スタジオ・ソーマトーンにおまかせを
「ああ、これでおさらばか」
俺は崖から飛び出した車が地面に近づいていくのを運転席から見つめる。
ビックリするほどゆっくりと地面が迫ってくる。
何と馬鹿馬鹿しい最後なのだ。こんなはずではなかった。
俺の目の前に様々な場面が現れては消える。
七五三で撮った記念写真、その日に買ってもらった16ビットのゲーム機。
小学校の入学式で兄のお下がりのランドセルが恥ずかしかったこと。
嫌いな給食を机の中にこっそり隠している場面。
隣家の幼なじみ、華ちゃんを泣かせて怒られているところ…あれ?
「そうか。これが噂に聞く今際の際に見るという走馬灯か」
俺は作家になる夢を早々に諦めたものの、勤めていた会社でも出世できず、最近はプロポーズに失敗した。
残業につぐ残業のブラック会社でヘトヘトになり、クソ上司に怒鳴られてヤケクソの無謀運転、今カーブを曲がりきれずガードレールを突き破り、峠から崖の下に落ちているところだ。
これは間違いなく即死だろうな。30才か。まだこれからともいえるけれど、もう十分であるのかもしれない。夢にも破れ、幼なじみでずっと隣にいた「俺の華ちゃん」であるはずの愛しい女性にも振られた。
俺の人生、これ以上何か特別なことがあるとも思えない。
誰かを巻き込まなかっただけよしとするか。
俺の眼に映る人生のコマ送りはささやかに楽しかったことと沢山の辛かったことを見せている。
何だか圧倒的に後悔の方が多い。あの時こうしていれば、ああしていれば。
でも誰だってそんなものだと思う。
さらに走馬灯は続く。
中学生時代の性の目覚め…兄ちゃんの机の奥から引っ張り出したプレイボーイのグラビアだ。ああ、こんなもので大興奮していたとは。
高校時代のぼっち飯、卒業式の後のクラス打ち上げに呼ばれなかったこと、大学は文学部に入ったがゼミでエラそうにしすぎて孤立している場面…ここら辺からろくな思い出がないな。
作家を目指したものの編集からダメ出しばかりで諦めた日…うむむ?
そして先日、華ちゃんにプロポーズして…うん?
「おかしいだろう!間違っているぞ!」
俺は運転席でハンドルに齧り付きながら悲鳴をあげた。
こんな覚えはないという場面が多すぎる。何かの間違いだ。
「断固抗議する!こんな走馬灯は認めない!」
俺の目の前から地面が消えた。
「ええと、ご不満でしたか?」
真っ白な部屋の正面の壁に沢山のモニターと機材が据え付けられている。
「ここは…」
俺はいつの間にか座っているディレクターズチェアの感触に戸惑いながら目の前の二人を見つめる。
「あ、説明が先ですね」と黒縁丸眼鏡の若い女が愛想良く話しかけてきた。
「私、このスタジオ・SOMA-TONEのチーフディレクター、トーンと申します」
「チーフは私ソーマです。ソーマ!お間違いなく」
今度は長髪を後ろで縛った若い男が慌てて遮った。
二人とも揃いの白い繋ぎを着て、キャスター付きの黒い椅子に座っている。
「スタジオ・そうま…?」
俺が状況を呑み込めずボンヤリと繰り返すと眼鏡の女がニコリと笑って繰り返した。
「スタジオ・SOMA-TONEです。そして私がチーフ」
「違うって!チーフは僕のはずだろう、トーン!」
男の方がまた遮る。
「ふふん。顧客満足度調査で上だった方がチーフになる約束だったでしょう。交替よ、交替」
「たったの1ポイント差だったじゃないか!くそう!」
男が嘆いた。
「…あの、すみません。どういうことか説明を」
俺が二人の会話に控えめに割り込むと、女の方がハッとして俺の顔を見た。
「すみません!そうでした。説明させていただきますね」
トーンと名乗った若い女が椅子のキャスターをコロコロ転がして俺の正面に移動した。
負けじとソーマという男もぶつけるように俺の正面に割り込もうとする。
「ぶつけないでよ!ソーマ、邪魔。お客様に説明するんだから」
