった。溶いた石膏を塗り磨き上げたように。

 髪は艶やかだった。黒く染めた絹糸を紡ぎ束ねたように。

 そして、瞳は虚ろだった。南洋の黒真珠を詰め込んだように。

 彼女も僕を無言をもって虐げていたのだが、それは僕にとって何の障害でもなかった。

 当然だとすら思った。

 人界からかけ離れたこの美少女が、自分のような存在に気を留める事など有り得ない。

 僕はただ毎日彼女の横顔を、紅と桃の間の色をした唇、細く睫毛の長い目、少し尖った鼻、冷たそうな頬で構成された、異様なほど均衡の整った横顔を一日に一目だけでも見る事だけが喜びであったし、それで満足だった。

 彼女が存在する。

 それだけで、僕は日々に耐え抜いてきたのだ。

 だから、信じられなかった。

 あの子が僕に話しかけてくる日が来るなんて。


 その記憶は、夜桜の下から始まっている。

 ゴールデンウィークの少し前、塾の帰り道での事だ。

 塾は個人経営の小さなもので、生徒は全て同じ学校の子供だった。

 僕の同級ばかりではなく他のクラスの子もいたが、いじめの標的というのは容易く伝播するらしく、それはつまりあの無視がここでも続く事を意味していた。

 親から強制されていなかったら、今すぐにでも辞めたかったし、それが無理ならさぼってしまいたかったがそうもいかなかった。

 塾の経営者が母の知人だったから。

 なので、週三回の授業を僕はなるべく淡々とこなし、講師に軽く礼だけを済ませると、小走りで日の暮れた帰路を逃げるように急ぐ。

 その日もそうするはずだった。

 唯一違ったのは授業が少し伸びていつもより帰りが遅くなった事と、何気なく立ち止まり空を見上げた事だった。

 その時僕は、それがゆっくりとゆっくりと、空を横切っていく所を見た。

 三つの赤い光が、底辺の長い三角形に並んで点滅しながら飛んでいた。

 始めは飛行機かヘリコプターかな、と思ったけれど、しばらく見ているとそうじゃない事に気付いた。

 この近くを飛んでいく飛行機なんかない。

 もう二年近くここを通って家に帰るけれど、こんな時間に飛行機を見た事はない。

 勿論ヘリコプターもだ。

 だから、あれは空飛ぶ円盤だ。

 UFOだ。

 そうに違いない。

 胸の中に興奮が押し寄せるのをじっと耐える。

 周りを歩く人たちはどうやら気付いていないみたいで、立ち止まって上を見ている僕を怪訝そうに避けていく。

 僕だけだ。

 僕だけが見付けたんだ。

 雲の中に消える光を見送ると、僕は堪らず本気で走り出した。

 嬉しかった。

 自分だけが、あんな凄い物を見られるなんて!

