(6)紫綬褒章とスーパー空気の読めない男
さらに武川の授業である。
やる気のない武川の「え〜そういうわけで佐藤春夫は〜」という声を聞きながら紫陽は物思いにふけっていた。
隣の棚橋薫は寝ている。武川という男は学生が寝てようが内職しようがしゃべっていようが気にするそぶりもなかった。
自身も『次の学長選挙は誰につくか』しか考えてないのだろう。
教室中に気だるい雰囲気が漂っている。
ところが突然武川が直立不動になった。
ビイイイーンと体を硬直させた武川に驚いて学生が視線の先に目をやる。
入り口に眼光の鋭い真っ白髪が顔をのぞかせていた。討ち入り前の武士みたいなたたずまい。
鷲尾名誉教授!!
長年の中国文学に対する功績を認められ紫綬褒章を受けた男である。
大学は退官しているが、名誉教授として今も研究室がそのまま残されているのだ。影響力、絶大。
「武部くん」
「はいっ!」
武川が素っ頓狂な声をあげた。さっきまでのだっるそうな表情が一変している。
「…………鏑木紫陽というのはどの生徒だね?」
「はいっ。カブラギッ立ちなさいっっ」
上に向けた指先を上下に激しく振って立席をうながす武川。紫陽は弾かれるように立ち上がった。一斉に学生が紫陽を見る。
「あっ。はいっ。カブラギですっ」
「君か? 高橋是也くんと結婚したというのは?」
「はっ! はい! 主人がお世話になっておりますっ!」
焦って変なことを言ってしまった。
「卒業論文は杜甫にしなさい」
えっ!? いえ私の卒論は与謝野晶子……と言う前に武川に遮られた。
「はい! 必ずやカブラギに杜甫をやらせます!」
おい武川! 生徒を売るな!!
「うん。頼むよ高山くん」
「武川です!」
「そうだったね。武田くん」
「武川です!」
武川は直立不動のままハキハキと答えた。
名前だけでも〜。覚えてくださいぃ〜。
「頼んだぞ……」と言いながら鷲尾名誉教授は去っていった。
武川に睨みつけられる。
「カブラギサン〜〜〜〜。鷲尾教授直々のお言葉だよ〜〜。わかっているんだろうねぇぇ?」
バン! バン! バン! バン!
教壇を叩きながら言われた。怖え〜〜〜〜〜。
◇
トドメが渡部軽彦非常勤講師であった。
「卒論だけどね!? 決まりましたか!?」
またキターッ。
「与謝野晶子の『みだれ髪』です……」
午後12時30分である。学生でいっぱいのカフェテリアに渡部の馬鹿でかい声が響いた。
渡部軽彦。万年非常勤講師。武川と全く違う方向の舌禍野郎である。
空気というのを一切読んでこない。
直毛を後ろで1本に結んでいた。大学だというのに変なキャラクターの黄色いTシャツを着ている。学生に間違えられるほど顔が若々しく、青い髭剃りあとがある以外はツルッツルであった。
ちなみに髭はちゃんと剃れていない。3本ぐらいバラバラに飛び出ていた。『発音学』と言って古代の発音を研究している。
「そんな〜〜〜〜っ。僕の家族のためにも『発音学』にきてよ〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
「か……家族?」
勝手に紫陽の隣に座った。しゃべるたびに唾がかかる。思わず手で避けた。
「僕も新聞に載りたいんだよ〜〜〜〜。働く気のないブタ妻と、生意気極まりない高校生と中学生の娘がいるんだよ〜〜〜〜〜〜〜〜」
おっお前妻子持ちだったのか! 絶対独身だと思ってた!
「渡部先生……」
「何?」
「その『新聞』て何ですか?」
「はっ!?」
「みなさん口を開けば『新聞』『新聞』ておっしゃいますけど、私何にも知らないです」
「うそっ。君の旦那さん自慢してないの?」
何のことかはわからないが、夫の是也は『自慢』とはほど遠いところにいる男だ。
「だからさ〜〜〜〜〜。君の旦那さん……。えっと『タカハシコレヤ』さん!? 卒業論文で完全新資料を見つけて今までの学説をひっくり返したそうじゃない!?」
「ハァ?」
「吉本教授に手柄を全部譲ったって有名だよ〜〜〜〜。あっ! これ内緒ね! 内輪だけの秘密だからねっ」
秘密って。渡部よ。今この場に1000人はいるぞ。
「僕もそろそろ非常勤講師から抜けださないとマズイんだよ〜〜〜〜。ねっ! 僕を助けると思って!」拝んでくる。
その瞬間スパーンッと渡部は頭を叩かれた。武川が鬼の形相で後ろに立ってた。
渡部の首根っこを掴む。
「渡部さんあなたいい加減にしてくださいよ。いつもいつもいつもいつも〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
そして渡部をズルズルとカフェテリアの外に引っ張っていった。
ポカンとする紫陽と、1000人の視線……。
注ー鷲尾名誉教授は大学を退官しているため、卒論担当官にはならず、鷲尾名誉教授の『弟子』が卒論を担当します。