【番外編】『丸鼻』こと興梠不律が『ざまぁ』されるまで。
興梠不律は緊張していた。
今日は大学のオリエンテーリングだ。
新入生だけが集められ、授業の取り方や単位について話を聞く場。
400名ほどの学生が一堂に揃って、やけに広い教室を埋めていた。映画館みたいに席と席には段差がある。高校までは黒板だったのに、大学は全てホワイトボード。
入り口でレジュメを受け取るとバラバラに座った。知り合いは1人もいなかった。
こんなに集まるのは大学4年間で10回もない。大学っていうのはクラスも形ばかりだし、ほとんどの生徒の名前すら知らないで終わる。
『ついに俺の大学生活が始まった!』
同機社大学は国文の名門で、教師を多く輩出することで有名だった。総じて学生も真面目なタイプが多い。地味で堅実な進路を選ぶ傾向がある。
第一志望はマスコミに強い大学だったが、あいにくそこは落ちてしまったのだ。でもここだって悪くない。
ガラスのビルに4っつの学部。カフェテリアは定員1000人。有名チェーン店がいくつも店舗を出していた。ドーナッツ屋まであるのだ。
早く友達を作って『ぼっち飯』はなんとしてでも回避するぞ。力が入る。
大学生らしく、ノートを見たり見られたり、代返だってするぞ。サークルも入って、女の子と青春するんだ。初カノもここで作ってやるからな!
『履修方法』と書かれたレジュメを見ながら嬉しくて指で丸を描いた。
「すみません。ここ空いてますか」
女の子の声がした。フリツは愛想良く振り向いて「どうぞ!」と言った。やったぞ。共学だ。俺のむさ苦しい中高一貫の男子校生活は終わった! これからは女の子と気軽に話せる環境になるんだ!
で、その『女の子』の顔を見て固まってしまった。
え……同機社大学って……アイドル可だっけ…………?
そのくらい右横に座った女の子は可愛かった。
顔のパーツ一つ一つが、収まるべきところに収まっていて、黒く輝く瞳、ふっくらした頬、小さな唇。
胸がメロンのように盛り上がっていた。シャツがはち切れそう。え? 何? 何カップこれ? てかこれ豊胸じゃないの!? アニメの女の子じゃないんだから……モリモリだよ!
おまけに太ももである。
短いスカートからはみ出ている『肉』が張りでパンパン。
ソーセージにひき肉いっぱい詰めたみたいな太ももだ。
こう……『パーン!』と叩いてやりたくなる。
『絶対いい音がする』
性欲がムクムクともたげてきた。今からオリエンテーションなのに困ってしまう。なるべく机と腹をピッタリくっつけて何気ない顔でレジュメを見つめた。
ちょっと……元男子高校生には……刺激が強すぎますなぁ……。はぁ…………この大学に受かって良かった!!
隣の女の子と、ランチしたり、サークル活動したり、ムフフしたり、ムフフフフしたりすることで頭がいっぱいになってしまう。
◇
オリエンテーリングはあっという間に終わった(内容なんか聞いてない)、女の子はサッと立ち上がってどこかに行ってしまった。名前も聞かなかった。
そのときフリツは気づいた。
女の子の背中をポッカーンと見つめる男を。
フリツが女の子の左にいて、その男が斜め後ろに座っていたわけだ。
髪の毛がボサボサの。どうにも陰気な男がそこにいた。丸首シャツがだらしなく歪んで『着ただけ』になっている。整えることを知らないのだろう。
ズボンの裾が靴のかかとをを覆い地面についている。裾上げすらしないのか。汚れ放題だぞ。鼻が奇妙に折れていた。
『魂抜けましたみたいな顔しやがって』
フリツは男の方に体を向けると低い声を出した。
「おい」
男は動かない。乱暴に肩を3度ほどゆする。
「おいっ」
「…………はい?」
ようやくフリツの方を見ると『あれ? あの子以外に人がいましたっけ?』という顔をした。
「今の子すげぇなあ?」
『陰気』は身を乗り出した。
「すすすす、すごい。すごいなんてもんじゃないです! なんであんなキレイな女の子がいるんですか? 東京だからですか? 東京ってすごい。東京にきて良かったっ」
「ばーか」
東京だからって。あのレベルがゴロゴロいてたまるかよ。
「あのオッパイ見た? 何カップよ。はち切れそうになってたな?」
「そっ。そんなっ。女性の胸をジロジロ見るなんて失礼ですよ!?」
ドン!
フリツは長机を叩いた。男におでこがくっつきそうなくらい顔を近づける。「ナマ言ってんじゃねぇぞ?」「はい?」
『陰気』が頭のてっぺんから声を出した。
「あんなオッパイ、見ない男なんかいないんだよ! お前サンだってとっくり見たろうが!? ついでに太ももも見たよなぁ!?」
シューっと頭から湯気を出して『陰気』が硬直してしまった。しめしめ。初日にして『子分』ができたぞ。
そのままフリツは大学近くの『ハマナス』という喫茶店に男を連れ込むと、当然のようにコーヒーとホットサンドを奢らせた。
◇
男の名前は沖田緑郎。長野県出身の18歳。彼女いない歴=年齢であった。
ちなみにフリツだって彼女いない歴=年齢なのだが、自分を差し置いて『こいつならそうだな!』とバカにした。
大学から15分のアパートに一人暮らししていることを吐かせる。そのまま4年、フリツは沖田のアパートを常宿にした。無論ガス代水道代電気代は1円も払わない。その上密かに沖田に『カオナシ』というあだ名をつけた。
体の半分が透けているような存在感のない男だったのだ。
◇
太ももデカパイの名前はすぐわかった。
鏑木紫陽だ。
カブラギはものすごく目を引いた。男どもは必死になってカブラギの履修科目を知ろうとした。猛者になると、授業を取っているわけでもないのに教室に来ていた。
おまけにカブラギは東畑梨々香と仲良くなった。
カブラギはどちらかと言えば『カワイイ系』なのだが、東畑は『綺麗なお姉さん』といった感じ。
整った目鼻立ちをツンと澄ませて『お宅らなんかお呼びじゃありませんけど』という顔をする。流行のバッグに名の知れたブランドのハイヒール。男子に対する扱いはおおむね高圧的であり、雑であり、わかりやすく教授にだけ媚びた。
対するカブラギは誰に対しても笑顔で優しかった。受け答えもいちいち丁寧。
高いブランド物を持つわけでもなく。週の半分は手作りの弁当。授業態度も真面目。
キチンとノートを取るので、試験近くになっても誰からもノートを借りようとしなかった。
◇
意外だったのは沖田がカブラギに対して猛アプローチを掛け出したことだ。
と言っても、デートに誘うとか告白するとかじゃない。