 惨めな自分の境遇も、その時は忘れる事が出来た。

 あいつらはこんな物見た事ないだろう。

 見る事もないだろう。

 僕が、僕だけが発見出来たんだ。

 ざまあみろ。

 僕は、お前らとは、違うんだ。

 だから僕はその事を誰にも言うつもりはなかった。

 親にも先生にも、勿論あいつらになど欠片も教えてなるものか。

 僕だけの秘密、そう考えていた。

 こみ上げる優越感の笑みを我慢しつつ家路を急いでいたその時。


「ケネス・アーノルドを、知っているかい?」


 まるでラジオから流れたような、若干ノイズ混じりの、でも妙に耳当たりが良い高音が僕に投げかけられた。

 それが僕が初めて聞いた彼女の声だった。


 帰り道の途中にある病院の駐車場に差し掛かったところだった。

 その端にある大きな桜の木の下に彼女は一人立っていた。

 終わりかけた花が敷き詰められた、不思議なほど人通りの絶えた歩道に、街灯が投げ落とした木の影と等しく黒く。

 長袖のワンピース、ゴム長靴、黒く長い髪と、白い顔。

 見間違う事なく、彼女であった。

 それでも、僕は自分の正気を疑った。

 有り得ない。あの子が僕に、語りかけるなんて。


「ケネス・アーノルドを、知っているかい?」


 だけど、彼女はもう一度その薄紅の唇を開き、朱の舌を震わせる。

 ゆっくり現実感が戻ってくる。間違いなく、あの子は僕に話している。


「え……あ、いや……」


 人はあまりに嬉しいと、むしろ動揺するのだろうか。

 ケネス・アーノルドという名前に聞き覚えがない、

 それを思い出すまで数秒かかった。

 不明瞭な答えを返しながら、ようやく僕は首を振った。


「1947年6月24日アメリカワシントン州レーニア山付近の上空で、九機の飛行物体を目撃した男性さ。そう、彼の目撃がきっかけで、アレはこう呼ばれるようになった」


 不意に彼女が僕を見つめた。

 見つめるというより凝視というレベルで、細い目の奥の、表情のない漆黒の瞳が僕を射抜く。


「空飛ぶ円盤、と」


 ああ。

 僕の喉が声にならない音を上げる。

 知っている。

 僕が見た物を、僕が見た事を。

 彼女は全てを知っている。


「以降多くのUnidentified Flying Object、つまりはUFOが関係する事件が起きている。代表的な物だけでも、1947年6月アメリカニューメキシコ州ロズウェルにUFOが墜落し、その残骸と乗員を軍が回収したロズウェル事件。1948年1月同じくアメリカケンタッキー州でUFOを追跡した空軍機が墜落したマンテル大尉事件。1961年9月ニューハンプシャー州でバーニー・ヒル、ベティ・ヒル夫妻がUFOの乗員に誘拐されたヒル夫妻誘拐事件。日本でも1972年高知県高知市介良で中学生が小型のUFOを捕獲した介良事件や1975年山梨県甲府市で2名の小学生がUFOを目撃し乗員と接近遭遇した甲府事件が挙げられる」


 それは僕が知らない言葉だった。言語としてではなく知識として自分の領域にはない言葉だった。


「この中でもロズウェル事件を契機に、アメリカ国内でUFOに関する情報を隠蔽する動きが見られた。マジェスティック・トゥエルブと呼ばれる大統領直属委員会だ。更に同事件で回収された乗員の遺体の解剖も行われた。一九九五年に公開されたそのフィルムを見た記憶はないかな。その報復、という訳ではないだろうが、ヒル夫妻事件のようにUFOに連れ去られ何かしらの実験を施された被害者が全米でおよそ一100万人存在する。一般的に言うエイリアン・アブダクションだね」


 一拍置き、彼女は続ける。


「このように敵対するかのような事例だけではない。ジョージ・アダムスキー、ビリー・マイヤー、ラエル等の元には地球人類の未来を案じた友好的知的存在によるコンタクトが行われているし、惑星ウンモより飛来したユミットは様々な手紙を介して有力な情報を伝えてくれている」


