今日はホットチョコレートで
チリンチリン。
歯切れの悪い、もうすぐ役目を終えそうな鈴の音が響く。
暖房の効いた暖かい店内。
わたしはコートに着いた雪を払いながら店主に挨拶をした。
都内。いつもの喫茶店。
まだ本格的に降ってないとはいえ、大雪警報が出ようがお店は閉めないようだ。
金曜日、この時間よく利用しているわたしからすれば、本当にありがたい。
カウンター席に座りながら、降り始めの雪にケチをつけていると「どうして雪が降るか分かりますか?」と店長が言うから思わず黙ってしまいましたよ。入店早々、ネガティブな発言は慎みます。
メニューを渡される前に「いつものブレンドで」と言うわたしだが、今日はメニューとにらめっこ。
1分間の沈黙。店長は何も聞かず待ってくれていた。
熟考した末、注文したものはホットチョコレート。
それも甘め。今日はそんな気分。
とりたてて甘いホットチョコレートが好きなわけではない。
普段はブレンドをブラックで飲む、と言えば聞き流してもらえるだろうか。
店長は一瞬、珍しそうな顔をしたが、かしこまりましたの一言。
話せば聞き役に徹しくれる店長。興味本位で先に踏み込む接客はしない。だから今回も、何も聞かずに甘いホットチョコレートを作る準備に取りかかる。
カウンターごしに、スチームで温められた牛乳の中、溶け込んだチョコレートの甘い香りが、ゆらゆらと立ち上り、ぼんやりとしたわたしのところへ、そっと近づく。
深く焙煎されたコーヒー豆の匂いで包まれた店内に突然生まれる、苦みに抗うような、甘く柔らかみを帯びた丸い香りだ。
なんとなく店内を見渡す。わたしと同じくらいの年齢層の客が3人いた。週末とはいえ、ここに癒しを求めに来た人たちだろう。
店長が出来たてのドリンクを丁寧に置く。常連客と自負しているが、初めて相まみえるドリンク。注文しておいて妙な緊張感が湧いた。「いただきます」と一言添えて火傷に気を付けながらゆっくりとすする。まずは一口。
甘い。けれど美味しい。少し懐かしい味。ミルクの僅かな甘さがチョコレートの深い甘さを際立てる。前に出すぎるチョコレートに対してブレーキをかけているようにも思える。
自然と美味しいの一言がこぼれた。店長は満足そうな顔をすると、珍しく話してくれた。このホットチョコレート、実は、常連のお客さんが教えてくれたと。
この懐かしい味と雪の降る雰囲気に呑まれ、わたしは小学生頃の、恋ばなをした。
三十路のおっさんの初恋を誰が聞きたがるって?店長なら聞いてくれるさ。
子どもの頃、幼なじみ女の子がいて、その子に恋心を抱いた。
可愛い見た目で、明るく、元気いっぱい。気が強いせいか、同性にも人気があった。
わたしたち男子から人気があったかと言えば、違う意味で人気があった。よく男子に混じって遊ぶ機会が多かったせいだろう。
彼女とは入学前からも知り合いで、お互いの家でよく遊んだ。
そしてよくケンカした。意見が合わないなんて珍しくない。
ちょうどこんなホットチョコレートでも言い合いになった。
わたしは苦いほうが美味しいと言ったら、彼女は甘いほうが美味しいと返してきた。
好みの問題だか、いつしか相手に屈すまい意見がぶつかり合った。そしてこの論争が終わることはなかった。
こんな調子で同じ時間を共にしていたけれど、本当に仲が悪いわけではなかったんです。そもそも仲が悪かったらここまで遊ばないですよ。
けれどやっぱり男の子。もちろん店長なら理解してくれますよね?好きな子にイタズラしてしまう男子の気持。
彼女、怒ったり、笑ったり、泣いたりすると耳が真っ赤になるですよ。色白だったから余計に赤く見えて、よくからいました。
あれ?そんな目で見ないでください店長。もちろん反省しているし、悪かったと思ってますよ。
からかってばかりいないで、素直な気持ちを伝えろ?伝えようと思いましたよ。何度も何度も。でも結局、怖じ気づいて出来ませんでした。
彼女、すごく綺麗に舞うんです。手の指先々までしなやかで美しく儚げに。それなのに重心は全くブレない力強さ。別の魂が宿ったんじゃないかと錯覚するほど美しい所作。
普段はあんなに雑で、口うるさくて、対等な存在なのに、その瞬間だけは、対等とは思えないんです。
理由の分からない涙が流れたこともあります。不思議ですよね。
そんな彼女の極端な二面性が、わたしは本当に好きでした。だから何度も告白しようと決意すのですが、舞を思い出すと、神聖なものに触れて、自分と対等な存在にしてしまう気がして踏み出せなかった。
それにしてもさっき、店長の言葉には驚きました。「どうして雪が降るか分かります?」って質問。その子にも同じ事言われたんです。懐かしいな。
今日みたいな日にも彼女は雪のなか舞ってました。
この時に質問されたんです。もちろん答えられませんでした。
雪のなか舞っていた彼女。
ようやくひと息ついたので答えを聞くとすぐ教えてくれました。
余韻を残したままの綺麗な笑顔で。
「簡単だよ。雪の妖精がそうじしているんだよ。汚れをくっつけながら、ゆっくり降ってきて、空気を綺麗にそうじしてるの。」
なにそれ?あっけにとられたわたしを見ると、彼女はまた、雪の妖精の手伝いをすると言い、呼吸を整え始め、再び舞った。
今日みたいに雪が降ると何となく思い出すんですよ。
だから脈絡もなく恋ばなをしてしまいました。恥ずかしい話ですね。
少し甘かったですか?でも、最後まで聞いてくれてありがとうございます。
その後?中学校も別々だったので続きはありません。
未練ですか?正直、少しだけあります。気持ちを伝えておくべきでした。だってそうでしょ?じゃないとただ嫌みを言う幼なじみ枠ですから。冗談です。本当に好きでしたからの未練です。
でも今ごろは美人になって、家庭を持ってると思うよ。もちろん確証はありません。
あ、そろそろ帰りますね。妻から電話は帰ってこいの合図なので。
わたしは喫茶店を後にした。
男が去った後、店長はカウンターに座っている常連客のカップが空いている事に気付き、一杯目と同じもの作りましょうか?と声をかける。
客は首を少し縦に振り、次は苦めで作って欲しいと伝えた。
店長はいつもと変わらない口調で一言、かしこまりました。
BGMが流れる店内。
うつむいた客の前に店長はそっと差し出す。
苦めのホットチョコレート。
女性は耳を赤くしたまま、一口目をゆっくりすする。
美味しいけどやっぱり甘いのがいいな。と小さく呟く。
左手薬指には、うすっら残る指輪のあと。
常連客だろうと店長は先に何も聞く事はしない。