朝、誰よりも早く学校につくとじっと教室のドアの前でカブラギが来るのを待つ。
カブラギの姿を認めるや否や1メートル先から手を必死に振った。
「カッカッカッカブラギサンッッッッ」
東畑と話していたカブラギは顔をあげた。
ショートボブの髪が揺れて彼女の蠱惑的な唇にかかった。ピンクのグロスが光に当たって濡れたように輝いている。
カブラギが唇から髪を除けた。
細くて美しい人差し指には指輪がなかった。まだ彼女が誰のものでもないという証拠だ。
「あっ……えっと……」
「沖田ですっ」
カブラギがふんわりと笑う。
「ああ。そうだ。この間カフェテリアで会ったよね」
「はいっ。うどんっ。うどんおいしかったですねっ」
彼女はクスクスと笑った。
「うどん食べたの沖田くんでしょ? 私はお弁当」
「そうでしたっ。カブラギさんのお弁当も美味しそうでしたっ」
カブラギと話せる嬉しさに直立不動になっている。
「カブラギ行くよー」
東畑がカブラギの手を引いた。『なんでこんなザコに構ってんのよ』と顔にアリアリ書いてある。
沖田はめげなかった。常にカブラギの斜め後ろに座ったし、お目付け役(東畑)がいないときは隣に座った。
『バカだなコイツ』フリツは思い切り沖田をバカにした。そのうち『ストーカー』て呼ばれて嫌われるぞ。
だから沖田から『カブラギさんからデートに誘われた』と聞いた時は腰が抜けるほど驚いた。
◇
「嘘つけお前っ」
いつも通り沖田のアパートで冷蔵庫のコーヒーを勝手に飲んでいた。沖田はシャツで何度も手汗を拭く。動転しているのだろう。目の焦点が合っていない。
「ほっほっほっほんとだって。ほら!」
沖田に画面を見せられる。差出人名は確かに『鏑木紫陽さん』になっていた。
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沖田くん。今度の土曜日空いてる?
デートしてくれないかな?
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あのカブラギさんが『デート』って書いてるぅぅぅぅ。このカオナシ相手にぃぃぃぃ。
「『カブラギシヨウ』って名前の別の女じゃないか?」負け惜しみを言ったが「『鏑木紫陽』なんてこの世に2人もいるわけないでしょ」と返す刀で切られた。完敗である。
こうなったら全力でコイツの邪魔をするしかない。
◇
「…………ササゼリヤだ。沖田」
「えっ」
沖田の瞳孔が急に縮んだ。狼狽えている。コイツに思考させてはいけない。畳みかけるんだ。
沖田の肩を抱く。
「沖田。やったじゃないか。お前カブラギさんと付き合えるぞ!」
「えっ。あっ。そっ。そう?」
「そうだ。だからこそ。最初が肝心だ」
「肝心?」
「カブラギさんと付き合うなら、毎週、毎週カブラギさんとデートできるってことだ。なんなら毎日できる!」
沖田がフリツに抱かれたまま脱力した。フニャフニャと首を2回、縦に動かす。小さな目がうっとりと天井を見つめていた。おー。おー。ありもしない夢見ちゃって!
「で、お前、毎週カブラギさんを高い店につれてってやれるのか?」
氷の彫像になっちゃった。
「お前が今、飲み屋とコンビニを掛け持ちして必死に稼いでるバイト代でだ。カブラギさんに毎回毎回高いメシ奢ってやれるかっていってんだよ」
沖田はプルプルと首を振った。学費や生活費を親に出してもらっている手前、遊興費は全てバイトで捻出しているのである。フリツが勝手にガブガブ飲んでるコーヒーだって、沖田がコンビニで頭を下げ続けたお金から出ている。
「な、無理だろ? 身の丈にあった付き合いしろよ。お前のバイト代で賄えるデートをしろ。それには最初から高い店には行かないことだ。ササゼリヤでいい。ササゼリヤがいい。『ササヤカササゼリヤ』! いいじゃないか! 大学生らしい瑞々しい付き合いが俺たちには合ってる! ほら、すぐLINEだ!」
とそのままカブラギあてに
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いいよ。ササゼリヤでランチどうかな?
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と打たせたのである!
あのカブラギさんがランチとはいえ5000円以下のメシ食うわけねぇだろバーーーカ! ホテルのアフタヌーンティーに決まってるだろボケ。2回目がないのにその後のお付き合いとかあるわけないだろカス。盛大に振られやがれバーカバーカバーーーカ!!
グッフッフッフ。笑いが漏れる。
肩が上下に揺れてしまう。俺の企みクリーンヒット!
カブラギから秒で返信がきた。
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わかった。ありがと♡
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え?
そこは『なめてんの?』か既読無視でしょ?
何そのハートマーク? 秒で返ってきたけど、まさかほんとにこのカオナシに脈があるの?
あのオッパイが????
カブラギのふっくらとした唇が思い浮かんだ。生命そのもののような太ももと、こぼれんばかりの胸の膨らみを思った。
愕然とLINEを見つめるフリツの横で、沖田が「シャーッ! シャーッッッ!!」と叫びながらガッツポーズをしている。
◇
『ササゼリヤデート』はうまくいってしまった。
フリツは一縷の望みをかけて『ササゼリヤ以外行くなよ』と念押ししたのであるが、そんなことはカブラギをいささかも怒らせなかった。
アパートに帰ってきた沖田はだらしなく顔が蕩けていた。あのカブラギさんを2時間半も独り占めしたのである。さらにカブラギからすぐお礼LINEがきた。
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沖田くん。今日は付き合ってくれてありがとね。ササゼリヤ最高すぎた。でも頼みすぎた。デザートまでいけなかった。今度はデザート食べに行こうね♡
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…………もしかして。このカブラギシヨウってコ。死ぬほどいいコなのでは?
沖田のしょげ顔を楽しみに、アパートで待っててやったのに上手くいっただとう!?
