(3)5万首!?
「『短歌』なら武川助教授だろう?」
夫に言われて紫陽は下を向いた。
「私は吉本教授が良かったんです……」
「気持ちは分かるけど、昨年退官しちゃったからねぇ」
夫婦で夕飯中の出来事である。紫陽は夫の是也にほとんど家事を任せていた。なぜなら夫が『学生は勉強しなさい』と家事分担を拒否したからだ。今日の夕飯(炊き込みご飯に焼き魚)も夫作である。
ああ! 吉本清明教授が良かった! 夫の卒論担当官が吉本教授だったのだ。
授業を受けていても、詩に対する深い洞察が滲み出ていた。
タレ川なんぞ『これが終わったらお昼だな』しか考えてない。そういう授業だ。
「とっ。とりあえず私は『みだれ髪』以外の卒論やる気ないんで! 武川助教の抽選にかけます!!」
「後は天野先生だね。ご専門は中世文学だけど、フレキシブルに対応してくださるよ」
あっ。天野は嫌だァ~~~~!!!!
◇
教員になるためにはピアノが弾けないといけない。
紫陽がなりたいのはあくまで『国語教師』。だが小学校の教員免許も併せて取る関係でピアノは必須だった。
実家にも婚家にもピアノのない紫陽は、久保悟の実家で練習をさせてもらっていた。
サトルは夫の同僚教師で、親友だ。
サトルには死産した兄がいる。たまたま同い年だった夫は久保家で『長男』扱いされているのであった。嫁の紫陽は『長男の嫁』だ。
だだっ広いリビングの片隅で必死になって『バイエル』を弾く。課題曲がここからでるのだ。
「よ~お! カブラギ! 頑張っているか!」
ほとんど髪の毛の色が抜けた、変なミッキーマウスみたいな男が顔を出した。
「サトルゥゥウゥ!!」
紫陽はサトルに向かって走り出した。抱きつかんばかりの勢いでぶつかる。
サトルに当たって若い肢体がぼよよ~んと弾けた。Fカップのおっぱいがプルンプルンに揺れた。太ももは限界までひき肉を詰めたソーセージのよう。
「てめぇ相変わらずくしに刺さった肉団子みたいな体してんな!」
「ひどいよ。サトルゥゥ」
『ははははっ』と笑うとサトルは紫陽の頭をくしゃくしゃと撫ぜる。
「会いたかったぁ! サトルに話したいこといっぱいたまってんだよぉ!」
「タカハシか!?」
「タカハシだよぉ~!」
「何だあいつまたクソ真面目で他人に迷惑かけてんのか!」
「これ見てよ~!」紫陽はiPhoneの写真をサトルにかざした。
分厚い本が20冊2列に並んでいる。
「何だァ。この殴ったら人が死にそうな本は!」
「『与謝野晶子全集』だよぉ! 与謝野晶子てのはさぁ。与謝野晶子てのはさぁ。死ぬほど仕事してんだよ!」
12人の子供に仕事がこない夫。食べる度に何でも引き受けたらしい。
本業の短歌の他に評論、童話、古典の現代語訳。講演会。短歌の解説書。
その成果がミッチミチに全集に詰まっているわけだ。
「これ全部読めってタカハシが! タカハシがぁ!」
◇
あれは1ヶ月前のことだった。
ドサドサッと音がして全集がリビングのテーブルに置かれた。
「はい。どうぞ」
「え……。これなんですか?」
「『与謝野晶子全集』だよ。まずは与謝野晶子の作品を全て読まないと話が始まらないだろう?」
「いえっ。私作品は『みだれ髪』に決めてるんでっ」
紫陽はペラッペラの詩集をバッサバサした。何でこの156ページの歌集を論じるのにその後の全ての作品読まなきゃいけないねん、処女歌集やぞこれ。
「え? 『みだれ髪』だけ読んでも何も論じれないよ? 他の作品と比較検討しないと」
「……はあ?」
「与謝野晶子なら今から読み始めないと間に合わないから。がんばってね」
それで台所に戻っていった。紫陽20冊にも渡る全集を前に呆然。
◇
サトルあきれる。
「そんなんテキトーに『全部読みましたー』って言っときゃいいだろーがー」
「『あのタカハシ』に通用するわけないでしょ!」
「通用しねーだろうなあー?」
そう。あのタカハシである。
12畳はあるリビングの壁面いっぱいに本棚を設置しているタカハシである。さらに本がビッシリと1列2段に渡って詰め込まれているタカハシの家である。1万冊はあると思う。
何が恐ろしいってそれ全部読んでいるだろう我が夫……。
紫陽はたまたま与謝野晶子現代語訳『源氏物語』がスマホのアプリに内蔵されていることに気づいた。
こんな重い本を持ちながら読書は大変だけど、スマホを見るなら簡単じゃんどれどれ……。
4021ページ!
『源氏物語』だけで4021ページ!
そんなあんの!! 漫画でしか読んだことないから知らなかった!
しかもこれ。与謝野晶子の仕事としては『ごくごく1部』なのである。
そういえばタカハシ恐ろしいことを言っていた。
『まず晶子の詠んだ短歌は全て読まないとね。5万首』
5万首!!!????




