(26)あなたにとって与謝野晶子とは何ですか?
紫陽の心は震えた。
今まで聴衆に紛れて見えなかったが、夫が確かにそこにいた。
タカハシはニコニコしていた。渡されたマイクでタカハシは話だした。低い、よく通る、うっとりするような声が講堂に響いた。
「鏑木紫陽さん。とても良かったです。お伺いしたいのですがあなたにとって『与謝野晶子』とは何でしょう?」
紫陽のただならぬ様子に聴衆が気づいた。まてよ? タカハシ? タカハシコレヤ?
「ライフワークです!」
紫陽の大声にビイイーンとマイクの音が割れる。
一部が驚いて耳を塞いだ。
「今から7年前! 私は恋をしました!」
もう紫陽にとって群衆はいないも同然だった。タカハシの姿だけをその目がとらえ、タカハシの声だけをその耳が聞いた。
「その人は……その人は……学校の先生で……けして生徒と付き合ってくれるような人ではありませんでした!」
タカハシがバツが悪そうに視線を下に向けた。照れているのである。
「私は辛い恋を与謝野晶子の『みだれ髪』とともに乗り越えました。
『やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君』けっして触れてもらえない自分を嘆き、『罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ』きれいになって見返してやるんだと思い、『さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人であらばあらば如何ならむ』『淋しい、会いたかった』と飛んできて欲しいと何度も願い。
早く大人になりたい。早く大人になって高橋先生の恋愛対象になりたいって。
そうやって……晶子の歌と共に……。叶わないかもしれない恋を耐えて……」
紫陽の目から涙があふれ、講演台の下にポトポトと落ちた。
その頃には聴衆は気づいていた。
あ! この人がカブラギさんの旦那だ。え? どんなすごい人かと思ったらこの人!? この人が『設立以来の秀才』? 『伝説の同機社生』!? 普通じゃない!?
眼光するどい鷲尾教授とか、高圧的で偏屈な天野とかを想像していたが、目の前にいるのは優し気で目立たない人だった。
「やっと……やっと私の恋は実りました。それでも晶子の歌は私の中で響き続けます。私は彼女の歌と共に生涯を送りたいと思っています。幸い晶子は5万首もの歌を遺してくれました。折に触れて晶子の歌を思い出し、この学舎を離れてもライフワークとして研究したいと思います」
パチ……パチ……パチ……。
タカハシが拍手をした。続いて教授らが拍手をした。天野グループが両手を上げて高いところで拍手をしてくれた。
やがて講堂全体が拍手で埋まった。口笛を吹くもの足を踏み鳴らすもの。音は幾重にもうねり、響き、共鳴した。
ウワァーーーーーッッッッ!!!!
紫陽は夢から覚めたように辺りを見た。あの時と一緒だった。高校3年の舞台。
主役の中村烈になりきった鏑木紫陽が舞台の最後に見たもの。誰よりも好きな人の満面の笑顔と拍手。
緊張の糸が切れた紫陽は講演台に崩れ落ちた。
その時である。
「どけ」と低い声がしたかと思うと、司会の武川を乱暴に押し退けた男がいた。マイクを奪う。そして思い切り叫んだ。
「お前らどうしようもねぇなーーーーーーーーーーーーー!!!!」
イイイイーーーーンッッッッとマイクが不協和音を起こす。驚いた聴衆が声の方を見ると不機嫌極まりない天野啓治がいた。白髪頭のボサボサ頭。いつから履いてるかわからない汚いサンダル。薄黄色の四角い眼鏡。
「どいつもこいつもカブラギ1人束になっても敵わないってわけか!? お前ら全員の卒業論文読んだがなぁ! 見る影もなかったわ!」
カブラギは唖然としながら天野を見た。『ラスボス来た……』と思った。
「カブラギ以外、全員卒論再提出っっっっ!!」
歓喜していた聴衆が一転パニックを起こした。悲鳴が上がる。恐怖のあまり白目になる者までいた。
天野啓治がニタリと片頬を上げた。
「卒業はさせてやる。だが全員もっとましな卒論持ってこい。期限は俺がこの大学を退官するまでだ」
講堂から悲鳴ともため息ともつかない声が漏れた。膨らんだ風船がプシューッと縮まっていくみたいだ。天野が怒鳴る。
「閉会っっっっっ!!!!」
こうして第64回同機社大学『卒業記念講演会』は幕を閉じた。1人の合格者と、その他の不合格者を残して。