 彼女は動かない。

 ただ口元だけが圧倒的な情報を吐き出し続ける。


「君が見たのは三角形型未確認飛行物体で、ジョセフ・アレン・ハイネックの分類による夜間発光体、Nocturnal Lightsだね。典型的な種類と言ってもいい」


 不意に彼女が笑った。

 ただ唇の両端だけが吊り上っていく、不思議な笑み。

 余りに彼女に似つかわしい、笑顔。

 それで充分だった。

 僕と会い、僕と話すために彼女がここにいるのだと、ようやく僕は実感出来た。

 彼女の言葉は一言一句頭に残っている。

 忘れなどしない。

 僕のために、僕だけのために、彼女は世界の本当の姿を教えてくれたのだ。

 でも。


「どうして……」


 そう呟いた声がしわがれているのに我ながら驚く。


「どうして、僕に……」


 唐突に彼女が小首を傾げた。

 まるで発条仕掛の玩具めいた動作だった。


「どうして、かって?」


 より大きくその唇が曲がり、間から眩く白い小さな歯が覗く。


「君は、幸運だ」

「え?」


 訳が分からず問い返すと、彼女は濁った空を見上げ、あの光が飛び去った辺りを見つめた。

 僕も釣られるように見上げるが、そこには雲だけが重く広がっているだけだった。

 どのくらいそうしていただろう。

 ぽつり、と彼女が言う。


「選ばれたのだから」


 翌日、学校に向かった僕を待っていたのは失望だった。

 彼女は何も変わっていなかった。僕に一瞥もくれずただただ前を向いていた。

 話しかける隙すらない。

 拒絶の雰囲気を、その綺麗な側面から放っていた。

 だったら、あれは何だったんだ。

 あの二人きりの夜、世界の真理を僕に教えてくれた昨日の夜は?