「何をっ!」
いい加減にしてほしいものだ。
俺は二人のドタバタぶりで逆に少しだけ冷静さを取り戻した。
「すみません。内輪の話は後にしてくれませんか」
「あっ、これはお見苦しいところを」とトーンが言う。
「お客様ファーストよ、ソーマ。あなたに説明をさせてあげる。こういう決定もチーフの権限ね」
「…!」
ソーマがトーンを睨み、また文句を言いかけたが今度は俺が遮る。
「いいから、ソーマさん…でしたっけ。説明をお願いします」
名前を呼ばれたソーマはピクリと動きを止め、スーッと息を吸い込んで真面目な顔になった。
「では、スタジオの主導権争いは後にして、改めまして…」
背筋を伸ばして、頭を下げた。
「スタジオSOMA-TONEは走馬灯の映像制作専門の会社です。この度はご愁傷様です」
「走馬灯…映像制作…ご愁傷様…」
俺は理解が追いつかず単語をオウム返しする。
「はい、皆様の人生の締めくくりを鮮やかに彩る今際の際の走馬灯。一度きりの、けれども最高の人生アルバムをあなたに!走馬灯なら!」
ソーマがそこまで調子よく言うと、トーンも声を合わせる。
「走馬灯なら!スタジオSOMA-TONE!」
俺は声を出すことも出来ないでいた。
死ぬ間際の走馬灯がそんなシステムで作られていたとは初めて聞いた。
しかしよく考えたら、見た奴はみんな死んでるんだから当たり前だ。
俺が戸惑っていると、ソーマは続ける。
「太郎さん、先ほどあなたの車が崖から飛び出しまして…まあ、これは即死間違いありません。今、当社制作の走馬灯をご覧いただいていたのですが…」
そうだった…
「ここはその走馬灯の制作会社…ですか」
呆然とした俺の手をトーンが握った。驚くほど温かい手だった。
「太郎さん、死ぬ間際で動転されているのは判りますが、あの『走馬灯』です。死ぬ寸前に見ることになっている『今際の際の走馬灯』…ご存じですよね?」
そうか、俺の手が冷たいのか。俺は力なく呟く。
「知っている。聞いたことはあるが…俺はもう死んだのか?」
ソーマが俺の肩に手を置いた。
「まだです。でももう時間の問題というか、もう死にます。残念でした。お気の毒です」
特に感情が入っていない言葉に俺は少しだけ苛立つ。
「…何がお気の毒だ。もう死ぬのは決定なのか?」
ソーマは肩に置いた手に少しだけ力を入れた。
「そりゃ死ぬ間際の走馬灯ですからね。もうじきご臨終という方が見ます」
トーンも俺の手をさらに強く握った。
「可哀想な太郎さん。あんなブラック会社に勤めたのが運の尽きでしたね」
俺は肩を落とした。
「で、いいですか?話を続けても」
ソーマは肩から手を離して下を向いた俺の顔を覗き込んだ。
「もう死ぬのだろう。何も望みなどないよ」
自暴自棄の俺は投げやりに言った。
「そんなヤケクソにならないで。前向きにいきましょう」
トーンも手を離して、俺の顔を覗き込む。
俺は顔をあげて二人に抗議する。
「死亡寸前の人間が前向きになれるわけないだろう」
「まあまあ、そう言わないで最後くらい明るく走馬灯を見ましょうよ」
あくまでソーマはにこやかだ。
「そうです。人生最後の映画みたいなものです。太郎さんは本とか映画とか好きだったじゃないですか」
トーンの言葉に俺は目を瞬かせる。
「だいたい君たちはどれだけ俺のことを知っている。どういう基準でこの走馬灯の場面は選ばれているんだ」
「ええとですね。映像自体は太郎さんの脳内にある記憶をザーーっと検索しまして、そこから記憶の強烈なものを編集して」
よくぞ聞いてくれましたという顔でソーマが説明を始めた。
「後は当スタジオが独自に編集しましてカット割りやエフェクトを施しましてね。今回も会心の出来だったんですが」
そうだ、思い出した。俺の記憶とは違うのだ。
「いや、おかしいだろう。事実と違うところがたくさんあった。死ぬのは仕方ないとしても、あんな間違いの走馬灯を見せられるのは心外だ」
