(14)虚空を手でつかむよう
別の日。
「石川啄木と与謝野晶子……」
「啄木なら全集があるよ」
あるんだ! 啄木もあるんだ!!
啄木なら……なんとかなるかも……早死だし……。
だがやはりピンとこなかった。
紫陽はじっと手を見る。
◇
「……やっぱり与謝野晶子と『明星』にします……」
『明星』は与謝野鉄幹主宰の月刊文芸誌。
晶子の『みだれ髪』の多くはこの雑誌に投稿された短歌だ。
パソコンに向かって仕事の資料を作る夫に声を掛けた。タカハシは画面を見つめたままで言った。
「いいんじゃない? 『明星』の歌人は北原白秋、石川啄木、木下杢太郎、吉井勇、中濱絲子、中原綾子……」
おおおおい。まさかそれ全員調べろとか言うんじゃないだろうな。
「え? まさか与謝野鉄幹と山川登美子の短歌も全て読めなんてことは」
キーボードになにやら打ち込んでいた夫が手を止めた。初めて紫陽の方に振り向いた。
虚をつかれたようなタカハシの表情を見て紫陽は気づいた。今、紫陽はタカハシに「太陽って東から昇って西に沈むんですよね?」と聞いてしまったのだ。
心底あきれた顔をされた。
「……与謝野鉄幹の短歌も知らないで、晶子の何を語ろうというの?」
紫陽は肩をすぼめた。
紫陽は毎日大変だった。アルバイトは辞めさせてもらったが、就職先での研修、教員免許取得、卒議論文作成に走り回った。
暗い顔して論文を読む『天野チルドレン』の間に入り、紫陽も『与謝野晶子』の論文を読み続けた。
ない論文は国会図書館まで足を運んだ。
ヒント。ヒントが欲しい。武川の目を通る斬新な論文テーマが欲しい。
虚空を手でつかむような心もとない気持が紫陽を悩ませた。
◇
仕事に行くために玄関で靴を履いたところを捕まえた。朝ご飯は学校の机の上でパンをかじるらしい。働きすぎだよ!
「あの是也さん」
「うん」
「やっぱり原点に帰ることにしました。『みだれ髪』を論じようと思います」
「いいんじゃない」
この人何を言っても『いいんじゃない』って言うなぁ〜。
「それでですね。『みだれ髪』の何を論じるかのヒントをいただきたいのですが……」
「そこは自分で決めることでしょ?」
「そこを何とか……」
もう考えられるテーマは全部考えてなんのアイディアも湧いて来なかった。
「カブラギ」
「はい」
「『みだれ髪』と言えば思い浮かぶ和歌をあげなさい」
キタ! 『先生』モード!
妻を『紫陽』ではなく『カブラギ』と呼ぶときはタカハシが『先生』に戻っているときだ。紫陽は懸命に頭を巡らせた。
「ヒントお願いします……」
「百人一首だ」
あ!
「待賢門院堀河……」
「正解」
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長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ
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百人一首 第80番 詠み手は待賢門院堀河。
「『みだれ髪』の代表歌は『くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる』だね。晶子は当然待賢門院堀河の歌を知った上でこれを詠んでる。他には?」
「えっ」
「和泉式部だよ」
紫陽は必死に思い出そうとしたが、そもそもインストールされてないのでアウトプットできなかった。
「答えお願いします……」
タカハシはスラスラと口にした。
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黒髪のみだれもしらずうち臥ふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
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毎度毎度思うが、この人の頭の中には何万首くらい歌が入っているのだろうか。タカハシがつっかかるのを見たことがない。
「晶子は和泉式部も当然わかっている。『明星』の歌人で『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』を読んだことない人なんかいないよ。与謝野晶子の歌を知りたいならまずは古典に習わなければならない」
「……………………」
「勉強しなさい」
と言って去った。
紫陽は調べた。
万葉集……4500首
古今和歌集……1111首
新古今和歌集……1980首
え? 私与謝野晶子の156ページしかないペラッペラの歌集を理解するのにこんだけ読まなきゃいけないってこと?
晶子の生涯で詠んだ5万首を理解した上に?
和歌を1000年以上参照しろと?
無茶を言うなよ!
無茶を言うなよタカハシ〜〜〜〜〜〜。
◇
一応大学で買わされた『万葉集』を数ページ読んだが投げ出してしまった。
なんだこれ。『桜』『桜』『桜』『桜』って。お前ら花見しかやってねーのか。なんにも面白くない! なんにも面白くない!!
夫に「『万葉集』の○○の歌なんですが」と聞いたら即、歌を返してきそうで怖い。どんだけ記憶してんだ。何なんだ。本しか読んでないとこうなるのか。
紫陽は後ろめたく思ったが、『10分でわかる万葉集』というネット記事を斜め読みしてお茶を濁した。
万葉集とか知らんて〜〜〜〜〜〜〜〜。
注ー石川啄木は『明星』の浪漫主義詩人として頭角を現した。与謝野夫妻とも親しかった。
注ー古今和歌集は1111首となっていますが、重出歌1首を含みます




