(8)こいつに常識とか通じなかった
タカハシが最後に「卒論ですが、あくまで妻の意思が最優先ですので……」と柔らかく、しかしハッキリと言ってくれた。
紫陽はほっとした。
これで紫陽の『卒論担当官争奪戦』は一段落だろう。
◇
「だからね。カブラギサン。当時の発音を知ると言うのは本当に大事なことなのよ」
カフェテリアのプラスチック椅子に腰掛けながら紫陽はガックリ来ていた。渡部。こいつに常識とか通じなかった。
今日は青いTシャツに三角の赤いマークがついたやつだ。何か『アメコミ』だって言ってた。
カブラギの隣にベッタリ張り付き唾を飛ばす。
「例えばね。東歌ってあるでしょ?」
「はぁ……」
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多麻川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき
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「これが全部『濁音』だったらと想像してみてよ! どうなる!?」
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だまがわにざらずでづぐりざらざらになにぞごのごのごごだがなじぎ
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「……いろいろ台無しですね」
「ね!? そうなんだよ! 当時の人が何て発音してたか学ぶことで、歌はより正確にニュアンスが掴めるようになるんだ!」
「え? これ濁音で読むんですか?」
「読みません!!」
なんなんだよ!
「カブラギさん! 一緒に新聞に載るような発見をしよう!」
「無理です!!」
「何も君1人でやれって言っているわけじゃない……旦那さんとか、ハズバンドとか、背の君とかの力を借りていいんだよ!!」
「それ全部同じ人ですねっ」
「この間来てくれた旦那さん結構いい男だね!」
「それはどうも!」
渡部非常勤講師。忘れたんですか? 私『てふてふ』と書いてあったら『TEFU TEFU』と読んでしまうくらい歴史的仮名遣いは苦手なんですよ(「正解は『CHO CHO(蝶々)』)
最初の授業でそう答えたらあきれ果ててたじゃないですか?
『君のそのご立派なおっぱい何のためについてんの?』
って言ったの忘れてませんからね!
おっぱい関係ないだろ!!
さすがに教務課に苦情入れようかなぁ……。
うんざりして逃げるようにカフェテリアを出ると天野啓治が廊下を歩いてきた。
◇
『ひっ! 天野教授! 勧誘される!』
固まった紫陽の横を天野は通り過ぎた。慌てて頭を下げたが無言。
ホッとした瞬間に天野の声がした。
「カブラギ」
「は……は……はい……」
紫陽は恐る恐る振り返った。
黄色い眼鏡にボサボサ頭。履き古したスリッパ。目が合う。
「キミね。好きなのやんなさい」
ボカンとする紫陽を尻目に体を進行方向に戻すとそのまま去っていった。
◇
「卒論申し込み」のとき紫陽は『武川智樹先生』と書いた。
みだれ髪やらせて〜〜〜〜〜〜〜〜。この大学そのために入ったのよぉ〜。
聞いたところ周りの生徒もほぼ『武川』と書いたそうだ。明治の詩壇になぞ興味なし。『いかに楽に卒論をこなすか』しか考えてないのであった。
アメコミ→アメリカンコミック。アメリカの漫画。
『スーパーマン』『バットマン』『XーMEN』などが有名