前編
この町の雨は、止むことがない。遠くビルの隙間から覗く細長い空、そこから常に降ってくる大量の水は強い酸性を示し、出所のわからない重金属をたっぷり含んでいる。広報広告バルーンが汚染度や雨の強さの予報を上空から告げているが、雨でくぐもったその音はひどく不明瞭だ。もっともたいていのサイバネ者は同じ内容を直接受信しているので、それで困る者というのもこの町にはほとんどいないのだが。
広報広告バルーンには空中投影スクリーンが備えられており、そこには様々な商品やサーヴィス、指名手配のお知らせなどが表示されるものらしい。らしいというのは、地上からそれは見えないからだ。なんでも、このように雨が降り続くようになる遥か昔から運用されている仕組みだという噂だが、確かめる手段もなければそれを知りたい酔狂な者も現れはしない。つまるところ、空に浮かぶそれは、ぼんやりとした光を様々な色に変えながら、不明瞭なアナウンスを垂れ流すだけの飛行体である。
「相変わらず、聞こえやしないねぇ」
ここに、その不明瞭なアナウンスの影響を受けている者がいた。不透明な傘のせいで顔は見えないが、縞の袴が目立っている。その下には足袋と、雪駄。どう考えても雨のやまないこの町に向いた装いには見えないが、不思議なことに歩いても足音も水音も立たず、白い足袋は濡れても汚れてもいないようだ。
「聞いてもどうせ、雨が降りますよって言ってるだけだろうが」
「それだけじゃないよ、確か、どれだけからだに悪いかも言ってたような気がするんだよねぇ」
「どれだけ酸っぱくてもどれだけ毒が入ってても、俺らにとっちゃあなーんも違わねぇだろ」
「こういうのは、実際に影響があるかないかじゃないんだよ。天気の話ってのはさ」
そう言うと猫は軽く咳払いをした。
「嗜み、というのかね。店にはいるだろ?お、きたね。なんだずぶ濡れじゃないか。どうした?ええ、急に雨に降られましてねぇ。なんだい、天気予報は見なかったのかい?それが今朝はちょっとあわてて出たもんで、みたいなやり取りがあるわけだよ」
少し身振り手振りを加えて、まるで落語のように話し始めた。が、傘が茶々を入れる。
「だからそれがずっと雨なんじゃないか。この前油舐めに行ったときそんなやりとりをしたのか?してないだろ?」
正論である。実際この猫は店でそんなに話す方ではない。いつもの店のマスターも、静かな方だ。
「今度するんだよ。たとえばこんな感じだ。お、きたね。なんだ肩が溶けてるじゃないか。どうした?ええ、急に酸がきつくなりましてねぇ。なんだい、予報はチェックしなかったのかい?それが広報がよくきこえなかったもんで」
「だからお前別に酸が濃くても薄くても溶けないだろうが!ああもう!」
傘がたまらず叫ぶ。猫は機嫌が良いようで、さしたその傘を右へくるくる、左へくるくると回している。
「まあ、あのマスターも別に、外の事を気にするタマじゃないだろうけどねぇ」
大きなレンズを薄明かりに反射させている、なじみの店のマスターを思い出す。そもそもどこまでがマスターなのかすら定かではない。そういう在り方をおもしろいと思う。猫も傘も妖怪としての器に囚われている。この町の人達は、自己の範囲が簡単に拡張され、時に曖昧になり、非常に自由に見える。
「だからといって、そうなりたいってワケでもないんだよねぇ」
「何になりたいって?」
縁から水滴をとばしながら傘が聞いた。もっとも水滴をとばしてるのは傘というより、絵をくるくる回している猫の方だが。
「ここの人達はさ、部品つけて大きくなったり、外して小さくなったり、乗り物に埋まったり、自分ってやつがどうにでもなるだろう?」
猫が、さっきまで考えていたことを口に出す。傘を回す手が止まっている。
「ああ、そういう話か……そうなりたいのか?」
傘の口調もちょっとだけまじめなものに戻る。
「逆だよ逆。おもしろそうだけど、そうなりたいわけでもないなって、そう言ったのさ」
「そうですよね、そうなりたくない、わかります」
突然すぐ近くで聞こえた声に、猫の手が刀の柄にかかる。
「あ、大丈夫です。ワタシ、なにもできませんから」
目を細めて周りを見回すが、何も見えない。相変わらず雨は降っているし、波紋は途切れることがない。ヒゲにも何も感じない。
「ちょっと待ってくださいね、見えるようにしますから」
少し離れたところに、うっすらと人の顔のようなものが浮かび上がった。
「ほぅ……」