 それを問う事も当然出来なかった。

 僕はただ悶々とその日を過ごすしかなかった。

 いや、その日だけではなかった。

 結局彼女と僕が言葉をかわすことはないまま、時は流れ続けた。

 あれから塾の帰り道に空を見上げる習慣がついた。

 もう一度UFOが見られれば彼女と話せるかもしれない。

 そう思ったから。

 でも、あの夜以降、僕は一度もUFOらしき光を見る事は無く、季節は梅雨時に入っていた。

 連日の雨が否応なく僕の心も曇らせ、自暴自棄になりつつあった。

 結局都合の良い夢を見たのだ。

 そうやって自分を強引に納得させようか、と思っていたある日。

 もう一度、彼女が話しかけてきた。


 煙るような雨の中、僕は土手沿いの小道で立ち止まり川を眺めていた。

 川は前日の豪雨で増水して、河原まで濁流が押し寄せている。

 いつもの通学路ではなかったが、何か大きな物が見たかった。

 鬱屈した気分が晴れるように。

 舗装されていない道はぬかるみ、通る人もほとんどいない。

 僕は傘を差し、足元を泥だらけにしながら、川を見続けていた。

 と、何気なく流れの中程を見た時だった。

 黒い影が水中を過った。

 一瞬、流れと逆らうように波が立ち、消えた。

 影はその波と同時に消え、残ったのは濃い茶色の、荒れた水面だけ。

 何か、生き物みたい……

 そう思いついた瞬間、鳥肌が立った。

 普段でもそんな綺麗とは言えない川だ。

 そこそこ大きな一級河川ではあるけれども、ネッシーのような怪獣がいるなんて冗談にも聞いたことが無い。

 でも、今僕が見たのは、確かに生き物だったように見えた。

 大きさは10mぐらいあっただろうか。

 比較的水面に近い場所を、川を遡って泳いでいった。

 思い返せば、長い首をしていたようにも見えた。

 しっかり記憶にその姿を留める。

 何度も何度も思い返す。

 忘れてしまってはいけない。

 頭の中に今見た物を描き出す。

 恐竜図鑑で見た首長竜とよく似た姿を。

 あの時に見たUFOのように。

 今では目を閉じれば細部まで思い出せる。

 何度も何度も思い出していたのだから。

 あの三角形の、ステルス機に似たフォルムをした、輝かんばかりに光を灯した巨大な宇宙船。

 僕だけが見た、僕だけのスペースシップ。

 そして、彼女の、言葉。

 本当は、夢でなどあってほしくはない。

 何か事情があるに違いない。

 でも、そんな事言っても無視されているのは事実で。

 いやでも……

 引き摺られるように表れた思いがループする。

 それを断ち切るように、僕は今見た物を懸命に記憶に刻み込んでいた。

 だから。


「ニンキナンカを、知っているかい?」


 機械を通したようなその声が背後から投げかけられたその時、僕は幻聴を聞いたと思った。

 まさか。

 首筋が痛むほどの勢いで僕は振り返った。


「ニンキナンカを、知っているかい?」


 彼女だった。

 傘も差さず、あの夜のように。

 雨がそこだけ切り取られ運び去られたように、ぽっかりと彼女は浮いて見えた。

 黒が雨を受け入れないのだろうか。この天気にはおかしくないはずの長靴でさえ、違和感を覚えるほどだった。

 理由はすぐに分かった。

 彼女は濡れていなかった。

 雨は容赦無くその全身に降り注ぐ。

 だが、雨粒は全て彼女の体を滑り落ちていく。

 髪も肌も服も、まるで蓮の葉のように雨を弾き、ただただ水滴だけが休む事無く、路上の水溜りに溶けていく。長靴にも泥はね一つ見られなかった。

 それは神聖ささえ感じる光景だった。

 彼女は淡々とアフリカのガンビア川に現れる巨大水棲獣の説明を続ける。

 オーストラリアのホークスベリー川、アメリカのボトマック川にもそういった未確認動物がいるとも彼女は教えてくれた。

 僕はその言葉を貪るように聞く。

 長い睫毛を伝わった滴が目の中に入っても、彼女は瞬き一つせず、眼球を水が伝わるままにしていた。


「ここからほんの少し下れば、そこはもう海だ。海には様々な未確認動物がいる。カナダ、バンクーバー島沖で目撃されたキャディ。イギリス、ファルマス湾のモーゴウル。バハマ諸島のブルーホールに潜むルスカ。それに古くから多くの目撃報告がなされている大海蛇。そんな存在の一つが君の前で川に入り込んだとしても不思議は無い」


