(15)髪は女の命
そうは言っても夫の言うことは最もなのであり、翌日紫陽は平畑アリサの研究室を訪ねた。
アリサ。平安時代の和歌については第一人者である。
研究室に入って仰天した。
まだ午後5時だというのに、平畑教授酒飲んどるやん。
緑の酒瓶がそこかしこに転がってる。え? ここ本当に大学の研究室?
紫陽は酒瓶につまづかないようソロソロと平畑の前に進み出た。
「教授……その……お仕事中ですよね?」
「何よぉ〜。平安時代なら午後5時はお酒タイムですぅ〜」
「今令和です」
「知らないわよ。裏切りものがぁ〜」
酒瓶に韓国語が書いてある。たぶんこれ『マッコリ』だぞ。緑の瓶をブラブラさせるアリサ相手に紫陽は事情を説明した。
アリサは『だっるぅ〜』という顔になった。
「和泉式部さまに勝とうなんて晶子も150年早いわよぉ〜」
まあ生誕145年ですけどね。
「カブラギサンさぁ〜。『髪は女の命』って言葉知ってるぅ〜?」
「はあ……まあ……聞いたことあるような、ないような」
「平安時代の貴族のオンナに取ってはまさに『髪は命』だったのなんでかわかるぅ〜?」
「……はあ。まあ。そういえば『源氏物語』でも末摘花の君が『髪だけは素晴らしい』って言ってますね」
「だからねぇ〜? 平安時代のオンナって家族か旦那にしか顔を見せないもんだったでしょお〜?」
あ! そうか!
「常に『顔は扇などで隠していた』!」
「せいか〜い」
アリサはにんまり笑った。
平安時代の女性は
噂で美人だと聞く
↓
垣間見といってチラッと姿を見られる
↓
和歌を男性から贈られる
↓
親がラブレターの中身を検討。
↓
女房や家族からオーケーが出たら本人と和歌を贈答
↓
御簾越しに女性と話す
↓
何回か通う
↓
男性がその気になったら女性の寝室に忍び込む
↓
3日間通い続けてやっと結婚成立
↓
女性の親族に紹介される
と結婚までにエラくステップを踏んでいたのだ。
紫陽が最初から胸の谷間だの、ムッチリした太ももだのをタカハシにアピールしまくってたのと真逆である。
「つまりね〜。顔は隠さなきゃいけなかったし、身体は十二単衣で隠れているとなるとねぇ。髪の毛をアピールするしかなかった」
『チーズ鱈』を渡されたので恐縮して受け取りモグモグした。湯呑みに入った酒も出されたがそれはさすがに断った。
「付き合い悪いのぉ〜」とアリサにぼやかれたが困る。困ります。
アリサは湯呑みの日本酒を一気飲みした。
ウィ〜。
さっけ臭い息をハーッと吐かれる。本当に大学教授ですか。目も座ってるし。
「そうやって連綿と髪について歌ってきた文化が1000年たって鼻垂れ小僧アキコチャンの『みだれ髪』に繋がったってわけぇ」
アリサはチーズ鱈をキリンのようにモシュモシュ噛んだ。
「『みだれ髪』実に官能的な題名じゃな〜い?