猫が自分のヒゲをつい触る。傘のおかげで濡れていないそのヒゲは、しっかりとした感覚を伝えてくる。ヒゲをしごいてみても、相変わらず妖気も、それ以外の気配も感じない。
「みんなからだをとっかえひっかえしたり、好き勝手改造したりしてて、きっと誰もわかってくれないんだろうなって思ってたんですよ」
「俺達もそんな幽霊みたいな状態のやつの気持ちなんてわかんねぇぞ」
「ワタシだってわかりたくなかったですよ……気付いたらこうなってたんですよお」
表情を変えているつもりなのだろう。浮かび上がってる顔の形が少し変化したように見える。が、ぼやけすぎていて、どんな顔をしているのか全くわからない。
「元は違ったのか?」
「えっと、たぶん」
急に声が頼りなくなる。
「だから、ちゃんとしたワタシの体に戻りたいんですよ」
「夢は大きい方がいいからな。がんばれ」
「まあまあ。これだけぼやけたナリじゃあ、落ち着かないのも無理はないですよ」
猫の方は興味を引かれたのか、投げやりな傘を宥めて話の先を促す。
「どこにでも出られるんです?」
「うーん、どうだろ?気付いたらここで声をかけちゃってたし……」
「なるほど、では一緒に歩きながらお話ししましょうか」
猫が歩き出す。もやのようなものも、それについて動く。
「で、いつからこんな姿を?」
「あれ、いつからですかね……長いこといろんな人を眺めてた気がするんですが」
声がはっきりしているのと、どうももやの位置から音がでているらしく、それを頼りに場所を特定する。そのせいで猫の耳が頻繁にぴくぴくと動いている。
「いつもこの辺にいるのですか」
「多分そう……かな?あまりこんなふうに動いたことないかも」
「元の体については何か覚えてることは」
少し返事を待つが、何も聞こえない。歩みを止め、目を凝らしてみても、もやがどこにも見つからない。
「消えた……のかねぇ」
「地縛霊みたいに、あまり決まった場所から離れられないのか、時間によるのか、なんにしてもめんどくさそうな話だが……」
傘はどうも気が乗らないらしい。
「どうせ暇なんだし、ちょっとぐらいいいじゃないか、この町らしい幽霊につきあうのも」
「幽霊、なのかね」
「枯れ尾花でも柳の影でも、幽霊だと思えば幽霊になるじゃないか」
「それとは違うと思うんだが」
明るい時間に、といってもこの雨ばかりの町は常に薄暗いのだが、それでも、そして猫の目であってもやはり夜よりは昼の方がものを探すのには向いている。
「幽霊とは言ったがね」
傘を差した猫が独り言を言っている。いや、独り言ではないのだが、そのように見える。
「あの声や顔が幽霊、霊体といったものだというつもりじゃぁないんだよ」
雨は少し細くなって、さあっという細かな音を立てている。
「うわ、猫の人じゃん」
「猫であって人ではないが……」
返事をしながら振り返り、メタル者達をそこに認めると猫の目が子供を見る目になった。
「なんだ、子供達か。また悪さをしているのかい」
猫は子供と言うがメタル者は言うほど幼くはない、所謂若者である。それも無軌道な方の。
「子供達はよしてくれよ」
レーザーを周囲に放つメタル者が抗議する。街中でのレーザー照射は禁止されているが、だからこそやるのがワルというものである。前は見なかった顔なので、雨が弱い日限定なのかもしれない。
「悪さはまだしてねーよ。で、猫の人は何してるわけ?」
訊いたのは最初に声をかけてきたのと同じ、面発光素子であちこちを光らせたメタル者だ。
「ちょうどよかった。実はな」
簡単に幽霊の話をする。ぼやっとした顔と、同じ位置から出るクリアな音。しばらくついてきて、突然消えてしまった話。
「その人?はしらねーけどさ、オイ」
呼ばれて気の弱そうなメタル者が前に出る。いや、動きこそ気弱そうだがボディはがっつりエッチングした後磨き上げたような異様さを醸し出している。
「どっちかっつーと古臭いカスタムだし、うちでもコイツぐらいしかつけてるのいないんだけどよ、ホレ」
促されて何かを起動する。雨の中に、チームのマークか何かだろうか、模様のようなものが浮かび上がった。ただ、えらく不明瞭だ。それが、周囲の空間を飛び回る。興味深そうに猫が近くに寄る。
「コレが、さっきの話に似てるんじゃねえかな」
猫はエッチングのメタル者に張りついて投影機を見ながら、耳だけをそちらに向けて聞いている。
「音の方も、確か複数の指向性スピーカー使うやつがあったと思う。やっぱ、『お化け』というよりは、メカの方がしっくりくるんじゃねえかな」