俺のクレームに今度はソーマが目を瞬かせた。
「心外とはこちらも心外です。しかし私たちスタジオ・SOMA-TONEはお客様のクレームにもきちんと対応します。太郎さんは走馬灯のいくつかのシーンにご不満がおありと」
「あるね。おおありだ。間違いだらけだ」
俺が少し胸を張るとトーンは半笑いで応じる。
「間違いと仰いますが、映像自体は太郎さんの網膜を通して記録されたものを使用してますので…」
「待て。例えば幼稚園の時、隣の華ちゃんを」
「幼なじみの華ちゃん、何度も出てきますよね。好きだったんですね、太郎さん」
トーンがニヤニヤした。
「…そ、そんなことはいいだろう。華ちゃんのスカートめくりなんてした覚えは」
「いやいや、日課みたいにやってましたよ。毎日のように泣かせてたじゃないですか」
「馬鹿な」
「太郎さん、一度だけガキ大将の子が華さんのスカートをめくったとき、激怒して大げんかしましたね。あれで記憶を取り違えたのでは」
思い出した。俺は華ちゃんが小学校のボスみたいなガキ大将にスカートめくりされて泣き出したのにカッとなった。気がついたら体当たりして、もちろんその後ボコボコにされたんだ。
トーンが目をつぶってウットリした。
「とっても感動的です。自分の身体の倍くらいもある小学生に立ち向かうチビ幼稚園児…でも太郎さんのスカートめくりも事実ですよ。ほら」
モニターには幼稚園児の俺が華ちゃんのスカートをめくっては毎日のように泣かせている場面が繰り返し流された。
「や、止めてくれ。どうしてだ。そのガキ大将とのケンカ…というか一方的にやられたことしか覚えていないのに」
「華さんを泣かしてた方の記憶は自分でNGにして奥の方に押し込んだんでしょうね」
ソーマが両手でバツマークを作った。
トーンが続ける。
「太郎さんの中ではスカートめくりやってたのはガキ大将で、自分はそれをやっつける正義の味方。でも自分のスカートめくりは恥ずかしくて『なかったこと』になったんじゃないですかね」
「でも、太郎さん。自分はこれだけ華ちゃんのスカートをめくっといて、他の誰かがやるのは許せなかったんですね」
トーンがムフフフと俺を見る。
「愛ですねえ」
「ば、バカをいえ。そんな」
俺は慌てて次のクレームをつける。
「つ、次だ。作家の道を諦めたのはあの編集がもう諦めろと」
「ああ、この場面ですね」
ソーマがスイッチを操作してモニタに映像を映し出す。
画面は俺が編集部に原稿を持ちこんでいる場面、そうだ。お馴染みの編集者だ。何度か持ち込みをして、最後にここで会ったところだ。
編集部横の狭くて汚い応接セットで向かい合う俺とベテラン編集者…もはや懐かしい顔だ。
「太郎くん、これで何回目だろう」
「…はい、9回目になります」
「まだまだだな。ここからだ」
「ということは…」
「この短編ではまだ掲載は難しいね。例えばこの場面だ」
「…もう結構です」
編集者が驚いた顔を見せた。
「聞きなさい。まだ伸びると思っているからアドバイスを…」
「あなたは僕の原稿など読んでいないに違いない」
「そんなわけないだろう。落ち着け」
なぜこの人はこんなにムキになっているのだろうか。
「もう9回も没になってこれで落ち着いていられますか」
「9回なんか少ない方だ。太郎くん、何のために僕が時間を取っていると思うんだ」
「結構です。僕に才能などない。はっきり言ってください」
「だから…」
「もう来ません。サラバです」
編集部を飛び出ていく俺と、残念そうな顔の編集者。
…こんな馬鹿な。
「俺の記憶とは違うな」
「太郎さんの記憶ではどうだったんですか」
ソーマは興味深そうだ。
「俺は自分の原稿の駄目なところを丹念に検討して仕上げていったつもりだったんだ。それを編集者が『9回も持ってきても駄目なんだから才能がないに決まってる』とか『時間の無駄だから、これ以上手間を取らせるな』とか言われたはずだ」
