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(21)そんな馬鹿な

「ね……その……紫陽……落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」


 東畑梨々香に言いにくそうに切り出された。


「紫陽。噂になってるよ?」

「え? 噂?」


 聞いて驚いた。


 紫陽の論文は全て夫のタカハシが書いたことになっているらしい。しかも最優秀論文に選ばれたのは武川智樹に『枕』を使ったかららしい。


 紫陽の就職も夫が威光を傘に無理矢理ねじ込んだもので、本人には国語の先生になる実力はないらしい。


「そ……そんな……そんな馬鹿な……」


 違います! 就職の時選考に夫は外されていた。論文も100パーセント紫陽が書いたし武川に『枕』なんか使ってない!


「嫉妬だよ。紫陽があまりに上手くいってるからってさぁ」


 間が悪いと言ってはなんだが、紫陽の『首席』が内定した。







「えー。カブラギさんそんなことないってー」


 天野チルドレンは皆同情してくれた。苦楽を共にした仲間だ。だが、たかだか10人程度の加勢ではどうにもならなかった。


 天野はあまりに人気が無さすぎて定員30名のところ10人しかこなかったのである。


 紫陽がカフェテリアで食事をしているだけで、冷たい視線やヒソヒソ声が聞こえた。


 東畑梨々香や棚橋薫もなんとなく居心地悪そうで申し訳ない。


 立ち上がり大声で「全部私の実力ですっ」て叫びたかった。


 就職先の松桜高等学校に何本か匿名の電話があったと聞いて目の前が真っ暗になった。


 事務から連絡があり『聴取』を受ける羽目になった。まるで犯罪者。


 噂じゃない?


 どうしてたかが噂でそこまでするの?







 とどめは飲み会だった。

 紫陽のゼミで『お疲れ様会』があった。ゼミのみんなと楽しく語らい途中で紫陽はトイレに立った。


 1階から7階まで全部飲み屋。4階にいた紫陽はトイレのある3階まで降りた。


 そこで大声を聞いたのである。


「ほんとムカつくよな。カブラギシヨウてのはさー!」







 思わずトイレの影に隠れる紫陽。


 そこは3階と4階が同じチェーン店の安酒飲み屋で、階段で双方を行き来できるようになっている。

 紫陽の目線1メートルのところに10人掛けの大きなテーブルがあって声はそこから聞こえた。


 発泡酒を前にあばた顔で丸鼻の男が気勢を上げる。

 首の上から手の指まで真っ赤だ。


「どうせあのデカイおっぱいで男どもを籠絡したんだろ? あー。あー。いいなぁー。俺も女になりたかったわ。旦那に論文書かせてさー。タレ川と寝てさー。そしたら俺も『首席様』だ」

「フーちゃん飲み過ぎだよ?」


 と誰かに注意されたが、丸鼻はその手を振り払った。


「就職もおっぱいでラクショー。校長から教頭から全員と寝れば将来に渡って万々歳じゃない?」


 紫陽はその場に飛び出したかった。


「うちは女子高で校長も教頭も女ですっ」て相手をはたいてやりたかった。


 しかし紫陽はそのまま4階に戻った。何事も無かった顔でお酒を飲んだ。

 帰り丸鼻に鉢合わないことばかり願った。







 おっぱい、おっぱいって。胸が大きいから何だって言うのよ……。


 家に帰って紫陽は泣いた。夫は仕事でいない。


 どうも『若くてきれいで胸が大きければ人生楽勝』と男どもは思うらしいがそんなことないのだ。


 紫陽は高校時代を思い出した。







 鏑木紫陽は大人しい高校生だった。胸が大きいことを気にしてひと回りもふた回りも大きい制服を着ていた。体育の時は背中を丸めた。


 アルバイトは大手ドーナツチェーン店。制服があった。仕事なので大きいサイズとはいかず、胸が目立つシャツを着た。


 ある日コーヒーのおかわりを持って行ったところ胸を鷲掴みされそうになった。


「キャッ」


 避けるとテーブルに体が当たりコーヒーがこぼれ客のズボンにかかった。


「てめぇ!? どうしてくれるんだこれ?」客にすごまれる。


 ああ、あなたが。あなたが私の胸を触ろうとしたからじゃないですか。


 客のクリーニング代を店が負担することになり、紫陽はすっかり怯えてしまった。


 おかわりのコーヒーを客に持って行くのが怖くなった。右手にティーポット。左手にミルクや砂糖のかご。逃げられない。


 あの『クリーニング代を出させた客』がおかわりを要求した。


 気を利かせてベテラン店員が行ってくれたが、客に睨まれ「てめぇじゃねえんだよ!」とすごまれた。


 場を収めるために紫陽が進み出ると「そうそう。君ね。ごくろうさん!」とベッタリとした手が紫陽の胸を押した。


 あの下卑た笑いを忘れられない。







 体育の授業を盗撮されたこともあった。

『変な人がウロウロしている』とクラスメイトの誰かが気づいた。


 紫陽のクラスのときだけそいつが出る。


 どうもビデオを持っているらしい。


 サトルが捕まえてくれた。警察に押収されたビデオには執拗に紫陽の胸を追う画像が残っていた。


 その時初めて担任のタカハシが家に来てくれたのだった。


「カブラギ。大丈夫だからね。犯人は捕まったし、先生たちみんなでカブラギのこと守るから」


 私服の紫陽は畳の上で涙をこぼした。



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【次回作はこちら】『16万年前の隣人』
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