「ふーちゃーん! ふーちゃんのおかげーつ! 僕カブラギさんと幸せになるよぉーっ!」
沖田に抱きつかれてフリツは死にそうだった。
◇
そのまま沖田とカブラギは茶飲み友達になった。
カブラギはドトールだろうが、学食だろうが、なんならフードコートだろうが一切文句を言わないらしい。
沖田の勇気が道を開いたのだ。
フリツは沖田の親友なのに、一切カブラギに近づかなかった。もしカブラギに冷たくあしらわれたら立ち直れない。中高と男子校で女子と話したことがほぼないし、沖田みたいにミエミエの行動をとるなんてプライドが許さなかった。
カブラギのことは、遠くから見てるだけ。
『万が一カオナシとカブラギさんが付き合ったらどうしよう……』
夜な夜な悪夢を見た。
◇
鏑木紫陽という子にはなんというか『隙』があった。
東畑があからさまに男どもを下に見ているのに対し、嘘みたいに愛想が良かった。
アイドル顔をキラキラさせて誰に対しても和やかに接する。
『こんなに可愛いけど俺でもいけるかも』とか『カブラギさん実は俺のこと好きなんじゃない?』と男に勘違いさせた。
信じられないほどモテる。
みんなカブラギを何とか飲み会に誘おうと必死だった。サークル勧誘で人だかりができた。
しかしなぜかカブラギはどのサークルにも入らず、大学が終わるとサッサと帰っていく。
『パパ活だよ。それかラウンジ』ともっぱらの評判だった。
あの顔を生かさない手はない。
◇
だからカブラギがパパ活もギャラ飲みもラウンジもせず『弁当屋で働いている』と聞いた時は「は?」と言ってしまったものだ。
弁当屋? 六本木ヒルズ内の? と一瞬思ったが、何の変哲もない商店街にあるらしい。
「沖田。冗談やめろよ?」低い声がでた。2人で廉価のハンバーガーショップに来ていた。学生様は金がない。ポテトすら半分こである。
フリツは飲み物をケチってスーパーのペットボトルを口にする。『いや、それ、マナー違反なんじゃないの?』てことだが、フリツは見つからない小悪事なら何でもやる男だった。
「ほんとなんだよぉ。なんか通ってた高校が近いんだって」沖田が紙ストローをカミカミする。
フリツはポテトを口に放り込みながら思案した。
通ってた高校? 今さら何の関係もなくね?
◇
全ての謎が解けたのは、大学3年のゴールデンウィーク明けだ。
「ふ〜ちゃぁぁぁぁん!」と大学のカフェテリア前で沖田に抱きつかれたのだ。沖田が震えている。
「カ、カ、カ、カブラギさんに振られたぁ」
鶏ガラみたいな体が前後に揺れて、まるでお化けである。浮世絵にこういう骸骨いたわ。毎日セットしていた髪も元のボサボサ頭。目の下がたるんでクッキリと泣いた跡があった。
ミリも驚かない。
当たり前だろうがボケ。地球が回転するくらい当然の摂理だろうが。
嬉しさでゾワゾワする。一応確認する。
「……まさか彼氏がいるとか?」
エグエグと沖田は泣いた。
「彼氏はいないんだけどぉ」「そうか♬」
「旦那さんがいるんだってぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜」
全ての音が消え、全ての風景が消える。
目の前が線と白の空っぽな世界になった。
◇
沖田の告白を聞いて、カブラギは大変申し訳ない顔になったのだという。
『ロクローありがと……気持ちは嬉しいんだけど…………私10日前に結婚したの』
!!!!?
『けっ!?』
沖田は口がきけなくなってしまった。
『けっ? けっけっけっけ?』
唇に当てた指が震える。
『カブッカブッカブラギさん彼氏がいたんですか?』
『うん。あ。ごめんね。これ誰にも言ってなかったの』
『どこのIT社長ですか!?』
目の前に『年収7000万』という数字が浮かぶ。カブラギさんならそのくらいの男がお似合いだ。どうしよう。茶飲み友達くらいで舞い上がって僕のバカバカバカ! 僕の時給は1100円なのに。バカバカバカバカバカ!
『あっ。そういうんじゃなくて高校の先生なんだけど……』
◇
「嘘だろ!?」
沖田の襟首をつかんでしまった。
「高校のせんっ……あっ!? まてよ!? 弁当屋!?」
沖田が消え入りそうな声になった。
「ウン……だからね……高校近くの弁当屋でアルバイトしてたんだって」
「は!?」
「好きな人に会いたい一心で、お弁当売ってたんだって………………」
◇
しかも相手は『元担任』だというではないか。考えられるのはただ一つ! 在学中に手をつけられていたのである。そうでもなければあのカブラギさんが高校教師なんぞに落ちるものか。
エッッッッロジジイ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!
16、17の子供に手をつけやがってろくでもない大人だ。逮捕されろ! 天罰落ちろ!
誰もいない教室や体育館でエロいことしてたんじゃないかと思うと歯がみする。余計な妄想をしてしまう。振り払っても振り払っても肌も露わな肢体が真っ黒い影に絡んだ。
別れろよカブラギさん! そんなろくでもない大人と結婚しても不幸になるだけだぞ! まだ20歳で。もったいなさすぎるよ!
◇
カブラギは日に日に美しさを増した。愛されている輝きだろう。いつの間にか左手に銀のマリッジリングをはめていた。
男どもが引き潮のようにカブラギの側を離れていった。
優勝確実と言われていた同機社大ミスコンテストにとうとうカブラギは出なかった。
『もうミセスだから』という理由である。
白いビキニのムチムチボディが舞台に登ることはなくなった。男どもの夢が儚く消える。
『勝手に失恋した』フリツは就職活動に力を入れていった。受けるところ受けるところ全て落ちる。
エントリーが70社を超えるころ、首を括ることすら考えた。誰にも必要とされていないと感じるようになった。
興梠不律はマスコミ志望だった。事件記者だ。
フリツには兄がいて、毎東新聞の文芸記者をやっていた。於菟と言う。弟は類
森鴎外の子供の名前から取られた三兄弟である。
兄の新聞社も落ちた。
歯牙にもかけなかった無名の会社も受けたがそこも落ちた。
ネクタイをした首に汗が溜まって塩が吹き出そうだった。
陽炎が立ち上るアスファルトの上で立ち尽くす。
俺は誰にも必要とされていない。
◇
鏑木紫陽が高校に受かったと聞いたのは9月。沖田の家で焼肉をしているときだった。
焼肉といっても金は無いわけで、ほぼ豚肉。タレで全てをごまかす。ちょっとだけ買ったカルビはほとんどフリツが食べた。お人好しの沖田には一切れやれば十分だ。
「はっ!? ズルいんじゃねぇの!?」声を荒げる。
「出身校の教師って、つまり旦那の勤め先だろ!?」
「ふーちゃん……。カブラギさんはちゃんと試験を受けたよ」
「出来レースだろ!? 旦那が手を回しててさぁ。」
ジュウッジュウッと煙が上がるのでホットプレートの肉を乱暴にひっくり返す。
「そんなことない。旦那さん選考からは外れてたらしいよ」
「裏で最初からあの女に決まっていたんだろうが!」
何社も『コネの力』を目の当たりにしてきた。フリツの父親はそういうのが大嫌いだから一切手は貸してくれなかった。兄のオトもだ。第一志望のマスコミにいるのに。俺にだってコネがあれば。今さらこんなショボイところでこんな奴と肉食ってない。
企業からくるお断りメールの『今後のご活躍をお祈りしております』という一文に心の底から腹が立った。何を祈ってくれるんだよ。こんなの呪いじゃないか。
鏑木紫陽…………。
あの顔にあのオッパイだ。だらしなく頬を緩める校長や副校長のヒヒ猿顔が浮かぶ。入社試験の結果とかどうでも良かったに違いない。
世の中は不公平だ!
