怖かったです
✿
次の日は休日だったので保健室は閉館していた。そして休暇の最後の週がやってきた。
「菜乃日」
名前を呼ばれて参考書から顔をあげる。すると目の前に宮子師匠が立っていた。
「宮子師匠!」
わたしは思わず声を出してしまい慌てて口を抑えた。図書館は人の数は少ないが、いないわけではない。
「ごめん、驚かせたね」
宮子師匠はいつも通り白衣を羽織っている。図書館でその姿を見るのは新鮮だ。
「いや、いいんですけど。ここまで来てどうしたんですか」
「今度は先生がおすそ分けのおすそ分け持ってきたんだ。また休憩しにおいで」
「本当ですか、ぜひ行きます」
「じゃ、いつでも」
そう言って宮子師匠は颯爽と去っていった。その後ろ姿が格好いい。
うきうきしながら席に着き、わたしはそういえば窓から宮子師匠を見送ろうと久しぶりに図書館の窓から顔を出した。歩いて行く宮子師匠の背中を目で追いかけていると渡り廊下が終わるところで宮子師匠は立ち止まった。
「ん?」
どうやら誰かと話しているようだ。相手は足元だけが見える。
「…に、…よ!」
誰かの荒げた声が聞こえた。なんだか嫌な予感がした後、一人の生徒が渡り廊下をこちらの校舎に向かって走ってきた。リボンタイの色は三年生だ。しばらくしてから、宮子師匠がゆっくりと校舎に入って行く。誰もいなくなった渡り廊下には、蝉の声だけが響いていた。
数時間が経過し、わたしは休憩に保健室に向かおうと図書館を出た。
「…はあ」
先ほど見た光景が頭に残り、喉元にやもやとした何かが居座っていた。何も言わないべきだよなと思い悩みながら保健室がある第三校舎に入ると、すぐに誰かの話声が耳に入ってきた。
「そんなの許せない、志伸はこんなに頑張ってるのに」
「ジゼルの花は絶対志伸だよ、大丈夫」
「ありがとう、でもやっぱりちょっと不安で」
わたしは思わず息を止めた。保健室の前には、三人の女子生徒が立っていて、そんな会話をしていたからだ。
「なんであいつは何も言わないの?」
「ねえ、もう一回ちゃんと言っとこうよ」
「うーん、でも蛇子さんにも事情があるかもだし」
香住志伸だ。わたしは確信し、その三人から見えないように階段の影に隠れる。
「そんなんじゃだめだよ、行こ」
三人のうちの一人が、保健室の扉を勢いよく開けた。
「………どうしたの」
宮子師匠の静かな声が耳に届き、わたしは階段からほんの少し顔をのぞかせる。宮子師匠含め、誰もわたしは気付いていない。
「どうしたのって何我が物顔で保健室に入り浸ってんの?」
一人の女子生徒が言う。声にはっきりと怒りが含まれている。
「…」
宮子師匠の返答はない。気温のせいだけではない汗が額ににじむ。
「教室には一度も来ないくせに、なんで成績だけ取ろうとするわけ?」
「志伸の邪魔しないでよ」
二人の女子生徒は宮子師匠に強い言葉を投げつける。しかし、一歩後ろに立っている香住志伸は言葉を発しない。ただ宮子師匠を見つめている。
「…私はジゼルの花になるつもりはないから安心して」
「そんなのわからないじゃない!ジゼルの花になるつもりはないっていうなら、試験を降りなさいよ!」
「それはできない」
「なんでよ!」
「香住さん、あなたがジゼルの花を目指す理由があるように、私にも試験で一番を取る理由がある」
香住志伸の肩が一瞬揺れた。
「私が邪魔なのはわかってる。けど、もう放っておいてくれないかな。私はもう二度と教室にはいかないし、行事にも出ない。そうしたらあなたがジゼルの花になるのは確実でしょう」
宮子師匠は淡々と言葉を紡ぐ。そこには悲しさも怒りも含まれておらず、ただ諦めのような感情が込められているように聞こえた。
「…それなら」
小さく聞こえた声は、恐らく香住志伸のものだろう。彼女が香住志伸。宮子師匠までもがジゼルの花にふさわしいと言った人。そんな人がこんなことを言うのか。申し訳なさそうにしながら、ほんのひとさじの喜びが含まれた声で。
わたしは強く地面を蹴って、階段の影から飛び出した。静かな廊下に思いのほか大きく響いた足音に、宮子師匠がこちらを向く。
