(5)ガマガエルと亡霊
トップバッターは松尾芭蕉が専門の大葉至助教授であった。
「カ・ブ・ラ・ギさあん♡」
『奥の細道』の授業終わり、わざわざ紫陽のところにやってきた大葉は甘い声を出した。
ちなみに紫陽が『カブラギさん』と呼ばれるのはそれが旧姓だからである。
大学3年生の時結婚したので、便宜上卒業までは旧姓の『鏑木』で活動してるのだ。
40歳。おかっぱ頭にくたびれきったスーツ。今日のネクタイの柄は『鳥獣戯画』。ガマガエルを潰したみたいな顔をしている。
「ね? この後お時間あるぅ〜?」
………………。
『お時間』はあった。時間割は次の次のコマまで空白であった。紫陽はなぜか『事務に時間割を問い合わせされた』と思った。女のカンである。
「ね。ちょっと残ってお話聞いてくれないかなぁ?」
お、おい。ガマガエル。何両手合わせてモミモミしちゃってんねん。それ商人が悪代官相手にやるポーズだぞ。
「はぁ……まぁ……何でしょうか?」
教室に2人きりになると、大葉はプロジェクターを回し始めた。
ちゃん ちゃららららん♬
という琴の音とともに題字がスクリーンいっぱいに大写しになる。
『松尾芭蕉の世界』
機械音が朗読を始めた。
「松尾芭蕉は世界に誇る日本の詩人です……」
え!? 何これ!? 何私見せられているの?
『松尾芭蕉がいかに素晴らしいか』を機械音が20分ほど語ると、最後に
バショウサイコウ! バショウサイコウ!!
と叫びながら松尾芭蕉の顔のイラストがびょ〜んびょ〜ん!! と伸び縮みした。
…………これまさか…………私のためだけにパワーポイントで作ったんじゃないでしょうね?
プロジェクターを止めると大葉助教は教室の灯りをつけ満面の笑みで紫陽に向かった。
「……ね?」
いや…………『ね?』…………って言われましても…………え?……感想いう時間?
「ハァ……その……芭蕉最高です……」
大葉は勢いづいた。顔をぐ〜〜〜〜〜〜〜〜っと紫陽に近づけ「そうなんですカブラギさんっ。卒論っ。一緒に芭蕉やりましょう!!」とまくし立てた。
卒論〜〜〜〜〜〜!?
「すっ。すみませんっ。私卒論は与謝野晶子でして……」
「与謝野晶子! 冗談じゃない!! 近代詩じゃないですか! 武川が担当官になるぅ〜〜〜〜〜〜〜〜」
そうですけど!?
「カブラギサンッ。ダメですよ。あんな政治屋に大事な卒論任せてはっ!」
ガマガエルが両手で紫陽の肩を掴むとユサユサ揺らした。
いや、あなたが武川と犬猿の仲なのは学校中知ってますけど、何!? そんな必死になること!?
「たっ武川を新聞に載せてはいけませんっ。同機社(大学)の恥ですよっ。カブラギさんっ。今からでも遅くないっ。芭蕉に変えましょう! なんなら与謝蕪村でもいいっ」
「えっ? 『新聞』て何ですか!?」
「え? 君旦那さんに何も聞いてないの!?」
「聞いてません……え? 主人が何か?」
どうして急にタカハシ出てきた!?
あとは2人で「え?」「え?」「え?」「え?」の応酬になってしまい、とうとう紫陽が「すみませ〜〜ん! お昼食べなきゃいけないんでぇぇ」と半泣きで席を立った。
「待ってぇ! まだ話は終わってませんよ〜」と叫ぶ大葉の声を背中に感じながら走って逃げた。
◇
また別の時である。
「カブラギさぁぁぁぁん」
地を這うような声がしたかと思えば、突然肩に両腕を回された。そのままべったりと後ろからカブラギは抱きしめられた。
重くはない。棒っきれのようである。
紫陽の肩に女のアゴが乗る。長い髪が紫陽の頬をサワサワとかすった。
「ひっ」紫陽棒立ち。
「古文の平畑ですぅ」
金縛りにあったかのよう。前を向いたまま声を震わせた。
「ひ……平畑アリサ教授っ。おっお世話になっております」
ヒラハタアリサ
などという可愛らしい名前とは裏腹にアリサのあだ名は『サダコ』『亡霊』『ゾンビ』であった。
講義の声もほぼ聞き取れないことで有名だし、ホワイトボードに書く字は常に震えている。
「単刀直入に言っちゃうとぉ〜」
「は……はいっ」
「卒論……『和泉式部』にしなぁぁい?」
よく見ると手に『和泉式部を慕いて』というテキストを持っている。平畑が著者である。
「『清少納言』とかさぁ。『紫式部』とかばっかりフューチャーされるけど、平安には『和泉式部』も『赤染衛門』も『式子内親王』もいるっつーーのーー。アタシと一緒に平安女の何たるかを見せつけてやりましょ〜よ〜」
背中におぶさるアリサの体が冷たい。この人『実は死んでる』って噂だけど、マジで死んでるのでは?
「い……いえいえいえ……申し訳ないのですが入学式の時点から与謝野晶子の『みだれ髪』に決めてまして……」
「与謝野晶子なんてついこの間生まれたガキじゃん!」
確かに1878年生まれの晶子はアリサから見ればガキでしょうが生きていれば145歳です。
「女は1000年からよ〜〜〜〜〜〜〜〜。カブラギさん旦那さんを説得してぇ〜〜〜〜〜」
えっ!? 『旦那さん』!? またタカハシでできたけど何で!?
アリサに理由は聞かなかった。それどころじゃない。亡霊怖い。このままだと取り憑かれる!
「ほんとすいません! ほんとすいません!」
何とか逃れた。最後ちょっと頬にアリサの手が触れる。つっっめたいし、水滴とかついてた。
『小野小町でも……いいのよ……』というささやき声が耳に残る。
ひぃぃぃぃ〜。平安の亡霊にスカウトされた気分〜。
走り際アリサの叫び声が響く。
「カブラギさぁ〜ん。アタシ新聞に載りたいのよぉぉぉ〜」
ん? また新聞?