◇
落選が120社を超えたころ、進路を変更することを考えだした。大学院に進むのだ。幸い親が授業料を出してくれるのだという。
通常大学院は出願が5〜6月、入試が7月なのだがフリツの大学には『特別枠』があった。卒論担当官が『これぞ』という生徒を1人、大学院に推薦してくれるのだ。
試験もパスだし面接も形だけだ。
だが教授の顔を潰さないためにも卒論で『優秀論文』に選ばれる必要があった。あらかじめ『この学生なら取れるだろう』という見込みがあっての推薦である。
幸い成績は良かったし、卒論担当官は童門幸四郎だ。優秀論文に選ばれるのみならず『最優秀論文』に選ばれてみせる。フリツは力んだ。
童門幸四郎は紫綬褒章を取った鷲尾名誉教授の一番弟子で、『仏の童門』。タプタプとした耳が特徴の大黒様。『大学院進学』を申し出たらことの他喜んでくれた。
他に希望者もいないため、フリツを推薦してくれるのだという。
大学院に潜みながら、海外を目指すのも悪くない。見てろよ。このままでは終わらないぞ。
だが最優秀論文を取ったのはあの鏑木紫陽だった。
フリツは優秀論文すら落ちてしまった。大学院に進むのにこれではなんの実績もアピールできない。特別推薦枠としては前代未聞らしい。院でどんな扱いを受けるかわかったもんじゃない。フリツの心は毎日暗かった。
世の中には顔も恵まれて、スタイルも良くて、結婚も就職も卒論も思い通りになる女がいるっていうのに、何で俺だけ何もかもうまくいかないんだよ。俺も女だったら。鏑木紫陽みたいに美人だったら。世の中のスケベどもを手玉に取って楽に生きていけるのに。
女はズルイ。世の中は不公平だ。
怒りがマグマのように腹の底に溜まり、自分のドロドロとした瘴気が首まで上がって窒息しそうだ。
許せない、許せない。鏑木紫陽、許さないぞ。
◇
「鏑木紫陽ってさ。知ってる? 旦那に卒論書かせたんだってよ」
断定口調で言ってやった。大学のカフェテリアだ。みんな一斉にフリツを見た。
証拠はないがそうに決まってる。鏑木紫陽の旦那はタカハシコレヤと言ってこの大学の『伝説』だった。
昭和詩檀の第一人者である美濃心の一級資料を見つけ、彼女の評価をひっくり返したのだ。成果は新聞に載った。教授たちがカブラギに群がってなんとか自分のところで卒論を書かせようとした。
教科書に載りたい。教授たちの野心がカブラギに注ぎ込まれた。今年の卒論は最初からカブラギがスターだったのだ。
カブラギの旦那はすごいヤツなんだろうが、あの女自体はオッパイでかいだけのカラッポ。俺が証明してやる。
カブラギの活躍が面白く無い学生が1人2人とフリツの周りに集まった。毎日カブラギの悪口を言っていると心がスッとした。就職できずに大学院へ進学する自分の姿を見ないで済んだ。
麻生が言った。
「ねぇ。そもそも最優秀論文だってさ? 武川の推しじゃない? 何せ武川女に目がないから」
そう。カブラギの卒論担当官、武川智樹は自分の秘書を『顔で選ぶ』ことで有名だった。
今は東畑の姉が秘書だ。東畑もキレイだが、姉は色気がすごい。
「どうせ武川に枕でも使ったんじゃない?」
「そうだ、そうだ!」
『推定』が一瞬で『事実』になる。
カブラギの就職先に匿名で電話した。こちらは正義を行使しているに過ぎない。あんな尻軽に教えられる女生徒が可哀想だ。
「未来の子供達のために!」とお互い鼓舞しあった。
◇
「卒業記念講演で泣かしてやろうよ」
誰が言い出したか覚えていない。
卒業記念講演は、最優秀論文筆者が演壇に立つ。カブラギは卒論を夫に書かせて遊んでいたわけだから、質疑応答でちょっと突けば馬脚を表すに違いないのだ。10人で毎日喫茶店のハマナスに集って作戦を練った。
カブラギの卒論テーマ『与謝野晶子』は膨大な資料を残しているので、一つ一つ突いていけば必ず答えられないところが出てくる。
10人が10人進路が上手くいっていない者たちだった。自分のウサをカブラギで晴らすことに夢中になった。
沖田が真っ青な顔でフリツを止めた。
「ふーちゃん。やめてよ! カブラギさんそんな子じゃないよ!」「うるさいっ!!」
腕を払いのける。
「目が怖いよふーちゃぁん」声が怯えている。
だがもはや沖田の声は聞こえなかった。
◇
そして卒業記念講演がやってきた。
◇
記念日にしか使わない講堂がむせかえるような熱気に包まれていた。入り口で『卒業論文集』を受け取る。優秀論文が6本収録されたものだ。鏑木紫陽の論文はそのトップに載っていた。一切読まない。
アーチ状の屋根を見上げて『やるぞ』と気合をいれた。講堂は高さ8メートルあり、オペラハウスのようだった。2階部分は出入り禁止で無人の観客席になっている。
椅子は3ブロックに分かれている。通路が2本。一般と招待席で場所が違った。この『卒業記念講演』は誰でも入って良いのだが、毎年学生しかいないし、いつもなら国文の4年生しかいない。
しかし今年はぎっしりと人がいた。野次馬である。
カブラギを攻撃する10人で前の方に固まって座る。兄のオトもついてきた。
新聞の新企画に煮詰まっているらい。気分転換がしたいとのことだ。
段取りで頭がいっぱいのフリツは与謝野晶子の分厚い資料を落としてしまった。
バラバラバラッ。
「あっ!」
バサッ。
何束も床にばら撒かれる。
「大丈夫ですか?」
頭上から落ち着いた声がした。
顔を上げると真面目そうな男が立っていた。
35を超えたくらいの、ショボくれた黒い背広姿。細くて黒いネクタイ。シャツの第一ボタンは外されている。
『オジサンだ……』
渋谷ですれ違ったら一瞬たりとも記憶に残らないだろう。
「あっすみません」
男が一緒に資料を拾ってくれたので慌ててお礼をいう。椅子で紙をトントンと揃えて、なんとか形にした。たくさんの赤丸や書き込みがしてある。与謝野晶子と石川啄木については研究し尽くした!
