だらだらと文章論 ~(祝)投稿150作~
作中に「生娘シャブ漬け」の件の言及がありますが、あまり確りとした概要を知らないため、間違いがありましたら申し訳ありません。
アニバーサリーを自分で祝ってしまいましょう(*ノωノ)(*’ω’ノノ゛☆パチパチ└(゜∀゜└) (┘゜∀゜)┘
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆( T∀T)(*´∀人)
はい、と言うことで顔文字で狂喜乱舞して始まりました今日の奴隷乙劇場です。
エッセイ界隈のお祭りに盛大に乗り遅れてしまいましたし、「千羽鶴騒動」「生娘シャブ漬け炎上」「籠池有罪確定」と書きたい時事ネタもたまってしまって、旬を逃してしまったなーなんて思ったり、リアルが忙しく、投稿の瞬発力が発揮出来ない中で、皆さんの対応の速さに素直に凄いなーと思っていたりします。
さて、今日はだらだらと文章論でも書いてみようという名目で、雑談をしていこうと言う趣旨です。
エッセイでも随筆でもコラムでもブログでもツイートでも、それこそ何でもいいんですけど、自分の中にあるものを文字起こしして現出させる、所謂アウトプットって最近は言われる作業って、かなり大切なことなんですよね。
考え事をするときに独り言を言うのも、ある意味ではアウトプットなんですよ。
頭の中にあるものを外に出す、それが独り言なのか、誰かに向けた会話なのか、手書きのメモか、打ち込んだものか、そこら辺は関係なく、とにかく外に出すというプロセスが大切で、頭の中で考えてても纏まらなかったりします。
人と話していて、あー自分はこう言うことを言いたかったんだと気付くこと、または自分はこんな考え方をしてたのかと思うことってありますよね。
そして、改めてそれの正否などを考え直すことに繋がったりします。
文字として起こした場合はより顕著で、じっくりと推敲することで、この発言は不味くはないか、この考えは極端に走ってはいないか、エビデンスが曖昧ではないか、と読み返して自分の考えを精査することが出来ますね。
一度外に出した自分の考えを何度も自分の中に戻しては出す、その中で必要な情報を取り寄せインプットし、アウトプットするを繰り返すことで、自分の内側と外側に沢山の拡張子をつくり、瞬時に必要な事柄にアクセスできる自分を作り上げる。
一つの情報から関連する事柄を連想して繋げては仮定を構築、副次ソースを調べては仮定の推論を補完して持論を確固にして発信する。
こう言うことを普段からしていると、柔軟な対応とニュートラルに物事を捉える姿勢が身に付くと思うんですね。
文章論とか言いながら文章から外れていきますが、先日の「生娘シャブ漬け」なんかはアウトプットの悪例の最たるものですよね。
まだ、年若い外部役員が大学の施設で行われる社会人向けの有料講義で発言したそうですが。
この発言には、外部役員とは言え、自社の製品を侮蔑的に自虐していること。販売戦略の話として、ウィットのつもりかも知れませんが「シャブ」なんて、凡そ相応しいとは到底容認され得ないスラングを使ったこと。地方にも展開している事業にも関わらず、「地方から来た生娘」なんて、事業の実態とはそくしていると言えない発言だったこと、など、あげ始めたらキリが無いほど問題しかない発言なんですが、結局のところ、事前に確りとした言語化を行い、企業としてコンプライアンスや倫理的に問題はないかを検証していれば防げたことなんですよね。
その場のノリで飛び出したウィットだったとしても、「田舎から来た生娘」「奢って貰えるようになったら」なんて時代錯誤な上に差別的な発言に繋がる内容なら、事前に打ち合わせていれば、問題に気付けた筈です。それでも気付けなかったなら、残念ながら、あの企業の上層はそういった思想の方が多いと言うことでしょう。
文章を書いたら、少し間をおく、忌憚ない意見をくれる友人などに見て貰うことをオススメします。
書いた直後はバイアスが働いて肯定的に見てしまいますし、誤字脱字も見逃し易い、文法的におかしなところも何故か気付き難い。
不思議なことにすこし時間をおくとこれが嘘のように見えて来る。
アウトプットされた文章が自分から完全に独立した瞬間なんですよね。この瞬間、その文章は独立した存在になっていて、そこから受ける印象は外部からもたらされる刺激なんですよ。
だから、一度、外に出すプロセスは必要なんですね。自分を擬似的にでも客観視出来ますからね。
起承転結とか、倒置法とか難しいことは明後日に先ずは投げ棄てて、取り敢えず書いて見る。
そして、書けたものが問題ない(法的なことや規約)なら発信してみる。
自分の思ったことを100%書けなかったなんて考えなくていいです。
私は50%も書けてれば十分だと思っているし、結構、うまく書けたと思っても上手く伝わらなくて、再稿したり、感想返信で追記したりしてます。
会話と同じで、伝わらないのが前提です。
相手のアクションにどう伝えるのが正解かを模索し続けることに意味があります。
ルートヴィッヒ ウィトゲンシュタインの提唱した言語ゲームの概念に通じるかと思いますが、文章は言葉の持つ緩やかな繋がりを使って自分を外側の世界に拡張するためのツールだと思っています。
さて、こんなところでおしまいです。
春の桜は日本の花ですが、古来は花と言えば梅でした。
「花見はいいな」
の一言すら変遷するんです。
伝わらないのが前提、でも不思議と伝わったりするから、嬉しくもあり、難しい。
でも本当に楽しいですよね。
春のエッセイ祭りには乗り遅れたけど、
俺のアニバーサリーは祝ってくれ
そんな自己中スタンスで感想お待ちしています(笑)
└(゜∀゜└) (┘゜∀゜)┘