俺は自分の苦しかった思い出をほじくりだした。
相変わらずトーンが冷静に分析する。
「太郎さん、会社の仕事と原稿の両立が苦しくなって相当テンパってたんでしょうね。結構親身になってくれてる編集の人も信じられなくなって、記憶が改ざんされてます」
ソーマも頷いた。
「そういうことってありますよね。自分の才能が信じられなくなって辛かったんでしょうね。逃げ出しちゃった苦い記憶ですね。ムフフフ」
なぜムフフフなのかよくわからないが、俺は後悔した。こんなに俺のことをちゃんと見ていてくれたのに…。
「待った。しかし!しかしだ。これは絶対おかしい。俺がこの間、華ちゃんにプロポーズした場面だ」
トーンとソーマが顔を見合わせてプーーッと吹きだした。
「あれは面白かったですね」とトーン。
「下手なドラマみたいでした」とソーマ。
「では見てみましょう」とトーンがモニターに再生を始める。
「い、いや、見せなくていい!見せるな、こら!」
俺は立ち上がってトーンを止めようとしたが、ソーマがニヤニヤしながら俺を羽交い締めする。
「こら!止めろ!見るな」
俺の声を無視して場面が映し出された。
会社が終わった後、俺は近所の喫茶店に華ちゃんを呼び出した。
大人になった華ちゃんも可愛かった。
「来てくれてありがとう。華ちゃん」
「タロちゃん、用があるって…」
「幼稚園からずっと一緒だったよね、俺たち」
「そ、そうね」
「華ちゃんが鼻水たらしてる顔だって覚えてる」
「帰るわね」
「ご、ごめん。ごめんなさい。帰らないで」
「…それから小中高となぜかずっと一緒だった腐れ縁の私に何か用なの?」
「えっとだね、うんと、えっと。その、あの、なんだ」
このコミュ障が俺なのか。
「タロちゃん。ちゃんと言って」
華ちゃんの真剣な顔が意外だ。この時、華ちゃんには笑われているとばかり思っていたが。
「お、俺は作家になるのはあきらめるよ」
「…」
「編集にもボロクソ意地悪を言われるし、才能がないのはよくわかった。華ちゃんのためにもキチンと仕事をしないとね」
こうやって華ちゃんの顔を傍から見ると、ちっとも嬉しそうじゃないな。
「…私のため?」
「そうさ。君に認めてもらえるような男になるんだ」
「それで夢をあきらめたと」
がっかりした彼女の表情…こんな顔してたっけ?
「華ちゃん、結婚して欲しい。もう無謀な夢は見ない。君のために出版社にも宣言してきた」
「お断りします」
華ちゃんは何でこんなに悲しそうなんだ。
「えっ」
「私がそれを頼みましたか」
「…」
「タロちゃん、私のために夢を諦めてください、と私が頼みましたか?」
何で華ちゃんは涙を流しているんだ。気がつかなかった。
「華ちゃん、俺は君のために」
「タロちゃんのバカッ!」
椅子から立ち上がり走り去る華ちゃん。
俺はブツブツ言っている。
「何だよ。勝手な女だ。どいつもこいつも…せっかく華ちゃんのためにと思って…何だよもう」
「面白いでしょう」
ソーマが俺を見てニヤニヤ笑う。
トーンも目尻の涙を拭きながらハーヒーと息を吐き出した。
「いやあ、ホント。今時珍しいほどのメロドラマ…楽しませていただきまして」
「うっさいぞ!お前ら!」
俺は怒鳴る。
「でも太郎さん、いったいどういう記憶だったんですか?」
トーンが不思議そうな顔をする。
「…俺が編集部で扱いが悪かったことを理由に作家になる夢を捨てると話したら」
「フムフム」
ソーマの合いの手。面白そうにしている。
「華ちゃんが俺の才能のなさに愛想を尽かして『バーカ!』と罵声を俺に浴びせて出て行ったという…」
俺の記憶はそうだ。俺は自分を被害者のように思い込んでいたのだが。
「太郎さん、その『バーカ!』とさっきの『タロさんのバカッ!』はだいぶ感じが違いますね」
トーンは俺の顔を覗き込む。