「…」
その目は、何も言うなと訴えているような気がした。しかしわたしはせり上がってくる言葉を抑えられなかった。
「歴代のジゼルの花が残したエピソードを、ひとつご紹介しますね!」
突然の声に驚き、香住志伸たちが一斉にわたしを見た。そこでようやく香住志伸の顔を正面から見ることができた。香住志伸は困惑した表情だ。優しそうな、賢そうな人だ。
「その人は誰からも愛されるような人でした。同級生、下級生たちから親しまれ、誰からもジゼルの花はこの人だと言われるほどの人でした」
ジゼルの花になった人は誰もが取材を受け、その記事は学園が発行してる広報誌に掲載される。その広報誌は公立の図書館や、各学校に配付されることから、誰でも読むことができる。わたしは、過去の広報誌を全て読んで研究書を作成していた。
「その人には好敵手がいたそうです。成績でいつも競っていたり、同じ生徒会だったため意見が食い違うこともあったとか」
「何よ、あなた」
香住志伸の横にいた二人の女子生徒のうち、ひとりが戸惑いながら声を出した。わたしは人差し指を唇に当てる。なんだこいつという顔をした女子生徒は、呆れた様子で口を閉じた。こちらが堂々としていれば、案外口出しはしにくくなるものである。
「いつからか好敵手は敵であると、その人の周囲の人間の共通の認識となってしまったそうです」
「…」
わたしが何を言うのか察したのか、香住志伸の顔が苦いものを食べた時のように歪む。
「その好敵手は、周囲の人間から厳しい扱いを受けたそうです。詳しくは明かさなかったようですが」
ジゼルの花の取材なので、その好敵手の人の言葉は記事にはない。あくまでジゼルの花が語った言葉だ。きっと好敵手の人は本当の真実を明かさなかっただろう。
「それを聞いたその人は、とても悲しみ苦しみました。なぜなら、その人が掲げていた座右の銘は、”人は鏡”だったからです」
廊下は静かだ。わたしの声と、蝉の声だけが聞こえる。
「他人は自分自身の鏡であるという信条で生きていたその人は、周囲の人がそんなことをしてしまったのは自分のせいだと悩み、ついにはそのことを学園の先生に相談したそうです」
このことは杜乃宮学園で重大な問題として取り上げられ、学園側は申し出たその人の望みを組む形で処分を下した。
「その人に一週間の停学処分が下され、周囲の人間は慌ててその人に尋ねに行ったそうです。悪いことをしたのはわたしたちなのに、どうしてあなたが処分を受けるのだと」
「…」
宮子師匠は静かな瞳だ。
「そこでその人は言いました。あなたたちがこのような行動に出てしまったのは、私の本心が鏡のように映ってしまったからだと。私も本心では、好敵手のことを邪魔に思っていたと。でも、こんな考えをする私にはジゼルの花はふさわしくないと。それを聞いた周囲のひとたちは、慌てて学園側に申し出たそうです。その人は悪くない。勝手に動いた自分たちが悪いと」
その人は、本当に周囲の人たちから愛されていたのだろう。それ故の出来事だった。
「その声が大きくなり、学園では再度話し合いの場がもたれました。そこで何があったのかは語られてはいませんが、その騒ぎはそこで収束したそうです」
「…何が言いたいの」
香住志伸の眉間にしわが寄る。
「人は鏡なんです。あなたが何もしてなくても、あなたの本心を移した人が行動を起こすことがあります」
「…」
香住志伸の隣の女子生徒は視線をうろつかせる。
「そうやってジゼルの花になって、誇れますか?」
その人は自分がジゼルの花になったことを最後まで疑問に思っていたという。誰かを傷つけて、それでもらった名誉に何の意味があるのかと。
「ジゼルの花にさえなれれば、なんでもいんですか」
正直ここで頷いてほしくはないというのはわたしの勝手な感情だ。ジゼルの花に選ばれる人が、そんな思いであってほしくはないという願望だ。
「あなたにとってのジゼルの花なんて、その程度なんですか」