自分たちの座席から通路を挟んですぐ隣にさっきの男が座った。『招待席』だ。どこかの学校の先生か、大学の関係者だろう。
緊張していたフリツはそのまま男の存在を忘れた。
◇
カブラギが登壇した途端、兄のオトが息を呑んだのがわかった。身を乗り出す。肉感的なボディに瞳が吸い寄せられている。
「キレイな子だ……」と呻いた。兄の気持ちはよくわかる。フリツもオリエンテーションのときは衝撃を受けた。
「あの子が最優秀論文? 才色兼備だね」と囁かれたので黙ってうなづいた。いやいや、俺たちが化けの皮を剥がしてやりますよ。
黒いワンピースに赤いベルト、さらに黒のパンプスで彼女は20分の講演をした。ワンピースのスソは細かなレースだ。カブラギがプロジェクターの資料を示すたびサラサラと揺れた。
まあまあ面白かった。手堅くまとめた感じだ。しかしこれから『矢のような質問』が彼女に降り注ぐ。『質疑応答』である。早く彼女の泣き顔が見たかった。
学生たちに質問が促され『同志』が一斉に手を上げた瞬間だ。
ドサッ、ドサッ、ドサッと3回音を立ててカブラギがノートを講演台に置いた。パッと見15冊はある。カブラギの顔は戦場に赴く兵士のようだった。
眉がキリリと上がって、黒い瞳が大きく見開きながら一層輝く。唇を『ギュッ』と絞って『言葉の弾を込めた』のがわかった。
真っ直ぐ聴衆を見つめる様は革命でも始めそうな勢いだ。
ドラクロワの絵画『民衆を導く自由の女神』を思い起こさせた。
フリツは『アッ! 負ける!!!』となぜか思った。反射的に上げた手を下ろした。
「はいっ。じゃあそこのあなた!」司会の武川の声が響いた。
麻生が立ち上がる。
◇
結果を言えば『質疑応答』はフリツチームの惨敗であった。
わざと『みだれ髪』からは質問を出さず、カブラギが勉強してなさそうなところ……『源氏物語』『母性保護論争』『森鴎外との関わり』などを出したが、ことごとく答えられてしまう。
会場の空気が『カブラギ優勢』にひっくり返っていくのを肌で感じる。そんなバカな。どうして? みんなあんなにカブラギを悪く言ってたじゃないか。
そこに『招待席』から手が上がった。武川がなぜか満面の笑みになった。
立ち上がった男を見てフリツは驚く。
『あっ!あの資料拾ってくれたオジサン……』
真面目そうな、いかにも高校教師といった男が口を開いた。
「松桜高等学校の高橋是也です……」
!!!!!!!
◇
タカハシコレヤ!? カブラギさんの旦那か!
その後彼が何と言ったか覚えていない。
こんな普通な、お金だってそんな持って無さそうな、善良なばかりの男がカブラギさんの旦那なの? なんで? IT社長とか、不動産王とか、モデルとか芸能人なら納得するよ。なんでこのオジサン!?
覚えているのは高橋是也を見つけた鏑木紫陽の目からみるみる涙がこぼれたことだ。
世界中が敵で、砂漠の中やっと見つけたただ1人の味方だという顔をしたことだ。あんな顔この4年1度も見たことない。
『卒業記念講演で泣かしてやろうよ』誰かさんの望みは叶った。微笑むと世界で一番美しい人は、泣いても世界で一番美しかった。彼女の瞳はただ一人の人を捉えていた。
フリツにはわかってしまった。
カブラギさんはこのオジサンを心から愛している……。
◇
何もかも終わってから『同志』と喫茶店ハマナスに集まった。
みんな一様に暗い表情をしていた。敗残者の顔である。会場には500人以上人間がいて、最初カブラギは499対1に見えた。だが、会の終了には10対490になっていた。
万雷の拍手が内耳にこだまして苦しみが蘇える。
それぞれコーヒーだの、メロンソーダだの注文したが手につけるものはいなかった。
そこにだ。
「おや? お通夜?」
と声をかける者がいた。
誰かが「あっ。武川助教……」と声をあげた。
武川智樹だ。
タレ目でイケメンでもなくて、それでいながら歩き方だけはモデルみたいな、いけすかない男。何よりウワサが好きな『ゴシップ製造機』
「どうしたの? 君たち?」
ニッコリ笑うと空いた席に座った。足を組むと膝から下が本当に長い。ピシッとアイロンがけされたスーツのズボンからしまった足首が見えた。
「カブラギサンのこと。貶められなくて残念だったねぇ」
◇
全員凍りつく。
フリツが小さく笑った。
「ははっ。先生……ご冗談を……僕らただ講演会を盛り上げたかっただけですよ?」
武川が真顔になった。
「君たち。ずっと先生たちから見張られていたんだけど。気づかなかった?」
◇
武川は話し始めた。
鏑木紫陽の最優秀論文が内定したころ、おかしなウワサが流れるようになったこと。入社が内定した松桜高等学校に匿名の電話が入り始めたこと。松桜高等学校から問い合わせがきて初めて教授たちは事態に気づいたこと。
「電話した犯人。知らなかったんだろうねぇ? 外部からの電話は全て録音されているんだよ」
全員が蒼白になった。特に電話をかけた4人は倒れそうであった。武川は一人一人の顔を愉快そうに見つめた。
「今から5年前。『松桜高等学校』にストーカー事件があってねぇ」
「「「えっ」」」
「特定の女生徒が校庭で体育をしていると、執拗にビデオを撮られたり、電話で生徒の情報を探られたりしたんだ。それで高校は対抗措置として電話を全て密かに録音することにした」
「「「ええっ」」」
「もちろん。何もなければ3ヶ月で消えるデータだ。だが、入社が決まっている新任教師が『卒論を代筆させた』となれば話は別だ」
「「「「………………」」」」
「教授たちで高校までその録音を聞きに行ったよ。カブラギサンの旦那さん、高橋是也って言うんだけど、彼は身内だから知らされなかった。もちろんカブラギサンも何も知らない」
大葉、平畑、武川、童門、天野の5人。
「渡部先生はねぇ……。その、隠し事が得意でいらっしゃらないから」
すごい湾曲表現してきた。
「録音機から流れてきた声……俺たち全員聞き覚えがあったよ」
電話を掛けた4人が口をパクパクさせる。背中に嫌な汗が流れた。
「ああ。そうだ。そのストーカーされた女生徒。名前『鏑木紫陽』って言うんだけど」
ヒッ。
「まさかカブラギサンのために張った罠に君らが引っかかるとはねぇ?」
全員がソドムの街で後ろを振り返った塩柱みたいになった。
◇
「で? コオロギフリツクン」武川が一層の笑顔になる。獲物を捕まえたライオンが大きく口を開けたところだ。
「誰がカブラギサンと寝たって?」
◇
オシッコを漏らしそうになったがなんとか堪えた。武川がトントンとテーブルを叩く。
「松桜さんもねぇ。刑事事件でもないのに、音声データを外部には出せないって言うんだよぉ。父兄に内緒でやってることだしね。まぁ、でも、何回も聞かせてもらったから覚えちゃったぁ」