 彼女はあの時の彼女だった。

 世界の真実を囁く巫女、あるいは御使。

 そう。

 僕は悟った。

 世界は、通常目に見えている物だけが全てではない。

 隠された裏の面が存在するのだ。

 彼女は僕がそれを見た時に語りかけてくれる。

 何故か。

 彼女は言っていた。


『選ばれたのだから』


 と。

 つまり、その一面を目撃出来るのは、選ばれた人間だけなのだ。

 そして、その真実を知っている彼女もまた選ばれた存在なのか。

 いや、ひょっとしたら選ぶ側の存在なのか。

 でなければこんな事を知っているはずがない。

 彼女が学校で僕に話しかけない理由も分かった。

 僕以外、選ばれた者以外にこんな話を聞かせる訳にはいかないからだ。

 世界の表しか分からない、愚かしい奴らには理解出来ないだろうからだ。

 僕が無視されているのもそれが原因ではないか。

 奴らが見えない真実に触れられる僕を、その理由が分からないまでも本能的に危険だと判断して、その集団から省く事にしたのではないか。

 なんて、哀れでちっぽけな連中。


「そうだね」


 彼女が頷く。

 僕が考えている事を彼女は読み取ったらしかった。

 やはり選ぶ側だ。


「彼等も喜んでいる。君がそれに自力で気付くほど聡明であった事を」


 彼女が空を見た。

 彼等。

 それが彼女の属する存在か。

 そして、それはきっと空からやってくるのだ。


「この世界の裏側、そこに彼等はサインを仕込んだ」


 すっ、と彼女が僕を指差した。

 細い指先から雨粒が零れる。


「それを見る事が出来る人間、真実の世界を受け入れられる人間、そう、君のような人間を選び出すために」


 そうだったのか。

 歓喜が全身を震わせる。

 やっぱり僕は、選ばれたのだ。


「でも、君は未熟だ。もっと彼等に近しい知識を持つべきだろうね」


 彼女が唇だけの笑みを浮かべた。僕にはその顔が慈愛に満ちた聖母のように思えた。


「だから、これからも色々教えてあげよう。君がそれに出会う度にね」


 僕は雨が入ったふりを装って目を拭う。

 でも、多分彼女は見抜いていただろう。

 僕が感涙していたことを。


 以降彼女と話す機会は、そう多くなかった。

 彼等のサインは巧妙に隠され、まだその知に疎かった僕にはそうそう気付けなかったからだ。

 それでも、根気強い彼等は僕にサインを送り続け、なんとかそれを僕が受け止めた時、彼女は僕にその愛らしい口を開いてくれる。


「ファフロツキーズ現象を、知っているかい?」

 そう言ったのは、夏。

 水場から遠く離れ、両脇を高い塀に挟まれた裏路地でマンホール上に干からびた、三匹の蛙を見付けた時だ。


「ミステリーサークルを、知っているかい?」

 そう言ったのは、秋。

 ススキが生い茂る空き地を通りかかると、その真ん中辺りが不自然に折れ曲がっている事を発見した時だ。


「コソのプラグを、知っているかい?」

 そう言ったのは、冬。

 夜の工事現場で、土の中から何に使うのかいつの物なのかも分からない機械の部品を拾い上げた時だ。

 彼女はそれを一つ一つ解き明かし、それに関連する知識を伝え、それが如何に彼等によって仕組まれたかを説明してくれた。

 こうして僕の曇った頭に、彼女は大よそ一年をかけて光明を射してくれた。

 そう、一年。

 それが彼女と過ごせた時間。

 卒業式の前日、彼女は僕の前から消えた。


 その日僕はあの桜の木の下、初めて彼女に話しかけられた場所に向かい、夜道を駆けていた。

 呼ばれているような気がして、僕はこっそり家を抜け出した。

 午前一時。

 寒さが日に日に和らいでいく季節とはいえ、深夜の空気は身を引き締めるように冷たい。

 吐いた息も白く天へと溶けていく。

 彼女は、やっぱりそこに居た。

 まだ固い蕾をつけた木の根元に、いつものように黒く、彼女は立っていた。

 彼女に「知っているかい」と問いかけられるよりも早くその姿を見付けたのは、この時が最初で最後だった。


「やっぱり……」


 思わず呟く。


「マヤ歴を、知っているかい?」


 それが聞こえてなどいないかのように、彼女は言う。

 これも初めてだった。

 僕が何のサインも見ていないのに、彼女が真実を語り始めるなんて。


「古代マヤ文明で用いられていた暦さ。マヤの人々は長期に渡る時間の流れをその暦で表現してきた。そのサイクルはこうだ。一日をキンと呼び、20日で一月となる。これがウィナル。18か月、つまり18ウィナルで一年、これがトゥン。20トゥンで1カトゥンとなり、20カトゥンで1バクトゥンだ」


 なんとか暗算で一バクトゥンが何日分に当たるのか計算しようとしたが、無理だった。

 とにかく壮大であろう、としか分からなかった。


「そしてバクトゥンが13回巡ってきた時、マヤ歴は終わる。その日数は187万2000日、約5125年」


 もっと壮大な数が出た。

 でも、それが何なのだ。これまでのサインと何の関係があるのだ。

 僕は訝しげな顔をしたのだろう。彼女が諭すように言った。


「つまり、この暦が終わる日が、人類の終わる日なのだよ」


 一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。

 人類が、終わる?

