(9)伝説の学生
紫陽の疑問に答えてくれる人が現れた。
吉本清明教授である。
大学を退官したあと『是非名誉教授に』という誘いを断り、カルチャーセンターの講師になって細々暮しているらしい。
『話したいことがある』と連絡を受け、紫陽は千駄木の割烹料亭に向かった。
『はくさん』という暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ!」と気持のいい声がした。
中には料理人が3人。
チリ一つ落ちてない店内に白木のL字型カウンター。
提灯型の照明の柔らかい光り。
少し離れたテーブル席に吉本教授がニコニコと座っていた。
細面に灰色がかった白髪をきちんと撫でつけていた。ビール瓶が1本。枝豆が益子焼のしゃれた小鉢にのっている。
いつも静かな眼差しをしている人だ。
恐縮して座るとビールを注いでくれる。ますます恐縮である。
ゆっくりとしたペースで運ばれてくる料理は1品1品丁寧な仕込みが感じられた。
『これが出汁か……』という感動があった。タカハシに作る雑な料理が恥ずかしい。
「今日カブラギさんに来てもらったのは他でもありません」
吉本教授は話し始めた。
◇
カブラギさん。高橋君と結婚してくれてありがとう。彼ほど幸せを願った人間はいません。
カブラギさんのような若い方が、高橋是也という男の価値をわかってくれたということが本当に嬉しかった。
私も大学を退官するまでは『大学の顔』と言う役割がありました。やっと重たい荷を下ろして自由に発言できるようになった。
そこで奥様の君に是非お話ししておきたいことが……もっと言うなら贖罪があるのです。
いや。箸は止めなくていいよ。楽に聞いてください。ここの料理は美味しいからね。しっかり味わってね。
あれは今から17年前のことでした。
夏休み。高橋君から研究室に電話があってね。至急会いたいと言うんだ。
研究室にやってきた高橋君青い顔してた。
思い詰めたような表情でね。ははは。最初人でも轢いたのかと思ったよ。
私の前に紺色の分厚い日記帳を出してきてね。
『Diary』と印刷された四隅に花模様のあるノートだった。
『どっかで見たことあるな……』と瞬時に思ったけどその時は思い出せなくてね。
開けて数行でわかった。『これ。美濃心の日記だ』って。特徴的な字体なんだ。
美濃心知ってるよね。そう。昭和を代表する女流歌人だ。
戦争を歌い、恋を歌い、生活を歌った。
教科書に必ず載るからね。誰でも知ってる。
晩年には私財を投じて『美濃文藝賞』を設立してね。あの人の元で随分若い才能が育っていったよ。
亡くなった後日記も出版されてねぇ。我々研究者の第一級資料になっていたんだ。
ところがね。読み進めるうち『これどこにも載ってないぞ』ということに気づいた。
そんなわけないんだよ。美濃心は20歳から死ぬまで欠かさず日記をつけていた人で……。
全て旦那さんの新吉が所蔵していた。
じゃあこれは何だ?
「高橋君。これ……。昭和61年11月1日って書いてあるけど……」
「はい」
固い声だった。
「出版されている内容と全然違うけど?」
◇
「吉本先生」
「うん」
「美濃心は2冊日記をつけていたんです」
「え?」
「夫の新吉に遺した『白い日記帳』の他にもう一冊。恋人の立花都に遺した『紺色の日記帳』があったってことです」
立花都!
美濃心が60歳の時に持った40歳年下の同性の愛人だ。私も何度もインタビューしたことあるよ。艶っぽい美人だ。いつも着物を着ていてね。今は赤坂で小料理屋をやっているんだ。
そうだ。この日記帳を見た時、『見たことある』と思った。そっくりな日記帳を知ってる。違うのは今手に持っている物が紺色で、資料館で見た日記帳は白かったということ。
「…………それで高橋君」
初めて私の手が震えてきた。これが本当なら大発見だよ。美濃心研究がひっくり返るかもしれない。
「どうして、君が、美濃心の日記を持っているの?」
◇
高橋君は美濃心の日記を調べていくうち、誤魔化しきれない違和感を覚えたと言う。
嘘は言ってない、だが本当のことも言ってない、そういう感じだ。
そこで研究をまとめたノート12冊とともに美濃心の住んでいたところに出かけたのだ。
え? どうやって家がわかったんだって?
