(16)是也さん助けて!
ヒッ。
『是也さん助けて!』
天井に向かって祈った。
サトルにキスされる!!
自分の腕で唇を守ろうとしたがあえなくサトルの手に払い除けられてしまった。
ギューッと目を閉じた瞬間サトルのおでこが紫陽のおでこにコツンと当たった。
「なんて顔してんだてめぇ」
サトルが噴き出した。それから大声で「お前な! 隙だらけなんだよ! 何とかしろっっ!!」と紫陽を怒鳴りつけた。
◇
サトルはベッドから体を外した。
「いくぞ」と言われ最上階のバーに連れていかれる。訳の分からないまま、サトルはウイスキー紫陽はカシスオレンジを飲んだ。
もう夜の7時で日はとうに沈んでいたが、地上の輝きが目を刺すように飛び込んできた。眩しい。
心臓がドキドキドキドキ止まらない。
さっき起こったことと、今の摩天楼に思考が繋がっていかない。
30分もしないうちにマネージャーの鈴原美鳥が到着した。
「帰れ」と言われミドリとホテルを後にした。ミドリの家に泊まることになった。ミドリの運転で紫陽は助手席に収まった。
膝の上にはホテル内の中華飯店でテイクアウトしたお粥と点心がのっている。
サトルがいつのまにか注文していて、ミドリが店まで取りに行ってくれたのだった。
『あったかい……』
初めて膝が震えてきた。涙が滲んでくる。
怖かった。怖かったよ。
ミドリに聞いたところ、サトルから迎えの連絡が来たのは1時間も前だったそうだ。つまりサトルは最初から紫陽を襲う気などなかったことになる。
紫陽は『シオシオ』になってしまった。自分は卒論が苦しいからって何てことを考えてしまったのか。サトルに自分の甘い考えをすっかり見透かされていた気がしていたたまれない。
何より夫のタカハシに申し訳が立たなかった。『絶対に離れないでそばにいる』とサトルに言い切った1年半前の自分。どうした。
ミドリと彼女のアパートでお粥と点心を食べながら駄弁った。心が安心で緩んでくる。やはり女友達は良い。自然とサトルが今出演しているテレビ番組『クダラナイとは言わせない!』の話になった。
「どう考えても番組を支えているのは百済英司とサトルなのに、出演料は百済さんの10分の1ですからね。衣裳代にもなりゃしない。サトルは値上げ交渉する気さらさらないし。何考えてるのかわからないですよ」
ミドリが悔しがる。
「でも百済英司は紅白の司会もやる実力派なんだしさ〜。単なるYouTuberのサトルと同じ出演料ってわけにもいかないんじゃない?」
そうは言ってもミドリの言い分もわかる。あの番組は百済とサトルで人気を二分している。視聴者の目には対等に映っているのである。どんな大物ゲストが来ようとサトルは堂々対していた。
「そういや。サトルの芸名『茶髪先生』なんだね。ウケる。ガッコーの先生だし本名で活動ってわけにもいかないんだろーけどさぁ」
「それはそうですが、サトル自体が『久保先生』って言われるの極端に嫌がるんですよ」
ミドリも頑なに『久保先生』と呼び続けてたが、マネージャーになるにあたりサトルに改めさせられてしまった。
「堅苦しいのが大嫌いだからでしょ?」
「それだけじゃないんですよ」
???