 その言葉の意味を受け入れる間もなく、更に彼女は衝撃を投げつける。


「マヤ歴の始まりは紀元前3114年8月13日。それから13バクトゥン後、人類終焉の日、それは2012年12月22日。あと、1年と9か月ばかりだ」


 信じられなかった。

 信じたくなかった。

 人類が滅びる。

 今ある全ての人が死に絶える。

 僕も、家族も、彼女も、死ぬ。

 それでも、信じるしかなかった。

 だって、彼女が教えてくれたのだ。

 真実以外、有り得ない。

 彼女はその時何が起きるのかも語り出したのだが、いつものように詳しくは覚えられなかった。

 フォトンベルトや極大期、といった単語をおぼろげに記憶しただけだった。


「驚いただろう。恐ろしく思っただろう。でも、その為に話したのではない。本題はこの後だ」


 彼女が一歩僕に近付いた。

 風が動いたけれど、彼女の温度も匂いも、そこには含まれていなかった。


「彼等は選んでいる。君のような人間を。2012年12月22日、人類最後の日から救い出すに相応しい、新たなる同胞を」


 崩れかけた足元が、その瞬間強固な大地へと変わるのを、僕は感じた。

 闇に閉ざされた空が、その瞬間光に満ち溢れるのを、僕は感じた。

 そうだったのか。

 これが選ばれたという意味だったのか。

 生き残るべき人類、優秀な人間、未来を担う者。

 それが、僕。

 かつてない自信が内に宿る。

 どこかで疑っていた自分自身を、今なら完全に認められる。


「これで君に教えるべき事の全てを伝え終えた。この日を迎えられた事を本当に嬉しく思うよ」


 どこかいつもより優しげな声で言うと、彼女は右手を伸ばした。その意味が分からず戸惑う僕に、彼女はあの玩具めいた動作で小首を傾げる。


「握手だよ。君たちが別れの時にする行為ではないのかい」


 少し前、そうほんの数分前なら、僕はその言葉に人類滅亡を聞かされた以上のショックを受けていただろう。

 でも、今は違う。

 彼女は任務を果たしたのだ。だったら笑顔で送り出さなければ。


「また会えるのかな?」


 精一杯の微笑みで彼女の手を握りながら僕は尋ねた。

 その整った蒼白の手の感触は今も残っている。

 外気と変わらぬ冷たさと内側に空洞を秘めた硬さの肌をしていた。

 それは幼い頃買ってもらった怪獣のソフトビニール人形の手触りにそっくりだった。

 初めて触れた彼女は、あまりにも彼女だった。


「迎えに来るよ」


 彼女が笑う。いつもの口だけの笑み。


「待ってる」

「ああ」


 彼女が手を放し、背を向ける。

 足音も立てずに去っていくその姿が角に消えるまで、僕は息をするのも忘れ、見送ったのだった。


 そして今。

 2009年夏。

 僕はアパートの自室でその日を待っている。

 彼女が去ってからも僕の日常は変わらなかった。

 小学校から顔触れの変わらない中学でも、同じ中学から入学した奴らが僕の扱いをばらしたであろう高校でも、結局僕は無視され続けた。

 一つだけ違うのは、それを僕も望んでいた事だろう。

 どうせ、あと10年もせずに死んでしまう愚民と交る必要もない。

 とは言えそれを言葉に出して問題を大きくするのも嫌だ。万が一僕が選ばれた存在だと知れたらどんな騒ぎが起こることか。

 だから出来るだけ僕に係わらないでほしかった。

 そういう意味で、僕は概ね理想通りの学校生活を送られたと思う。

 大学進学を選んだのも、進学を望む両親への最後の親孝行の感覚だった。

 どうせもうすぐ死んでしまうのならこのぐらいの夢は見せてやろう。

 それも選ばれた者の慈悲じゃないだろうか。

 だって、本当なら必要ない。

 彼等の仲間になるのに、どうして地球の学問なんか学ばなければならないんだ?