武川はウキウキした調子で電話の声を暗誦しはじめた。これがカン高い上に一本調子のフリツの喋り方をよく捉えている。
「『ええそうなんです。武川智樹っていうのがまたとんでもないスケベで。卒論通すのに鏑木紫陽に枕の要求をしたって話で』」
フリツの足が細かく震え出した。顔を上気させてしゃべったあの日のことを思い出した。気持ちよくカブラギや武川に冤罪を押し付けた自分が今、自分自身を切り刻む。
「まあね。俺にも反省点あるなとは思った。確かに秘書の子は歴代キレイだしね。ほら? 仕事場はなるべく快適なところがいいじゃない?」
薄笑いを浮かべた武川はフリツに視線をロックオンしていた。一切そらさない。
「君らには大事な観点が欠けている」
いつもの下世話で脳天気な声が消えた。殺し屋が銃を構えたときに出す声色だ。
「我々研究者には矜持というものがあるんだ」
◇
武川は両指を組み合わせ、テーブルを見つめながら一言、一言区切るように話した。
「もし、大学教授が論文を他人に書かせたらどうなると思う? 一発退場だよ。学会から永久追放だ。『論文代行』があるのは知ってるよ。我々も毎年学生の論文、本人が書いているかチェックするしね。でもそのレベルが我々と同じだと思われては困るね」
誰も口をつけない飲み物が10個、冷めるがままになっている。
「我々にとって『論文を他人に書かせる』というのは万死に値する行為なんだよ。自分の積み上げた実績が一瞬で崩れ去る。そんなやつの研究結果なんか誰1人聞かない。だから『噂で軽々しくそんなことを口にする奴』なんか許せない。
ましてや学生と寝て、そいつの論文を最優秀論文にするとか、馬鹿か? 一読したら論文が『良いものが悪いものか』ぐらい専門じゃなくてもわかる。
君たちバカの目は誤魔化せても、全国にいる、世界中にいる研究者たちの目は誤魔化せない」
あちらこちらから喫茶店内の和やかな音が聞こえた。普段気にしない小さなジャズミュージックまで聞こえた。『チャリーン』とスプーンが落ちる音がしたが、誰も反応しなかった。
「学生たちだって全員君らに騙されていたわけじゃない。何もかも話しに来てくれた生徒だっていたよ。興梠不律君。君が中心になって10人の生徒が動いていることはかなり早い段階からわかっていた」
「……沖田っ。あいつ……!」
「話した生徒に心当たりがあるようだね? でもその子、君のことずっと止めてくれてたんじゃないの?」
沖田の主体性のない、ネズミのような顔が浮かぶ。
『ふ〜ちゃあん』という泣きそうな声が聞こえる。
「友達の必死の静止を聞かなかったのは君だ。いつでも引き返せるのに、最後まで手前勝手な正義を振り回したのも君だ。それに君卑怯だねぇぇぇ」
武川の声は突然真冬の川に突き落とされたかのような冷たさだった。絶対的『0度』だった。麻生が思わずカーディガンを前で合わせてしまったほどだ。
「質疑応答のとき。先生たち鏑木紫陽を見ていなかった。全員で君らを見てたんだよ。雁首揃えて前列に座った君らを。鏑木紫陽の涙、美しかったかな? で。コオロギクンはなんであのとき挙手しなかったの?」
「そっそれは……」フリツは言葉に詰まった。
「一瞬で『負ける』と気づいたからだね? そこで手をあげずに知らん顔したわけだ。手下どもに恥をかかせて、自分は安全圏で守りに入った。この喫茶店でもうまくみんなを丸め込んで『なかったことにしよう』としてたんじゃないの?」
質問をした金山や麻生がフリツを驚いて見た。そうだ。確かに興梠不律はあのとき何もしなかった。自分たちはあの瞬間リーダーに切り捨てられていたのだ。
「ざんね〜ん。あの質疑応答ね。下手人の最終確認だったんだよね。1人も漏らさず繋がりをみつけて、講演会が終わったら全員カンファレンスルームって名前の取調室にしょっ引かれる算段になってたんだ。どう言い訳するの? カブラギサンを貶める電話をした4人と、質問した3人が仲良く固まって座ってた理由をさ? ビデオだって残っているんだよ。講堂に学生が入るところからバッチリ撮ってる。10人塊で来たよね。どうみても親しい友人同士だ。君らカブラギサンを罠に掛けたつもりだろうが、罠に掛かってたのは君たちだったってわけ」
武川は犯行現場に戻る犯人よろしく、愚か者どもがここに戻るのを待った上で引導を渡しに来たのだった。
「君らカブラギサンに感謝しなよ。あそこまで完璧にカブラギサンが自分の嫌疑を晴らさなければ相応の処分が下る予定だった。具体的に言うと卒業取消だ。天野先生のあれ、あながち冗談でもなかったんだよ。特に興梠不律に関しては大学の永久追放がほぼ決まっていた」
全員が堕ちたリーダーを見た。
◇
「これカブラギサンから借りてきた」
と、武川はノートを5冊。2人に1冊の割合で配った。びっしりと与謝野晶子研究について書かれていた。石川啄木関連もある。フリツの不勉強な質問など一蹴されただろう。
フリツが何より打ちのめされたのはノートの最終ページに書かれた言葉だった。
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星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝たむと云えな
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鏑木紫陽が講演会の最中、その場で書いてプロジェクターに映した歌だ。右上がりの特徴的な字で、ノートに書かれた字体と同じ。
目の前で書いた文字とノートの他の文字が一致すると言うことは、このノート全て鏑木紫陽が書いたことを表している。
「15冊分びっしり研究して、さらにそれをまとめて10万字の論文にした。これでも鏑木紫陽さんが『卒論を代作させた』といいますか」
麻生が泣き出した。
◇
その後は大学で取り調べだった。全員犯行を認めた。教授たちの鬼のような顔が忘れられない。童門は『仏』じゃなくて『閻魔大王』だった。グッタリ帰りの電車に乗った。
家に帰ると兄のオトがタコ踊りしていた。
右手にカブラギの論文を持っている。カブラギが10万字も書いたので今年の『優秀論文集』は上下2巻になったのだ。上巻は最優秀論文が掲載された。
「フリツやったぞーーー!!!」
兄に4年ぶりに抱きしめられた。前回は大学合格のときだ。
「見つけた! この子だ! 僕はこの子を小林秀雄にする!!」
何で急に著名な文芸評論家の名前がでてきたかわからなかった。
兄に『新聞社でこの子を雇いたいから話をつけてくれ』と言われ驚いた。鏑木紫陽に文芸欄のコラムを担当してもらうのだという。冗談じゃない。連絡先すら知らない。沖田緑郎に頼んでくれ!