香住志伸の少し強く見つめる。その瞳が、少し揺らめいた気がした。
「あなた、一年のくせにどこからもの言ってるのよ!」
痺れを切らした女子生徒が声を出した。
「…わたしはとあるエピソードを紹介しただけです。では、わたしは蛇子さんに用事がありますので」
そろそろ潮時だと思い、わたしは堂々と廊下を闊歩し目を丸くしている宮子師匠のいる保健室に入る。
「では、失礼します」
わたしは保健室の扉を、三人の目の前でぴしゃりと閉じた。
「…」
「…」
しばらくわたしたちは無言でその扉を見つめていたが、やがて足音が遠ざかっていきわたしは小さく息を吐く。
「怖かった…」
「それはこっちの台詞。肝が冷えたよ」
宮子師匠が苦く笑う。
「すみません」
「いいよ、格好よかった。ありがとう」
宮子師匠は柔らかく微笑んで、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。コップに麦茶を注ぐ音が聞こえる。
「でも今の、ジゼルの花らしからぬ行動ですよね」
勢いで乗り込んだことを少し反省してそう言うと、宮子師匠は麦茶が入ったコップを机の上に置きながら言う。
「菜乃日にとってはそうかもしれないけど、私はあの場にいる誰よりもジゼルの花らしかったと思うよ」
「宮子師匠のジゼルの花ってどんな人ですか?」
「そうだな。あんまりしっかり考えたことはないけど、一輪の花のように強く咲き誇るような人ってイメージはあるね」
「…そうなると、わたしにとっては宮子師匠ですけど」
「ふ、ここも鏡になってたのかも」
宮子師匠は麦茶を飲みながら笑った。
「人は鏡、いい言葉だ。私ももっと早くちゃんとあの人と向き合っていれば何か変わったのかもしれないね」
「…」
寂しそうに微笑んだ宮子師匠に、とっさに言える言葉が思いつかない。
「入学した当初はどちらかと言えば仲がいい方だったんだ。いつからこうなったか、もう覚えてないけど」
2年の年月はふたりの、もしくは一方の何を変えたのだろう。
「心の中で私もあの人から逃げようとしていたのが、そのまま表れたんだろうな」
「ま、まだ8月です」
「ん?」
「あと半年、あります」
微妙に片言になってしまった。
「あと半年で、まだ何か変わるかもしれません…変わらないかもしれないですけど」
じっと見つめられ、語尾が萎む。偉そうなことは言いたくないが、寂しそうな宮子師匠を見てられなかった。
「…そうだね」
「あ~暑い~。あっ菜乃日ちゃんいらっしゃい」
宮子師匠が静かに瞳を伏せた時、保健室の先生がうちわを仰ぎながら保健室に入ってきた。
「おじゃましてます」
一瞬わたしたちの間に流れていた空気を察知したような顔をした先生は、すぐに優しい笑みに変わる。
「おすそ分けの話聞いたでしょ?水ようかんだけど、食べる?」
「はい、頂きます」
わたしたちは笑って、その日も美味しい時間を過ごした。
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「では失礼します」
保健室に一時間ほど滞在し、わたしは図書館に戻るべく廊下を歩く。すると、前から美桜珠李が歩いてくるのが見えた。よく会うなと思いながらすれ違うと、真横から声が飛んできた。
「あ、ねえ」
「…えっあっはいっ!」
美桜珠李から話しかけれたという事実に頭が一瞬ついて行かず、動揺したまま返事をした。
「いきなりごめんねー!さっき保健室前に話してた子だよね?」
パッと明るい笑顔が眩しい。その笑顔にくらみかけたわたしは、美桜珠李の言葉でさっと意識を戻す。
「も、もしかしてお聞きに…?」
まさか他の誰かに聞かれているなんて思いもしなかったので、なんとなく恥ずかしくなって後ずさる。すると美桜珠李はその分一歩近づいてきた。
「一年なのに三年にあそこまで言えるなんて凄いね!格好良かった!名前は?なんていうのー?」
「え、えっと、陽野菜乃日です」
「菜乃日ちゃんね!あたしは生徒会の美桜珠李。菜乃日ちゃんみたいな子がいると生徒会かなり心強いなって思った。部活入ってる?今からでも生徒会来ないー?」
