再会・前編
近所のお姉さんは「私ね、神になるんだ」と言い残して消息を絶った。事件性のない、そよ風のような失踪だったが、異常でないと言えば嘘になる。あれから20数年後、彼女は突如として私の目の前に現れた。私は、職場でアフリカゾウのように叫んでしまった。「ね、言ったでしょ」
お姉さんは昔と変わらない姿で、診察室の椅子に腰をかけ、精神科医である私を柔らかい眼差しで見つめていた。
当時と同じ水色のカーディガンは色落ちしたり破れたりするどころか、まったく新しい柔軟剤の香りを漂わせていた。
丁寧にアイロンがけして、ほこりのないクローゼットに吊るしておく。きっと、そんな生活を今でも続けているのだろう。
濃褐色の髪は、窓から取り入れた斜光とふくよかに馴染んでいた。
自然な目元、優しく傾いだ鼻筋、気取らない眉。秀麗でありながら素朴さを兼ね備えたお姉さんは、下町でみんなに愛されていた。
商店街のおじさんやおばさん、公園で遊んだ子どもたち、通学路を行き来するネコたちすらも彼女を拠り所にしていた。
思い出と変わらない仕草が水晶体に動き、それが私の心を打った。懐かしかったのだ。
「久しぶり……ですね」と私。
お姉さんの姿は変わっていなかったが、私の体は老けていた。だからどう接するべきか迷った。
書類の散乱したデスクから、覚束ない動作でペンを掴み、カルテを手元にやる。それらは床に滑り落ちてしまった。気が急いていたのだ。
拾おうとすると、ペンとカルテが宙に浮いた。まさかと思い顔を上げる。お姉さんは道具を指さし、屈託のない笑顔で、私の手元にそれを返した。テレキネシス(超能力の一種)が使えるのだろう。
「ありがとうございます」
「いいよ」相変わらずの安らかな声でお姉さんは言う。「それよりね、今日は君に話したいことがたくさんあって来たんだ」
そういえば、私は電話越しに予約する彼女を、当時のお姉さんと同定できなかった。
お姉さんの声は、たしかに覚えている。しかし、予約をする彼女の声は、大して心を揺さぶらなかった。そして、時の流れがそうさせたのか、話し方が大人びた気もする。
まあ、機械越しの声は純粋ではない。郷愁を伴わずとも無理はないのだ。
上の名前も下の名前も、かなりありふれていて、そういえば同じ姓名のお姉さんがいたな、とわずかに思い出すだけだった。
「ところで話し合いとは」
私がペットボトルの水に口を付けると、お姉さんは私に人差し指を向けた。すると私は当時の姿に戻っていた。泣き虫だったあの頃の自分だ。
白衣は蛇の抜け殻のようになり、ボトルは手から滑り落ち、水が床にぶちまけられた。白い裾がぐっしょり濡れたが、お姉さんはそれについて全く気に掛けなかった。
「腹を割って話したいから、申し訳ないけどその姿で我慢してね」
しかし私の姿はすぐ、元に戻った。それを見てお姉さんは狂喜した。今まで見たことない、トラウマを孕む昆虫のような笑い方だ。
膝のあたりに冷たい不快感を覚えながらも、白衣に身を包み、私は彼女の話を待った。
「えっとね、夢が死んだんだ」
思わず私はぽかんと口を開けた。私は、お姉さんが気を引くためにときどき脈絡のない冗談を言うことを思い出したが、それを加味しても突飛すぎる冗談だったし、言ったあとに見せがちな恥じらいもなかった。
「それはどういう」と私が聞いたときには既に、お姉さんは灰色の蛇に変身していた。
宙に浮かび、ボウフラのように踊り狂う。全身に蓮のような黒いまだら模様が広がっている。
「ここでいう夢はね、寝るときの夢でも将来の目標でもなくて、1匹の蜘蛛のことを指すんだ。世界には表と裏があって、裏には巨大な蜘蛛がいるの。その子が夢と呼ばれているんだ。
夢は人の魂を食べるんだ。魂といってもね、それは固形であり、雲のように漂っているかと思うと、確かなふわふわした感触を持っていて、赤ちゃんのように過去と未来を行き来するんだ。
ときどき魂は迷うの。そして、夢が綾なした相対性理論の蜘蛛の巣によって捕らえられるんだ。世界の裏側は、夢のバランスで成り立ってたけど、その子が死んじゃったからじきに均衡も崩れるんだ」
「お姉さん……いったい何を話しているんですか。というかお姉さん、その体は」
私は、弱ったヤスデのように丸まって吐き気をこらえた。恣意的な連想ゲームや、数を数えることで、なんとか現実逃避を試みる。しかし、やる必要はなくなった。私がその世界に適応したからだ。
「ごめんね、ちょっと難しい話だったかな」
お姉さんは大きく開いた口から霧状の毒を噴射しながら言った。その気味悪い歯並びは、図鑑で見る蛇の歯列と違いなかった。
いつの間にか中世風の王室に私たちはいた。薄暗く、声がほどよく反響する箱型の部屋だ。
ロウソクが光源であり、赤くて柔らかい王座の布に、お姉さんの影が何重にも投影されている。奥にある王座の上では、ふわふわ浮きながらお姉さんが舞っていたのだ。
八方に並んだ幾多の燭台は、鈍色の石煉瓦を怪しく浮かび上がらせていた。
適応したと思ったが、連続した思想の螺旋が、海馬を錐揉みしてくる。
「ああああああああ!」私は叫んだ。「ああああああああ!」
憐憫の薔薇が王室を満たした。
しかしそれらは情緒不安定であったので、赤色になったり青色になったりし、私はそれらが地面に投げかけた影を線でつないで、方程式という通信を編み出した。星座に似ていて、上と下がなくなるのを理解する。
さらに私は巨大な兜の金具が重なり合ったところに足を掛け、不安定な固着に躊躇しながらも、アラビアンナイトから月曜日の管理栄養士までを仰々しく爬行したのだ。
お姉さんは、蛇腹のまだら模様をアメーバのように伸縮させながら、私に新たなお告げを託した。
「印はいかなるときも綺麗な甲状腺ホルモンで、まるで死へと続く道が波縫いのように頷いたり仰いだりしながら、君のところに戻ってきたんだ。それが結果だよ」
王室の右側には、鉄格子の区切る小さな円窓があった。格子さえ並んでなければ、人ひとり侵入できるだろう。
窓の向こうは真っ暗闇だった。それは隣の部屋の暗がりかもしれないし、新月が醸し出す漆黒かもしれなかった。
すると1匹、カナブンのような甲虫が外から入ってきた。たくさんの光源に目移りし、不器用な軌跡を描いていたが、それはお姉さんの口の中へとすっぽり飛び込んでいった。
「えっとね、制動でできた説明も矛盾ならびに乱反射を脱ぎ捨てて、プラズマだけになったんだ。
うしろに説明だけをくってけて、迷宮を捕食しながら訝しさを太らせるためだけに。
だから概数に寄り添って、窓のなかから、毒へと枝分かれしているみじん切りの走りに永遠を付与して、記録してあった筋が洗面器のこだわりを切り抜き、迷妄から帯出している乱高下が憤怒して科学を敷き詰めたんだよ。すごいね」
私は右手に持っていた缶コーヒーを口に運ぼうとした。しかしそれも強大な衝撃波によって叩き潰された。お姉さんは相変わらず優しい声で語りかけてくる。
「新しさが並んでいるんだ。縦に。そうして飛来して、今日であることが鉱脈に限定される」
そして続ける。
「君のお母さんは私が殺しちゃったんだ」
「えっ?」
私は虚を突かれた。