全力で断り部屋に逃げ込んだが、夕方リビングに呼び戻された。
頭から湯気が出ている父親と、泣き続ける母親。唇を噛む兄。兄の子供だけがYouTubeを見て爆笑している。
花柄模様のテーブルクロスを見つめながら黙って席についた。お茶すらないテーブルに父親の握りしめた拳が見える。
「大学から電話があった……」押し殺した声がした。
「『厳重注意』だ。次問題を起こせば問答無用で放校だそうだ」
大変なことになってしまった。退学となれば海外進出どころじゃない。
「大学院に入れてはくれるが、お前の担当教授を童門先生から天野先生にすると言ってきた」
天野!? 真っ青になる。童門は『仏の童門』だが、天野は果てもなく厳しくて有名だ。学生秘書が1年で3人も入れ替わると言う。天野の研究室は『監獄』と呼ばれていた。
「む……無理……無理です……」
声が掠れて上手く話せない。
「童門教授ご本人から連絡いただいた。童門先生は入学取消を主張されたが、唯一天野先生だけがお前を引き受けてくれるとのことだ。もちろんもう一度問題を起こすことは許されない。それが嫌なら今からでも自力で就職しなさい。お前の大学院費用も考え直させてもらう」
崖に、真っ逆さまに、落ちていくよう。
兄のオトが静かにフリツに話しかけた。
「フリツ。まず、鏑木紫陽さんに謝罪しなさい。直接だ」
頭を横に振る。無理無理! カブラギさんに! 軽蔑されるなんて無理!
「カブラギさんね。何も知らないそうだ。明日カブラギさんと話してきなさい。お前が首謀者だと聞いたよ。フリツはカブラギさんの論文、読んだの? 他の論文も載っていたけどね。レベルが違うよ。その他の学生は『きれいにまとめただけ』だが、カブラギさんの論文は立派な研究だ。恐ろしい程才能を感じるよ。ユニークで唯一無二の視点を持っている」
大学院進学を取り消されないよう、その条件を呑むしかなかった。
翌日カブラギに会ったのに、謝れなかった。兄が会いたがっているとそれだけ言った。頭が真っ白で連絡先も聞けなかった。
カブラギはフリツの名前すら知らなかった。
家に帰って兄に泣きながら「論文も読むし、必ず謝罪するから」と説き伏せ、兄から鏑木紫陽にこの件について話題にすることをやめてもらった。
「そんなお前……カブラギさん全て知ったら新聞のコラム引き受けてくれないんじゃない?」と言われたが、あとはもうひたすらすがった。
大学から正式に『卒論の代理疑惑は事実無根である』と一斉メールがあり、同文が掲示板に貼られた。
関わった学生全員に名前入りの厳しい処分がくだった。卒業式すら出席できないそうだ。
あれほど仲間と打ち合ったLINEは途切れ、フリツを残して全員が退出していた。罵詈雑言がスレッドに残る。フリツはオトとの約束を守るために最悪な気分で論文を読み始めた。
◇
フリツは次第に全てを忘れた。
すごい論文だった。
『与謝野晶子論』ではあるのだが、万葉集の和歌から始まるのである。
平安時代の女流歌人『和泉式部』や『藤原定子』
『待賢門院堀川』が並び、いかに女たちが恋について奔放に、豊かに歌ってきたかが書かれていた。
満を持して『与謝野晶子』が現れる。
与謝野晶子がどれほどの衝撃を与えたか、当時の新聞や雑誌の引用によって綴られた。
さらにすごいのが令和の歌人たちまで言及していたことだ。与謝野晶子の影響が死後80年を超えても続いていることを指摘して論文は終わる。
鏑木紫陽の論文は実に1300年もの『女性の恋』について書かれていたのである。
夢中になって読み、熱いものが胸に残った。
これを最初に読んでいたら、口が裂けても『あの女はオッパイでかいだけ』と言えなかっただろう。
◇
喫茶店ハマナスにカブラギは約束の時間通りに現れた。
一斉メールはカブラギにも当然届いていたろうが、カブラギは何も言わなかった。
(実は届いていたが、見てなかった)
席についたのは『いつも通りのカブラギ』で、彼女の顔を見ただけで胸が張り裂けそうになった。初めてカブラギの胸を見なかった。何カップだろうがもはや関係ない。
兄の差し出す名刺を見てすぐ『興梠於菟』と読んだ。兄も難読漢字としては大概なのだが、与謝野晶子に精通しているカブラギにとって『森鴎外の息子と同じ名前』は簡単だった。森鴎外は与謝野晶子の最大の理解者だったのだ。
フリツなんか『自分の名前は森鴎外の次男と一緒』という理由でもなければ、文豪の子供に興味を持たなかったろう。
「今日は来てくださってありがとう」
頭を下げるオトにカブラギも慌てて頭を下げた。
「あっ。いえっ。私のような一学生に何のお話でしょうか!?」
「カブラギさん。その前に……フリツ。お前カブラギさんに言うことがあるんじゃないの?」
フリツはカブラギの方を見れない。オトがため息を漏らす。
「帰りにはきちんと話しなさいね。カブラギさん。ごめんなさい。あなたには不律の兄としてもお話したいことがありますが、今は新聞記者の立場で話をさせていただいても大丈夫ですか?」
「あっ。はいっ。大丈夫です」
首にネックレスが光っていた。小ぶりながらも三つ揃えのしっかりしたダイヤで、女子大生がバイトで買えるような代物ではなかった。
「ネックレスとても素敵ですね。ダイヤが3っつもついている。もしかして、ご主人のプレゼントですか?」オトがにこやかに尋ねる。
カブラギははにかんだ。
「そうなんです……。一つはプロポーズリングにはまっていたダイヤなんです」
「やあ。それは一生物ですね」
「はい……主人と話し合って結婚指輪はシンプルなシルバーリングにしたんです。私たち婚約して2週間で結婚しちゃったので『エンゲージリング』はないんです。私はそれでも良かったのですが、主人が代わりのものをプレゼントしたいと言ってくれて……」
与謝野晶子の『晶』は『日』が3つだから。プロポーズリングのダイヤに残り2つダイヤを加えて三つ揃えのネックレスにしてくれたのだという。
家に帰ってオトが言うには『あれは高いよ。オーダーメイドだし。80万はくだらないはずだ』
燦然と輝くダイヤのネックレスを見ながらフリツはテーブルの下で拳を握った。
カブラギは愛されている。そしてカブラギもあのくたびれた背広の男を愛しているのだ。
どうして? カブラギさん。
あの男のどこがいいのよ? どこにでもいる17も年上のオジサンじゃん。なんで俺じゃないの?