日記を読めば美濃心がここ、千駄木住まいだと言うのは誰にでもわかる。だいたいの場所もわかる。
高橋君はなんと駅に降りるとタクシーを捕まえて『美濃心さんの家に行ってください』と言ったそうだ。
美濃心は有名人だからね。ここらの人なら誰でも家を知ってる。タクシーの運転手さんも全く迷わず連れて行ってくれたそうだよ。
『美濃』という表札を確認するとインターフォンを押し、古びた家から出てきた人に来訪理由を告げた。
鬱蒼と蔦が絡まっている家なんだよ。小さな庭でね。白いバケツが無造作に置いてある。
対応してくれたのが心さんの娘さんでね。
たまたま息子さんも来ていた。
高橋君が研究ノートと出版された日記を指差し『どうもここがおかしいのです』と説明した。
2人は顔を見合わせてねぇ。
「そうねぇ……ミヤコさんならわかるんじゃないかしら」とうなづきあったそうだ。
ミヤコ!? 高橋君驚いてね。何せ立花都は心の愛人だからね。
しかし娘さんそのまま受話器を持ち上げるとどこかに電話した。
「高橋さん。ミヤコさん会ってくれるって」
高橋君は立花都の住んでいるマンションまで飛んでいった。
黒いワンピースの都は高橋君を出迎えると話を聞いて高らかに笑ったそうだ。
「なーんだ。そんなこと」
それで紺色の日記を出してきた。
ページをめくる高橋君の肩が驚きで震えていって。指先までブルブルブルブルと。なかなかページがめくれなかったらしい。
そこには答え合わせのように高橋君の疑問に対する回答があった。
「立花さん」
「都でいいわ」
「都さん」
「何よ」
「これ……どういうことですか?」
「どうもこうも」
都は嘲るように笑った。
「出版されている『白い日記』はココロサンが旦那の新吉にいい顔見せるためだけに書いた嘘八百。こっちの紺のココロサンがほんとーのココロサン。ドロドロして。欲ばかりの。汚いオバアサンよ」
「どうして僕に見せてくれたんですか?」と聞いたら「だって新吉さんが死んだから」とさらに都は笑った。
美濃新吉が亡くなったのは去年。
「あの人はね。新吉の前だけキレイなココロサンでいたかったのよ。新吉が死んだら誰にどー思われようとどーでもいいのよ」
日記を読む限り『嘘八百』ではなかった。『白い日記』と『紺の日記』は背中合わせのようになっていて、両方を読んで初めて『美濃心』が立体的にわかるようになっていた。
生々しい1人の女性の姿が浮かび上がる。
「大変な発見だよ」
私はその時本当に興奮してねぇ。気付かないうちに涙を流していて。
「高橋君。これで君を大学に残してあげられる。これ一つで一生君は食っていけるよ。すぐに大学院への推薦状を書いてあげるからね」
ところがここで信じられないことが起きた。
◇
高橋君は倒れるように研究室の冷たい床に膝を付けると、私に向かって土下座したんだ。
「吉本先生。どうかご勘弁ください」
「え?」
「僕は有名にはなりたくないんです。どうか。どうかこの日記は吉本先生が発見したことにしてください」
そんなことできるわけないだろう。気は確かね高橋君。これがどれ程の発見かわかっているかね。君の研究者としての成功が約束されたようなものだよ。私に教え子の手柄を取るような情けない真似はさせないでくれ。
私は必死になって高橋君を説得した。だが高橋君は聞かないんだ。「どうしてもとおっしゃるなら日記の発見自体を無かったことに」とまで言われ私は折れた。
すぐ立花都さんと心さんのご遺族に会いに行った。両方とも出版を快諾してくれてね。
都さんに「日記を見せたのは高橋君が気に入ったからなんだけど……まあいいわ」って言われて。
この世紀の発見は新聞に載ったよ。
『美濃心新資料発見。同機社大、吉本研究室』
日記は私が『高橋君を連れて立花都のところに行ったとき見つけた』ということになった。
みんなにお祝いされて……私の心がどんなに苦しかったかカブラギさん。わかってくれますか。
◇
紫陽は吉本教授の告白を呆然と聞いた。
大学院に残るに充分な成果を挙げておいてそれを断った? 是也さんどうして?
「私はね。何度も何度も。それこそ何十回も高橋君に言った『大学に残ってくれ』って」
だが高橋是也は首を縦に振らなかった。
「和歌山の叔父さんのところまで行って高橋君を説得してくれと頼んだよ。叔父さんはね『もしお金が心配ならこの家を売ればいいじゃないか』とまで言ってくれたらしい」
1人で住むにはあまりに広すぎる家を売って自分のために使えばいいじゃないか。亡くなった両親だってわかってくれるよ。
『そうだ。あの家。今売っても3800万円するんだった』紫陽は気づいた。
「だが高橋君は高校教師になってしまってね」
目を伏せる吉本教授に何と言ったらいいかわからなかった。
「高橋君はね。ご両親の思い出と心中してしまったんだよ」
親のものなら雑誌一つ捨てず、まるで『思い出の博物館』と生きているように見える夫。
自分の未来とか、夢とかを捨ててまで残したあの家。
風呂場のタイルが紫陽の目の前に浮かび上がってきた。
赤と黒の金魚がクルクルと回り続ける。
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人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日秋くれぬ
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与謝野晶子の歌が何度もリフレインした。