その髪誰が乱すのよって話だしねぇ〜」
ベッタアと頬をデスクにつけると髪の毛をわしゃわしゃした。乱れてますね髪…………『色気』というか、『寒気』が漂ってます…………。
「タカハシセンセ〜。いいとこつくじゃな〜い? どうして与謝野晶子の処女歌集が『みだれ髪』って名前なのか、そっから考えてもいいんじゃな〜い?」
酒浸りの平畑教授は『歌舞伎あげ』だの『チーズ鱈』だの『スモークサーモン』だのを紫陽に持たせてくれた。
研究室を辞するとき誰に話しかけるでもなしに「アタシの元には光源氏どころか誰も通ってこない〜」と泣き言をいっていた。
◇
5回、武川に『やり直し』をくらいとうとう紫陽は追い詰められてしまった。あと2週間で『テーマ申告書』締め切りである。
紫陽はサトルに文句を言ってやることにした。
LINEに『アンタ今どこにいんの? 話したいことがある』と1行書いた。絵文字もスタンプもない。そっけない1行である。
意外なことにすぐサトルから返信が来た。
『新宿のホテルに缶詰になってるぞ〜』
◇
超高層ビルを紫陽はポカンと見上げた。誰でも知ってる一流ホテルだ。
恐る恐る受付に名前を言うと「鏑木様ですね。お待ちしておりました」と頭を下げられた。
「こちらでございます」
エレベーターに案内される。ホテルマンは中に入ってカードキーを差し込み到着階のボタンを押してからエレベーターを出た。
「いってらっしゃいませ」
頭を下げられたまま扉がしまる。
グングンガラス張りのエレベーターが昇って行く。流れるように走っていた車の列がみるみる小さくなり、とうとうミニカーの大きさになった。
エレベーターのドアが開くといきなり部屋だった。この階にはこの部屋しかないそうだ。
部屋はベットが3っつ。新宿のビル群が一堂に見える広いガラス窓。骨董品のランプ。壁紙から絨毯まで一目でわかる高級品だ。
「よぉ〜。カブラギー」
スーツをビシッと着こなしたサトルが出てきた。ニヤニヤしている。
◇
その瞬間カブラギは泣きそうになってしまった。
「アンタのせいでさぁ。ア……アンタが忙しすぎるからさぁ」
「どおしたぁ」と頭を撫でられて、紫陽は理解した。自分は文句が言いたかったわけではなかった。ただサトルに話を聞いてもらいたかったのだ。
今日はテレビの収録の他にインタビューが3本入り、雑誌の撮影もあったそうだ。
「撮影現場に行くのがメンドーだから写真映えする部屋を借りてる」と言われた。そんなアンタここ一泊いくらなのよ……。
ケーキとポットに入った紅茶、フルーツの盛り合わせがワゴンに乗せられてやってきた。ケーキは10種類くらいあって好きなのを選んでいいのだという。『いくつでも取れよ』と言われた。
カブラギは話しながら泣いてしまった。
たかが一学生に対する異様な期待。武川にダメ出しされまくる卒論テーマ。同級生には『特別扱い』とやっかまれ、肝心のタカハシは仕事仕事仕事仕事。
「も、もうさぁ。どうしたらいいかわからなくてさぁ」しゃくりあげる紫陽に「ほらよ」とティシュペーパーを渡してくれるので思い切り鼻をかんだ。
うっわこれセレブペーパーだぁ。やっわらかーい。
話しながら紫陽は『やっぱりサトルと結婚しときゃあ良かったのかなぁ』と思った。
サトルのプロポーズを受けていれば、今大学で余計な期待をされることもなかったし、こんな大量の文集や論文を読まなくても良かったし、教員免許だけ頑張ればいいんだし、何よりサトルは話を聞いてくれる。
一生あの『生まれついての学者』みたいな人の横で武川智樹みたいに『なんでお前なんだ』って言われなきゃいけないんだろうか。
論文も教職も、是也さんに勝てるわけないじゃん。もう国語に対する姿勢から違うもん。凡人に秀才の真似は無理だもん。
紫陽は初めて結婚生活に自信を無くしていた。
「あ、じゃあそろそろ……ありがとね。サトル」
2時間は経っていた。サトルも予定があるだろうしこれ以上は迷惑だろう。
立ち上がって数歩進んだところで
「カブラギ!」
と声をかけられた。
振り向いた瞬間膝裏を思い切りサトルの足で払われた。
「キャッ」
両膝が『カクン』となってバランスを崩す。
そのまま盛大にキングサイズのベットに倒れ込んだ。
ボフッと音がする。
ハッと気づいたらサトルにへそ下辺りからのし掛かられていた。両手で頬をホールドされている。
香水の甘い匂い。サトルの顔が紫陽の顔にゆっくり近づいてくる。
顔の白さを際立たせるために髪が長かったという説もあります。当時は白い顔が美人の条件でした。