 必然的に授業は休みがちになった。

 その代り僕はひたすら調べ物に熱中した。

 彼女との別れ以来、僕は超常現象関連の本を読み漁るようになっていた。

 小遣いやお年玉は大半が本に消えた。

 中学への進学祝いでノートパソコンを手に入れると、そこにネットも加わった。

 一歩でも彼女に近付きたい。

 その一心で僕は学び続ける。

 これが彼女と心を通わせ、彼女を理解する唯一の手段なのだ。

 今日もベッドに座り、僕は本を読んでいる。

 マヤ歴とアセンションに関する本。

 少しは期待して読んだのだが、やっぱり的外れな事しか書いていなかった。

 次の次元なんて人類にあるはずがない。

 その日に滅びてしまうっていうのに進化するはずないだろう。

 一時はこういった本の作者にも、僕同様選ばれた人がいるかと思っていた。

 しかし様々な本を読んで僕が知ったのは、結局真実を知る選ばれし者は僕だけだという厳然たる事実だった。

 そろそろこんな愚劣な物と縁を切るべきかな。

 本を投げ捨て、僕はベッドに身を横たえる。

 と同時に、呼び鈴が鳴った。


「宅急便でーす」


 思索の邪魔をしやがって。

 舌打ちしながら僕は起き上がる。


 届いたのは実家からの荷物だった。

 一抱えほどの段ボール箱の中には、米やレトルト食品、缶詰などに混ざって、大きく薄い包みが入っていた。

 何だろう。

 包装紙を破り、出てきた物に僕は顔をしかめる。

 小学校の卒業アルバムだった。

 同封された手紙には家を大掃除したら見つけたので送りますとあった。

 懐かしいでしょう、という文が吐き気を誘う。

 配られてから一度も開いた事すらない物だ。

 何一つ思い出したい出来事などない小学校生活を振り返りたいはずもなかろう。

 ……いや、一つだけ。

 彼女の顔だけはもう一度見たい。

 記憶の中のその顔が薄れる事はないが、でも一回確認ぐらいはしてみたい。

 僕は自分のクラスのページを探す。

 あった。

 集合写真と個人写真が並ぶ中から、僕は彼女を探す。

 幾ら選ばれし者として心が鍛えられていても、自分を苛んでいた奴らの顔を見続けるのは苦痛だ。

 彼女という目的がなければ一生避けて通りたい苦行だ。

 さて、あの子はどこか、な……

 ………あれ。

 いない。

 どこにも、彼女が、いない。

 一年間隣の席に座っていたはずなのに。

 毎日毎日その横顔に見惚れていたはずなのに。

 彼女の顔がない。

 そんな、そんな馬鹿な。

 何度も何度も僕はアルバムを見返す。

 だって出席番号順に並んでいるからここに……

 いや、ちょっと待て。

 彼女は何番だった?

 彼女?

 彼女の名前は、何だ?

 そう言えば聞いた覚えがない。

 誰かが彼女の名を呼ぶ声も聞いた事がない。

 それどころか、彼女が誰かと話していた記憶も、彼女について誰かが話していた記憶も、ない。

 気持ち悪い。

 視界が歪む。

 息が詰まる。

 胸が苦しい。

 吐き気が止まない。

 まさか、まさか、まさか。

 待て。

 だとしたら。

 僕が見た物は。

 本当に、見たのか。

 彼女の言葉?

 それは本当に彼女が言ったのか?

 まさか、いや、そんな。

 記憶が、順番が。

 待て待て待て。

 それは、いや、それだけは。

 彼女は、あの子は、本当はいな……


 ……僕は手の中の物を段ボールに投げ入れる。

 何だか分からないが物凄く穢れた物に感じたからだ。

 食料品を出し、その汚物だけが入った箱を、僕は押入れの奥に詰める。

 あれが何かは知らないが、これでもう思い出すことすらないだろう。

 急に安心した僕はベッドの上で膝を抱える。

 あと三年。

 たった、三年。


 僕は一人だった。

 今も一人だ。

 でも、あの時あの子がいた。

 そしてまた、あの子に会える日が、やってくる。


 やって、くる……… …

2024年12月1日に東京ビックサイトで開催される文学フリマ東京39で、UFOや超常現象など、我々の世界をささやかに彩る事象を、肯定/否定などの立場を越えて慈しむサークル「Spファイル友の会」(G-59)から『UFO手帖9.0』が頒布されます。

小説ではありませんが私も「UFOと漫画」というエッセイで参加していますので、ご来場の際はぜひお立ち寄りを。

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