あんなオジサンに心を奪われるなら。もしかしたら。俺にだってチャンスがあったんじゃないの?
カオナシみたいに全力でカブラギさんにぶつかっていっても良かったんじゃないの?
俺はこの4年ただ言い訳しながら生きたんじゃないのか? 勇気さえあれば、未来は変わったんじゃないのか?
だがもはや、自分は鏑木紫陽を傷つけただけの卑劣漢だ。
カブラギは思ったよりたくさん話をしてくれた。
高校の入学式で国語教師に恋をしたこと。とても自分の気持ちは言えなかったこと。授業を受けていくうちにいつしか自分の夢も国語教師になったこと。そのために大学は同機社を選んだこと。20歳の誕生日に告白にいったこと。押しても押しても落ちてくれなくて最後は「ボランティアでいいから付き合ってくれ」とまで言ったこと。就職の選考に関係者は全て外されて心細かったこと。卒論は夫と議論を重ねながら書いたこと。
率直にみんな話してくれた。
フリツは後悔の念が染み渡っていった。
カブラギさんは何にも、ズルしてない。
「沖田緑郎と友達だ」と話したらカブラギの顔がパッと輝いた。
「ロクローと友達なんだ!? なんだ私にも声を掛けてくれれば良かったのに」
そうだ。そうするべきだったのだ。
◇
喫茶店を出ると「大学にご挨拶がありましてね」とオトは去っていった。父兄として、大学に謝罪に出向くのだろう。その上で武川卒論担当官に新聞社の依頼について話しにいったのだろう。
それに今度こそフリツに謝罪の機会を促したとも言える。
会話なく駅まで着くと「俺。逆方向だから」と改札で別れた。
……カブラギさんに謝らないと……。
歩きながら思ったができなかった。恐怖で身がすくんで。保身に走る自分が情けなかった。
線路を挟んだ向かい側のホームにいるカブラギと目を合わせるのも気まずい。
フリツはホームでスマホを取り出し、何か熱心に見るフリをした。早く来い。どっちの電車でもいい。早く来い。
その時。
「ねぇ。フリツくん!」
鈴を転がすような声がした。
フリツは振り返った。
鏑木紫陽だ。わざわざ反対ホームまで走ってきたのだろう。少し息を弾ませていた。
「今からでも友達になろうよ!」
顔が歪む。俺がどんなことをしたか知ったらそんなこととても言えないよ。もう友達になる資格なんかないんだ。
カブラギはフリツの元へ駆け寄った。そして手を出した。フリツの左手を両手で包み込むと、柔らかい、温かい、親しみのこもった握手をした。
「ロクローとさ。3人で。ササゼリヤでも行こうよ!」
うなづくしかなかった。彼女の胸に輝く三連のダイヤを見つめて。与謝野晶子は『日』が3つなんだ。太陽の子なんだ。
この子の夫はそれを良くわかっているんだ。
強烈な陽射しに、俺の醜い心など溶けて消えてしまう。
「カブラギさぁん……」フリツは声を上げて泣き始めた。「本当に、本当にごめんよぉ」
背を天に向けて逸らし、右手をまぶたに当てて呻きながら謝った。
22の男が、みっともない。
だが罪もないこの美しい魂を曇らせた以上にみっともないことなんかあるもんか。最初からわかっていた。この子の心が美しくて、真っ直ぐで、輝いていることを知っていた。
カブラギは驚いたが、そのまま改札の外にフリツを連れ出すと人目が少ないベンチで話を聞いてくれた。泣いているフリツに温かいお茶を買ってくれた。それから「大丈夫だよ」笑ってくれた。
後の話になるが、カブラギは新聞社の依頼も蹴らなかった。きちんとコラムを書き上げ、兄とともに現代短歌を盛り上げていったのだ。
フリツは家に帰ってベッドに横になると、蝉の抜け殻のように動かなくなった。就職活動中、何度も何度も聞かれたことが脳裏をよぎる。
『興梠不律君。あなたは大学4年間で何をしてきたのですか?』
まだ出せる涙があったのか。両手でまぶたを覆い、手首が濡れるままにした。
はい。失恋を、してました。
(終)
お読みいただきありがとうございました!
下の " ☆☆☆☆☆ " より評価していただけると、嬉しいです!
よろしくお願いします(^ ^)
【次回作】『16万年前の隣人』
「母には2回会うけれど、父には1回も会わないものな〜んだ?」「答えは唇」
高橋紫陽は23歳。現国教師1年目。旧姓は鏑木。
新聞のコラムを執筆している紫陽は新聞記者、興梠於菟の元を訪れた。
紫陽はオトから摩訶不思議ななぞなぞを投げかけられる。
「答えは唇にはなりませんけど?」
『母』はなぜ、『ハハ』と発音するのか?
オトと共に発音の歴史をだどれば、その答えが見えてくる。
16万年前の人類と私たちはわかりあうことができるのか?
わかりあうとは何だろうか。
1300年の歴史をたどる発音ミステリー。
(↓↓スクロール下のリンクより【次回作】に飛びます↓↓)
☆☆日間【コメディ】36位☆☆感謝☆




