(25)コシキブナイシっちゃう
サラシ鯨と枝豆、豆腐を前にアリサは紫陽を激励した。
日本酒のトックリが何本も倒れている。
めっちゃ飲むなぁ! この人!!
小汚いテーブルにベタアッと頬をつけてアリサは片指で琴をつまむ真似をした。エアー演奏である。
「紫陽ちゃんさぁ〜。もう、小式部内侍っちゃいなよ〜」
コシギブナイシッチャウ?
「ほら〜。和泉式部さまの子供が小式部内侍チャンでしょお〜」
「ああ! 『百人一首』ですね?」
「そうそう〜」
百人一首 第60番 子式部内侍
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大江山いく野の道の遠ければまだ文もみず天橋立
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大江山を越えて、生野へとたどりつく道が遠いので、私はまだ天橋立にも行ったことはありませんし、そこにいる母からの手紙も見たことはありません。
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子式部内侍は歌が上手かった。若いのに上手すぎると実力を疑われる程だった。
ある日歌合わせに呼ばれた。歌詠みの会で負けることは不名誉なことだった。子式部内侍の母は有名な歌人、和泉式部。
そこで藤原定頼に「(丹後にいる)お母さまに代詠を頼んだ使者は帰って来ましたか」とからかわれてしまう。
つまり『ズルして代わりに歌を詠んでもらうのでしょう』と言われた訳だ。
そこでとっさに詠んだ歌。
地名の『生野』野に行くという意味の『行く野』、足を踏み入れるという意味の『ふみ』手紙の『文』が掛けられている見事な歌。
疑いを掛けた定頼は逃げ出してしまったのだという。
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アリサは授業では『和泉式部』と呼び捨てにしてたが、飲みの席では一貫して『和泉式部さま』と言っていた。崇拝しているのである。この平安歌人に人生を捧げているのである。
「いつの時代にもさぁ〜。いんのよ。定頼みたいなゲッスイこと考えるやつがさぁ〜。でもそんなん跳ね返してやんな! ね!」
バンバン背中を叩かれた。背中冷っっめたい。
マジ死んでるわアリサ。
◇
紫陽は気づいた。先生たち、なーんにも言わなかったけど本当は心配してくれてたんだ。
みんなで私を見守ってくれてたんだ。
「ハイハイハイ!」元気に手が上がった「棚橋薫。4年。天野グループでぇす!」
あ! 薫! それに天野チルドレンのみんな!
棚橋は希望担当官の提出期限をうっかりし、天野グループに入れられてしまったのだ。
10名の男女が紫陽に向かって手を振っていた。
カブラギさん! 私たちはわかってるからね!
「『みだれ髪』でカブラギさんが好きな歌を教えてください!」
「そうですね……」
紫陽は目をつぶった。
「1番好きなのは『やは肌のあつき血汐にふれもみでさみしからずや道をとく君』ですが、ここ最近は別の歌ばかり考えてました」
紫陽はサラサラとノートに何かを書きつけると、プロジェクターで大写しした。
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星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝たむと云えな
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「これは結婚で歌壇を離れることになった山川登美子……晶子の盟友で恋のライバルでもありましたが……彼女を励ましたい晶子の気持ちが込められています」
星の子よ。戦友よ。運命なんかに負けないで下さい。魔にも鬼にも勝つと言ってください。
「私は挫けそうな時これを唱えました。晶子に叱ってもらいました。魔にも鬼にも負けるわけにはいきません」
聴衆は水を打ったように静かになった。
「卒論作成で1番腹が立ったのは『夫に卒論を代筆させたんだろう』と言われたことです。私の夫はそのような人ではない!」
鉄幹が、晶子にくる非難を雑誌内で幾度も反論したように、私だって夫の名誉を守ってみせる。
「私をそのように思った人は反省して下さい。確かにたくさん助けはもらいましたが最後の1行まで私が書きました。いくらでも反論してみせます。卒論に使ったノートを全公開してもいいです」
最初から『ズルい鏑木紫陽』などどこにもいなかった。彼女は真っ当に、真剣に、卒論を書いた。そして評価されたのだ。それだけのことだった。
もう誰からも手は上がらなかった。
「はい! じゃあこれで!」と武川が言いかけたとき真っ直ぐに上がった手があった。
武川の顔が輝く。
「じゃあ。最後にそこの、招待席に座ってらっしゃるあなた!」
男が立ち上がった。
ヨレヨレのスーツ。優雅で繊細な手。黒くて細いネクタイ。
「…………松桜高等学校の高橋是也です」
あ!是也さん!