「高校の生徒は誰も経営母体がどこかなんて気にしないわけじゃないですか」
「『大里会』ね」
「そう。でも側から見たら、大里一族によって経営されているのは自明なんです」
「そりゃそうだね」
「それで経営本部長が創業者の孫の『久保』真里亞さん」
「あ〜。そっかあ。サトルは七光りで数学教師をしているように見えるってわけね」
◇
「『七光り』があれば最初から大里会に入社できてますよ。校長をアゴで使ってる立場ですよ。でも実際は何の助けもなく一兵卒として高校に入ったわけですからね」
サトルは会長(祖父)に嫌われて冷や飯を食わされているわけだ。
「それが今やサトルがいなければ経営が立ち行かないわけで。ますますサトルは自分から『七光り』の匂いがするのを嫌がってるってわけです」
確かになあ。紫陽だって『タカハシの七光り』って言われるの嫌だもんなぁ。
◇
翌日夕方家に帰ると珍しく夫が出迎えてくれた。しかも玄関まで。そんなこと滅多にない。
ニッコリ微笑んで「ご飯にする? お風呂にする?」と言われた。
『『それともあたしにする?♡』って言わないんだぁ』と思った。言わないだろ。何時代だよ。
「あ……ありがとうございます。是也さんお仕事は……」と言うと片手を素早く振って「いいんだよ! 仕事なんて! 紫陽が1番大事だからね!」と返された。
………………ん?
テーブルにはご馳走が並べられていた。
エビフライに、ハスのきんぴらに、蒸し鶏のサラダにキャベツの味噌汁。さらにマグロとトロロの小鉢。紫陽の好きな物ばかりだ。
ローストビーフまであるじゃん。
「え?今日何かの記念日でしたっけ?」と聞くと「紫陽がいる日が毎日記念日だよ!」と笑われる。
ん? んん〜??
食後に皿も洗わず「お疲れさま」と肩を揉まれ出して紫陽は確信した。
『なんかあったな!』と!
『たぶんおそらく絶対サトルだな!』と!!
◇
サトルに早速LINEで『アンタ是也さんに何言ったの?』と打つと『知らね〜』と返ってきた。知らないわけがない。アンタ何か是也さんに言ったね。さては昨日ミドリの家に泊まらされたのも、アンタの策略だね。
是也さんに何やった〜〜〜〜〜〜〜〜。
◇
それからタカハシは『卒論』の2文字を一切口にしなくなった。
それどころか家で本を読まない。
郵便で送られてくる『学会誌』が無限にたまっていくが封を切ることもしなかった。
新聞すら読まないのである。あんな『活字漬け』の人がこんななっちゃって。
紫陽はちょっと切なくなってしまった。
そもそもタカハシが年がら年中本を読んだり論文見たりしているのは『それが楽しいから』なのである。
紫陽がマウンテンズのライブに行ったり、Netflix見たり、新しいワンピース買ったりするのと同じくらいワクワクするのがタカハシにとって『読書』なのだ。
それなのに今のタカハシときたら紫陽の見ている俗物の極みみたいなコメディ番組をボーッと目で追っている。なんの興味もわかないのだろう。表情が完全に死んでる。
あんなに仕事忙しいのに、これでは家でも『奥さんの接待』という仕事をしているみたい……。
「是也さん。論文……読んでいいんですよ?」
机に溜まっている封筒を『ドサッ』とリビングのテーブルに載せた。
タカハシが慌てて手を振った。
「いいよ。いいよ。紫陽も大学で大変なのに家でも論文読まれたらくつろげないでしょう……家ではくつろぎなさい」
いや。アナタ。今くつろいでないですやん。
とうとう紫陽はタカハシと『話し合い』をすることにした。だって夫婦なんだから。何かあったら話し合おうよ。そうだよ。私にはその観点が欠けていた。
◇
紫陽はひざ詰め談判することにした。
リビングで紅茶を出す。お茶請けにサトルからもらったクッキーを出した。アイツどうやったのか知らないがミドリに老舗洋菓子店のクッキー缶まで用意させていた。一缶4800円。
いつもは隣に座るのに、今日は対面に座った。対決姿勢である。
「是也さん」改まって呼びかけると夫の肩がピクッと動いた。
「ハイ……」小さ〜い声。顔に『今から怒られる』と書いてあった。
肩をすぼめて、目はクッキーの辺りをじっと見つめている。これでもうすぐ40歳ですからね。
「この間サトルに何か言われましたね? 何言われたんですか?」
タカハシは白状した。




