(17)言葉のない国に行きたい
紫陽がホテルを去ったあと、その場でサトルはタカハシを呼びつけたらしい。
場所は赤坂の超高級焼肉店である。
嫌な予感がした。
サトルは割り勘派の是也に気を遣って、普段安い居酒屋で飲んでいる。
ただキレるとサトルのレベルに合わせた死ぬほど高い飲食店を指定してくる。もちろんお金を払わせてはくれない。テーブル支払いの店オンリーである。例のブラックカードを店員に渡してお終い。タカハシは飲食代すら知らされないのだった。
店に入った瞬間『いらっしゃいませ』とズラッと並んだ店員にお辞儀された。
『これは相当怒っている』とタカハシは確信した。
サトルは出された恵比寿ビールを一気に飲み干すとダンッとコップをテーブルに叩きつけた。
「タカハシ。てめぇ真面目もたいがいにしろよ?」
そっからまあ肉食べながら怒られるのなんのって。
タカハシは初めて家で本を読んでいる自分とか、論文を際限もなく渡していく自分とか、『アドバイス』と言う名の無理無体を強いる自分とかが妻にどう見られていたか気づいたのだった。
そんなに嫌だったんだ〜〜〜〜〜。
頭を抱えてしまう。
タカハシ自身は『親切』だと思っていただけに、衝撃は大きかった。
◇
「ご……ごめんね。本当にごめんね」立ち上がった夫に手を包まれた。
繊細で美しくて少し冷たい指。大好きな指。
「いいんですよ……」紫陽も片手をタカハシの手の上に乗せた。
「是也さん」
「はい」
「何でも聞いていいですか?」
「…………はい」
「武川助教授に『首席』で復讐したってほんとですか?」
◇
タカハシは困惑していた。
「あ……その話……どこから聞いたの?」
紫陽は『ナイスミディ』に取り囲まれた話をした。「みんな暇だね……」タカハシがため息をつく。
「確かにその通りなんだけど」
「はい」
「今はとてもあの時のこと恥じてる。若かったね。未熟だった」
タカハシは確かにあのとき激怒した。でもそれは自分の境遇を馬鹿にされたからだけではなかったのだという。
「やっぱり堪えたんだよ。向こうは両親とも大学教授のサラブレッド。大学院は小学生のころから行けるのが決まってて、当たり前のように学費も出て。努力するくらいしかやり返せなかったんだ」
『大学教授になんかなりたくない』とぼやく武川がどんなに羨ましかったか。こちらは最初から未来なんてなかったのに。
『なんだよ。タカハシ。お前俺と立場代わってくれよ。あ〜大学残りたくない!』と武川に言われたこともあったそうだ。
『俺も高校教師になって美少女に囲まれて生きたいわ〜』
お前なんかに何がわかる。
◇
「吉本教授にもお話聞いたんですけど」
「うん」
「家を売って学費を捻出しようとは思わなかったんですか?」
残酷な質問をしていると思った。しかし今しか聞けない。
タカハシは静かに首を振った。
「思わなかった……」
自分の将来を諦めてでもこの家を残したいと思ってしまった。叔父の気持ちは嬉しかったが、家族を捨てられなかった。
「紫陽。この家、嫌なの?」
「嫌じゃないです。是也さんの大事なものは私にとっても大事です。」
「ありがとう」
「どういたしまして」
いつもと立場があべこべだ。
「それで」紫陽は息を吸った。
「中原中也に顔が似てるから髪の毛を伸ばしたんですか?」
◇
タカハシの瞳がはっきりと揺れたのがわかった。何かを迷っている顔だ。紫陽はタカハシの手を握りしめた。真っ直ぐ彼を見て目をそらさなかった。
「……………………うん」
「どうしてそんなに『中原中也』が嫌なんですか?」
「どうしてって。あんなに酷薄な人生を送った人もいないよ」
紫陽もそれはわかっていた。中原中也の人生は過酷だった。
8歳で弟の亜郎が脳膜炎で死去。18歳で恋人を親友に取られる。21歳で父の謙助が死去。24歳になると今度は弟の恰三を肺結核で亡くした。26歳で結婚。やっと幸せを掴んだと思ったら、29歳で一人息子の文也が死去。小児結核だった。
ついに精神のバランスを崩し入院。
退院の8ヶ月後に自身が結核性脳膜炎で死ぬのだ。たった30年の命だった。
最期は病院のベッドの上でボロ雑巾のようになって死んだのだという。
『お母さん。僕は本当に孝行息子だったんですよ。今に分かるときが来ますよ』
それが臨終の言葉だった。
「死んだ後も子供が死んで……」
文也死去の翌月生まれた次男の愛雅は中也死去の3ヶ月後に死亡した。
中原中也の直系の子孫はここに途絶える。
「俺は中原中也にあまりにも似すぎてるよ。顔はそっくり。生まれた日も同じ。家族が次々死んでいくのも同じ。馬鹿げているとは思ったけど、このまま俺は中原中也の人生をなぞっていくような気がしてならなかった」
就職も叶わず友達に原稿を託して死んだ中原と、やはり大学院に進めず名を残すこともなく死んでいくだろう自分と。
「武川に『似ている』と言われたとき。運命に捕まった気がした。俺が思っているだけじゃない。側から見てもそう見えるんだ。このまま俺は何の願いも叶わず最後は狂って死ぬんだって」
両手で顔を覆う。
「子供が産まれても先立たれてしまうんだって……」
タカハシはせめてあがらうことにした。
前髪で片目だけ隠したのである。人は髪型で随分印象が変わる。この髪型になってから『中原中也に似ている』とは言われなくなった。
良いこともあった。
片目を隠していると世界を半分しか見ていないような気持ちになる。それはタカハシを楽にした。
半分は厳しい世間を見て、半分は文学の世界に浸る。本を読んでいる間は自分の境遇を忘れられた。
「是也さんごめんなさい」紫陽はすがりつくように夫を抱きしめた。
「私何にも知らなくて……不用意に『中原中也に似てる』なんて言っちゃって」
3年前、日比谷公園でタカハシはどんな思いで紫陽の言葉を聞いたのか。紫陽はどうして追い討ちをかけるように『子供の名前は文也にしよう』なんて言ってしまったのか。2歳で死んだ中也の子供。タカハシが運命をこんなに恐れていると知っていたら、けして言わなかった。
タカハシが初めて笑った。
「鏑木紫陽という子は……」「はい」「何でも見抜いてしまうんだ……」「そんな」
「俺は鏑木紫陽を恐れたよ。髪型がおかしいことも。俺が中原中也に似ていることも。心秘かに『子供の名前は絶対『文也』にしない』と誓っていることも。何でもお見通しなんだ。今だって」
紫陽の手を握る。
「俺の心の奥底にまで潜ってくるような質問をする」
「ご……ごめんなさい。もうしません」
夫を抱きしめる。最後の質問は出来なかった。
『どうして新聞に載るのを嫌がったんですか?』
2人で黙って抱き合った。相手の心に踏み込み過ぎたら、あとは黙るしかない。
珍しく是也から紫陽の唇を奪い、お互い貪るように体を求めた。
言葉のない国に行きたかった。




