クソガキメンタルは婚約できない!
伯爵家の両家はとある夜会で意気投合し、仲良くなった過去を持つ。
お互いに結婚した後に仲良くなったので夫婦どちらとも面識があるし、同じ年ごろの子を持ったということで益々仲良くなった。同じような苦労をしていると分かれば戦友じみた感覚さえ持ったのだ。
だからお互いの子が息子と娘だったのもあるし、婚約させよっか、なんて風になるのも別段おかしくはなかった。政略として考えると旨味はそうないけれど、まったく面識のない家との政略よりはいいか、と。そう思った上でだったのだが。
「おいブス。お前と結婚してやるんだ、感謝しろよ」
場が凍った。
齢十歳とはいえ、紳士として振舞えるように教育された貴族令息として有り得ない言葉が響いたからである。
発言者であるところの令息、ジェイコブは顔を真っ赤にして耳まで染めているのでいわゆる照れ隠しの暴言なのかもしれなかったが、一瞬で無表情になったのは女性陣である。空気の冷え込みに気付いていないのは男どものみで、いや思春期だねえとほのぼのしているようだが、娘の手を掴んだ夫人は容赦なく立ち上がった。
「ヒルダ、帰りますよ。この婚約はなかったことに」
「はいお母さま」
「えっ!?リンダ?」
「初対面の婚約予定者にこのような暴言を投げ掛ける男に、可愛い娘をやるつもりはございませんわ」
行くわよ、と娘と手を繋いでしずしず帰ろうとするリンダ夫人。
ジェイコブは己の母に手首を全力で握られて顔をしかめている。たおやかな夫人の握力と侮るなかれ。怒りでリミッターが外れているので骨が折れそうなほど痛い。
リンダ夫人と止めようとした夫は、しかし手を振り払われる。
「あなたは何をにこにこ聞き流しているのかしら。娘を罵られて喜ぶ趣味があるだなんて知らなかったわ、わたくし離縁を考えてもよろしいのよね」
「な、なっ、よくないよ!だってあんなの子どもの照れ隠しじゃないか!」
「十歳にもなって淑女を罵って喜ぶ変態の何が子供なのやら。
いいこと、照れ隠しでそういったことをして許されるのは精々五歳まで。それ以降は鞭打ってでも矯正すべきなの。
けれどそちらの夫君も、あなたも、ジェイコブを叱らなかった。ヒルダに耐えろと無言で押し付けた。そんな関係を許すと態度で示したの。
ヒルダの幸福に繋がらない親のエゴでしかない婚姻など、わたくしは決して許さないわよ」
淡々と告げる母にヒルダもうんうんと頷いて同意している。
どころか、可愛らしい口を開いて、
「お母さまのおっしゃるとおりです。わたし、罵られて傷付きました。あの人と結婚なんて絶対嫌よ。
初対面でこれなのだから今後も絶対あれこれ言ってくるし、そのたびに傷付かなきゃいけないのですよね?お断りです」
よく通る可愛らしい声ではっきりと己の考えを口にした。
本来令嬢がここまで己の意見を言うことはない。しかしヒルダにはリンダという母が付いている。そして彼女は途中で遮らず、発言を許してくれた。なので忌憚なく発言したのである。
真っ青な顔をして母の握力に耐えるジェイコブは涙目だ。痛いし悲しい。本当は前もって渡された姿絵に一目ぼれしていて、今日会った時に好きですと伝えるつもりだった。しかし出てきたのは暴言だった。クソガキメンタルがこんにちはしてしまったのだ。
そんな事情伝えたところでリンダもヒルダも鼻で笑うだろうし、己の母は握力を限界突破させて握っている右手の手首を粉砕するだけだろう。口走らなかったのはまだよかったことなのかもしれない。
代わりにとばかりにジェイコブの父が慌てたように、
「いやしかし、息子はヒルダちゃんの姿絵をそれは気に入っていて、今日の茶菓子も入念に選んでいたんだ。そう、本当はそんなこと思っていなくってね」
「そうですの。でも娘は傷付いたので婚約は有り得ませんわ。
わたくしとアンヌ夫人の友情に陰りはございませんけれど、ヒルダとジェイコブの間に愛は育たないと明確になっただけです。
子の世代は考えず、親同士は友情を温める。それでよろしいじゃないですか」
「そうよ、あなた。ジェイコブのやらかしでわたくしたちの間にある友情まで終わらなかっただけよしとなさい?