あまりの距離の詰め方の早さにわたしは驚愕する。これはプロの技だ。
「ぶ、部活は他に入ってるので…」
「そっか、生徒会は兼部はだめだもんねー。残念!でも、いつでも大歓迎だよ!って言っても私だけが歓迎しちゃだめか」
ころころと球が転がるように表情が変わる。
「一年だと鈴矢と同級生かー。またどこかで会ったらよろしくね!じゃあまたねー!」
「あ、はい…」
怒涛の勢いに押されたまま、わたしは美桜珠李を見送った。ある意味、香住志伸一行と
対面した時より変な汗が出た。一方で安城鈴矢一行と全員と話したなと妙な達成感を得ながら図書館に静かに戻った。
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夏期の休暇は、蛍の別荘に行くのが恒例になっていた。杜乃宮に入ってもそれは変わらない。
「あーあ、今年の休暇短かったなー」
夏休みの最終日、大波家の送迎車に乗って俺たちは日暮れ前に帰路についていた。
「珠李は補習があったからだろ」
俺がそういうと、珠李は口を膨らませる。
「補習だけじゃないよー!生徒会の仕事もちょっとしてたよ、ねぇ蛍?」
「それも学期中に間に合わなかったんだろ」
「もー!二人して!」
学園に近づいた頃、珠李がふとこう言った。
「ね、学園前通って帰ろうよ」
「は?なんで」
「休暇中に学園に行ったとき、面白い子と知り合ったのー。なんだか毎日図書館にいるみたい」
「もう下校時間じゃないか?」
蛍が車に表示されている時計を見る。
「だからだよ!もし見かけたら挨拶したいなー」
「珠李が知り合ったのって誰だ?毎日図書館なんて真面目な奴なんだな」
「ナノカちゃんだよー」
その名前を聞いて俺と蛍は顔を見合わせる。
「…まさかナノカって、陽野菜乃日?」
「えっ?もしかして鈴矢知り合いだったー?」
珠李が目を丸くする。そう言う珠李は陽野菜乃日と知り合いだと言わんばかりだ。
「いや…まぁ同じ学年だし…」
「同じ組だっけ?」
「…それは違うが」
「ふーん?」
珠李には陽野菜乃日の件は何も伝えていない。そうか、先に珠李と知り合いになるというのは想定していなかった。俺はとりあえず話を変えることを試みる。
「別にいいだろ、陽野菜乃日がどうしたって?」
「三年に啖呵切ってたところに出くわしたのー」
蛍と俺は静かに目を閉じた。蛍に啖呵を切るくらい肝が座っている人間だとは思っていたが。
「…あいつ怖いもんないのか…」
「それも三年の人を庇うためだったみたい。鈴矢はまだ知らないかなー。保健室の天使」
「誰だそれ」
「よく保健室にいるかわいい先輩だよー。蛇子家の人だったかな」
珠李の言う保健室の天使は知らないが、蛇子という家は知らないわけがない。大波家と同じ梅の家紋を持つ家だ。確か年子の三兄弟で、全員が杜乃宮学園に入学することになった時は紋家の間で話の種によくなっていた。俺の学年に末っ子がいるが、まだ接触はできていない。まあそこは置いといてだ。
「…誰がを誰を庇ったって?」
「だから!ナノカちゃんが保健室の天使を庇ってたのー。格好良かったな」
「…」
「なんでふたりして怖い顔してるのー?」
俺たちは陽野菜乃日のことを全く知らないが、もしかすると俺たちが思っている以上にいろいろと凄い奴なのかもしれない。
学園前を通り、運転手に車を門前に止めてもらう。
「待ってても出てこないと思うが」
「でもいつもこの時間にはー…あっほら!」
珠李が指差した先に、図書館から出てくる陽野菜乃日の姿があった。
「ほらね!」
「凄いなお前…」
「だってよくこの時間にすれ違ってたからーあれ?」
珠李が声をあげたので窓の外をよく見ると、陽野菜乃日が誰かに話しかけられているようだ。三人いるが全員背が高く、リボンタイから三年の男子生徒であることがわかる。
「ありゃ、絡まれちゃってるー。あれ三年だよね」
「運動部の先輩だな。大丈夫か」
「さすがに学園で変ことする輩はいないと思うけど…あれ、鈴矢?」