「こういうもんですよ。うまくいかないことや辛いことが多いと自分を被害者に仕立てたいと思うのが人間の弱さですよね」
ソーマはトーンを睨む。
「何をわかったようなことを。失礼だよ、トーン」
「ふう」
俺は小さく息を吐く。
「でもまあ、仕方ない。どうやら全部俺の記憶違い、勘違いだったようだ」
「太郎さん、人の記憶とは事実そのものじゃなくて『こうであってほしかった』という改竄の積み重ねですよ」
ソーマが真顔で言った。
「でも太郎さん、私たちは死亡するお客様ファーストです」とトーン。
「そうそう。もし太郎さんが望まれるのなら、画像やらセリフに修正を入れて太郎さんのお望みの走馬灯を作成しますんで、どうします?」とソーマ。
「…」
ソーマが言う。
「スカートめくりをしたガキ大将に立ち向かう正義の太郎さん、それから馬鹿編集者に意地悪を言われる運の悪い太郎さん、せっかく夢をあきらめてまでプロポーズしたのに『バーカ!』と言って立ち去る底意地の悪いアホ幼なじみ…」
「何だと!底意地の悪いアホとは何だ!華ちゃんに向かって!」
俺は思わずソーマの胸ぐらを掴んだ。
「まあまあ」
トーンがやんわりとその手を止める。
「そう望んだのは他ならぬ太郎さんですよ」
俺は再びがっくりと肩を落とした。
「その通りだ。俺が自分の弱さを認めなかったからだな…」
「いいじゃないですか。もう人生はお終いです。自分を見つめる啓蒙活動なんか必要ありません。楽しい走馬灯の方がいいに決まってます」
トーンは俺の手を再び握りしめた。やはり温かい。
ソーマの陽気な声が響く。
「皆様の人生の締めくくりを鮮やかに彩る走馬灯。一度きりの、けれども最高の人生アルバムをあなたに!走馬灯なら!」
「走馬灯なら!スタジオSOMA-TONE!」
「やはりこのままでいいよ。どんなでも俺の人生だ。惨めでも残念でも俺そのものだものな。もっと大切にしてやらないと」
俺は少しだけサッパリした気持ちで言った。
トーンがニコリと笑う。
「楽しませていただいたのに何も出来なくてすいませんね」
その時、壁の一番上にある赤い非常灯がクルクル回転し始めた。
同時にブーッブーッとけたたましく警告音が響く。
壁からプリントされて出てきた紙をソーマがちぎって読みこんだ。
「…なんてことだ」
ソーマの呟き。
「どうしたの。ソーマ」
トーンがその紙をひったくって覗き込む。
「あちゃーっ」
わけも判らず俺は二人を見た。
「どうしたんだ。俺の人生に何か問題点でもあって地獄行きとか」
ソーマが笑う。
「それは部署が別です」
トーンも少し困った顔で微笑む。
「それ以前の問題で…太郎さん、予定変更です」
「どういうことだ」
「死なないことになりました」
ソーマが何とも言えない表情をした。
どうやら俺は手違いで走馬灯を見せられたらしい。どう考えても即死だろうと思える大事故だったが、奇跡的に車は地面のその先の大きな樹の中に飛び込んだ。
もう少し速度が遅ければ地面に激突し、逆にもっとスピードが出ていたら森の木を飛び越えて、やはりお陀仏だったはずだ。
俺は大怪我を負ったが奇跡的に助かった。
……………………………………………………だがさて、現世に戻ってきた?俺は車が崖から飛び出した後のことを完全にすべて忘れていた。
何かとても重要なことに気づいたような気がするのだが思い出せない。
本当にすごく大切で忘れてはいけないことだったと思うのだが…
病院でミイラのような姿になっていた俺のところに最初にやってきたのは華ちゃんだった。ギャーギャーと泣いて俺の胸を叩き衝撃を与え、医者に言わせると「もう一度集中治療室に送るところ」だったとのこと。
何だろな彼女、プロポーズは断っておいて。
次に来たのはあのベテラン編集者だった。
横たわる俺をじっと見て、ずいぶん長い時間佇んでいた。
俺は動けないし喋れない。ただ見えていた。彼が何度もハンカチで目頭を押さえるところは。