ごめんなさいね、ヒルダ。この愚か者のことは忘れてちょうだい。今後決してあなたの傍には行かせないし、近寄ったら折檻することにするから」
「まあ」
「当家は馬の教育に力を入れているから鞭はたくさんあるのよ。子馬用のものなら人間にも使えるから便利よね」
さわやかに言い切ったアンヌ夫人。それはつまり、ジェイコブが今後ヒルダに歩み寄ろうとしたものなら馬用の鞭でしばきまわす宣言である。
アンヌ夫人はたおやかで儚げだが、別に特別非力というわけではない。乗馬はするし、体重や体のライン維持のためにトレーニングにも熱心である。なので鞭をふるうくらいは全然できるし、問題は扱い方を知らないので軽く学習しなくてはいけないくらい。
そういう風に、母親たちはヒルダを最優先で守護る方針に踏み切り、ヒルダも女親の加護を感じて感動している。
母であるリンダ夫人が庇ってくれたことも勿論嬉しいが、あのジェイコブの母であるはずのアンヌ夫人まで味方なのだ。もし男親が血迷っても二人だけは絶対味方だと思えば心情がすごく楽だ。
子猫に無体を強いようとして母猫に思い切り威嚇されているような状況で、男親二人はさすがに婚約をあきらめざるを得なかった。
だって、ここで無理を通したら、多分お互い離婚が待っている。別居婚だって有り得る。良好だった夫婦関係に陰りが出ると分かっていて推し進められるほど妻への愛がないわけじゃない二人は、ジェイコブの初恋を犠牲にしようと決めたのだ。
大丈夫、だって初恋は実らないっていうし。
クソガキメンタルが芽生えてすぐのところ申し訳ないが、その芽はちゃんと磨り潰して根っこまでなかったことにしないといけない。だって、アンヌ夫人は鞭を持つことをためらわないから。
リンダ夫人は口撃でしばきまわしてくれるだろう。そうなったらクソガキメンタルだけでなく普通のメンタルも根こそぎ潰されて新たな人格が生まれかねない。ジェイコブ一度目の死である。
そういう感じで伯爵両家のお見合いはほんの一時間もかからず終了した。
帰宅したリンダ夫人は次の見合いに関してはわたくしがまず検討しますね、とにっこり笑顔で夫に伝えたし、検討する時は一緒に釣り書を見ましょうねとヒルダに提案していた。王都へ出荷するバターやチーズを主に生産している領地の主で、王家の食卓にも上がる上質さで売っているところもあるので、そんな家との婚姻となれば将来安泰だねという感じで見合い話はそれなりに来ている。まだ幼児の息子がいるので跡継ぎというわけではなく嫁入りになるのだが、けれど縁があって損はないだろうなということだ。
それをヒルダも分かっているので、提携し甲斐があって、素敵な人間性の旦那様を選ぼうとふんすんふんすしている。
そんな強~い母娘に、夫はただ萎びたナスみたいな状態で頷くばかりであった。
アンヌ夫人はといえば、たった三十分ほどで習得した鞭を片手に、息子と夫を睥睨していた。
こちらの家では二歳下に男女の双子がいるが、こちらはマトモである。兄のやらかしを聞いて「おにいさまばかなの~?」「そうなの~?」と天然で煽り散らかしたのは五分前だ。こちらにクソガキメンタルはなさそうである。
「さて。ヒルダとの婚約、勝手に進めようとしたら骨が見えるまで打ちますわよ」
「ひっ」
「接近禁止ですよ、もちろん。ジェイコブ、あなた茶会でも夜会でも距離を取りなさいね。いとこたちに見張らせますから、内緒で……なんて考えないことね。尻をぶつわよ」
「え……」
「殿方は肌を隠す服しか着ないからいろんな場所を鞭打ててお得ね。そうは思わなくて?」
にーっこり笑ったアンヌ夫人に、二人はもう顔面蒼白である。
「照れ隠しで暴言を投げ掛けるような息子に育てたつもりはなかったから、教育のし直しね。いいこと、極めて特殊な女性でなければ暴言はただの暴力なの。鞭打たれて喜ぶ趣味じゃないわよねえ、ジェイコブ?」
「い、いやです」
「その嫌なことをあなたはヒルダにしたのよ」
え……と今更理解したジェイコブ。おばかさんである。
だって、絵姿より何倍も可愛くて、目がキラキラしていて。緊張のあまりだったのだ。
確かによくなかったかもしれないけど、だけど。
「好きなら何をしたって許されるわけじゃなくってよ」
きっぱりした女性の意見――それに少年は大層落ち込んだ。
そして、初恋が終わったのを自覚した。だって、母がダメ出ししたくらいなのだ。いつもはあらあらと笑ってあれこれ世話をしてくれて、言葉でも態度でも可愛い息子として扱ってくれる優しい母が、こんなにお怒りなのだ。じゃあヒルダは絶対嫌いになった。好きになってくれないに決まっている。自分が失言したばっかりに。
ほろほろと泣くジェイコブ。
それを哀れに思いながら、アンヌ夫人は夫へと鞭の先を向ける。
「いいこと、あなた。あなたとわたくしは親の責任があります。
ジェイコブがやらかしたらわたくしたちが尻拭いするのですよ。そこをよく考えた上でジェイコブに接し、見守る必要がある。愛していても許してはならないことをよく考えなくては、ダメな親になってしまうわ。
愛しているからこそ厳しく言うことも必要なの。わたくしはそう考えているし、そう育てられたわ。だから、あなたにも厳しくすることを覚えて欲しいの」
夫はハッとする。妻と夫として過ごすばかりで、父親と母親として話し合うことはそう多くなかった。そして今まではそれで問題なかった。
しかし今、アンヌ夫人は夫である自分と意思疎通し、共感しあおうとしている。歩み寄ってくれている妻の手を振り払うわけにはいかない。だって愛しているから。
大きく頷いた夫に妻は微笑みを返し、腰につけたベルトに鞭を差す。
「ジェイコブ、次の恋では素敵な紳士として関係を深めるのよ。あなたは悪い子ではないのだからちゃんとしていれば大丈夫。
お父様とお母様がきちんと見守りますからね。不安な時は頼りなさい」
泣きながらこくこくと頷いたジェイコブ少年は、素直に愛情を伝えることを深く心に刻んだのであった。
その後、二人の子供たちは違う婚約者を選び、子供たちの親は以前まで通りに交流を続けた。
最終的にはこの距離感が一番心地よいなあ、なんて各々が思ったりしたものである。婚約はしなくてよかった、そう結論付けられるまでちょっぴり時間は掛かったけれど、人生なんてそんなものだ。