数ヶ月後、退院した俺はまず会社に辞表を出しに行った。もともとこの数ヶ月の欠勤でクビ同然だったようだが、死にかけた俺は以前とは少し度胸が違う。少ない額だが当時の超過勤務手当と退職金を手に入れ、今度はその足で出版社に向かった。
あの編集者が出迎え、黙って俺を抱擁した。
「右手が比較的早く使えるようになったので、入院中に書き直してきました。見てもらえますか」
一瞬優しげな表情を浮かべた彼だったが、「ゴホン」と咳払いして俺の出した原稿を受け取った。
それからむっつりと不機嫌そうに言う。
「10回目を持ってくるのが遅すぎる」
そしてしばらく読み込んだ後、顔を上げた。
「まだまだだ。まずこの導入部だが…」
俺は苦笑いをしたが、ちょっと泣き笑いが混じっていたかもしれない。
その日の最後は華ちゃんとカフェで待ち合わせだ。
まだ左手は三角巾で吊ったままだし、顔のあちこちに絆創膏や傷跡がある。
すれ違う人達は俺を見てギョッとしている。
夕暮れのカフェの前で女性がチンピラ二人に絡まれていた。
「おうおう、彼女。遊びに行こうぜ」
今時珍しいチンピラらしいセリフだが、二人ともあまりチンピラに見えない顔つきだ。
一人は黒縁丸眼鏡、もう一人は長髪を後ろで縛っている。
…どこかで会ったか。
それどころではなかった。何とよく見ると絡まれている女性は華ちゃんだ。何てことだ。
いきなりチンピラの一人が華ちゃんのスカートをひょいっとめくり上げた。
「きゃあっ!」
華ちゃんの悲鳴。
「華ちゃん!」
俺は考える前に身体が動いていた。
気がついたらチンピラ二人に体当たりして、俺を含めて三人が歩道に転がった。
俺はそのまま勢い余って車道に飛び出しそうになったが、なぜか丸眼鏡が手を強く握って引き留めた。
驚くほど温かい手だった。
何か思い出しそうな気がしたが、病み上がりの俺はまたあちこち身体を打ち、その痛みに意識が薄れた。
「ちぇっ!覚えてやがれ!」
何だかわざとらしいほどあっさり二人が逃げていくのと同時に俺は気を失った。ただ変なセリフが聞こえたような気がする。
「やりすぎたかしら。ソーマ」
「俺たちもお節介だな。トーン」
「何て無謀なことを」
再入院したベッドの横で華ちゃんが俺の行動に文句を言いながらリンゴを剥いている。
今度は右手まで骨折した俺は両方の手が使えなくなった。今は何もかも華ちゃんが面倒を見てくれている。
彼女は俺のために長い有給休暇を取ってくれたという。「有り余ってるから大丈夫」なんだというけれど。
俺はトイレまで手伝ってもらっている華ちゃんにプロポーズをするという離れ業に成功した。多分、もうこれだけ恥ずかしいところを見られちゃったんだから…と開き直れたのかもしれない。
「華ちゃんと支え合って生きていきたい。これからもずっと。どちらかが死んで走馬灯を見るまで。たぶん俺の方がもたれかかることが多いとは思うけど…」
華ちゃんは「はい」とも「イエス」とも言わなかった。
「当たり前でしょ」
これって…承諾ってことでいいんだよね?
「ところでどういういきさつでカフェの前でからまれてたの?」
俺の疑問に華ちゃんも首を傾げた。
「わかんないわよ。突然だし何だか変な奴らだったわ。今時珍しい言いがかりっていうか、言葉遣いも芝居がかってるっていうか」
それから付け加える。
「スカートめくりなんて普通する?」
確かに。でも…何かどこかで…。
「どこかで見た場面だったような気がする」
思い出せないけれど、こんなことがずいぶん昔にあったような気がする。
思い当たることがあったのか、「俺の華ちゃん」はクスリと笑った。
読んでいただきありがとうございました。
「生死の境シリーズ」を何本か書いています。誰にでも起こるドラマですよね。
誰かの走馬灯に出たい!出演希望!と思っていますが…どういう扱いかにもよるかな。