「ちょっと様子見てくる」
俺はそう言って車を降りた。きっとひとりでもなんとかするだろうが、珠李の話を聞いて俄然興味がわいていた。得体の知れないものは早めに解析しておいた方がいいという好奇心で、俺は陽野菜乃日に近付いた。
近付くと、会話が聞こえてくる。
「毎日図書館いるよね」
「よくご存じですね」
「これから帰るの?」
「そうですね」
淡々と陽野菜乃日は返事をしているようだが、三年の男子生徒はそれを面白がっているようだ。
「夏休み最後の日だっていうのに寂しくない?」
「いえ、とても楽しいです」
その顔は真顔だ。男子生徒たちが噴き出す。
「やっぱ面白いな、君。名前は?」
どうやら陽野菜乃日はこの夏季休暇中に男子生徒たちに目をつけられていたようだ。なんとなく面白くない。先に陽野菜乃日の存在に気付いていたのはきっとこちらの方なのに。
「…ひ」
「待たせたね」
馬鹿正直に名前を言おうとする陽野菜乃日のすぐ隣に立った。
「…え」
陽野菜乃日は俺の顔を見て目を丸くする。男子生徒は俺を見て少し眉をひそめた。
「あんた誰?」
「…おい、安城家の次男だよこいつ」
「えっ」
さっと顔色を変える男子生徒たち。恐らくは全員紋家の人間なのだろう。
「い、行こうぜ。変に顔覚えられたくないし」
「じゃあまたね、お嬢さん」
あっという間に男子生徒はその場から離れていった。
「はい」
「返事はしない方がいいと思うが」
俺が思わずそう言うと、陽野菜乃日はこちらを向く。
「ありがとうございます。助かりました」
素直に感謝され、少し驚く。階段で会ったときにはもっと頑固な奴かと思っていたのだ。
「ちょうど通りかかっただけだ」
「それはよかったです。では」
適当に理由をつけると、陽野菜乃日はあっさりと頷いて俺を置いて先に進もうとした。
「いや、ちょっと待て」
「え?」
あまりのそっけなさに思わず呼び止めてしまった。
「あ、いや。もう下校時間が近いだろ。そっちは出口じゃないだろ。どこに行くんだ」
図書館が閉館するのは、下校時間の三十分前だ。まだ時間はあるにしても、これからどこかに行くというのは不自然だった。菜乃日は表情を変えず、あっけらかんとして答えた。
「花火を見てから帰ろうと思っていまして」
「花火?…ああ、港の」
この街の港では、毎年8月31日に必ず花火が打ちあがる。決して規模は大きくはないが、夏の風物詩として知らない人はいない。
「司書さんに教えてもらったんです。いい場所があるって。ちょっと下校時間は過ぎるかもしれませんが、ほんの少し見てからでも間に合うだろうと…」
陽野菜乃日はそう言って俺の顔を見る。
「あなたも来ますか?」
陽が落ちかけていたので、陽野菜乃日の表情がやけに暗く見えた。
「…ああ」
社交辞令だろうと思う反面、口では了承していた自分に驚いた。俺が返事をすると、陽野菜乃日はパッと明るくなった。
「では行きましょう!第一校舎の四階に上がる踊り場です」
「あ、ああ」
陽野菜乃日は意気揚々と歩き始め、俺は慌てて振り返って蛍と珠李が載っている車に手を振った。ふたりは首を傾げながら車から降りてきたので、俺はそのまま陽野菜乃日の後ろをついて行った。
「…」
「…」
陽野菜乃日は淡々と階段を上っていく。俺は蛍と珠李がついてきていることを確かめながらその後に続いた。
「…」
「…」
俺は陽野菜乃日の後ろ姿を見ながら思い悩んだ。いくらいい場所を教えてもらったからって、この前話したばかりでしかも喧嘩のような別れ方をした俺をわざわざ誘う意味がわからない。しかし、俺が了承すると彼女は素直に嬉しそうな顔になった。陽野菜乃日はこの前話した時にも思ったが、考えていることがそのまま顔に出る人間だ。だから、本当に俺と花火を見るのが嬉しいのだろう。
「ここです」
目の前の本人に尋ねれば答えも出るかもしれないが、親しいわけではない。俺たちは話すのはこれで二回目なのだ。俺たちは黙ったまま目的地の踊り場に到着した。窓を見ると、確かに他よりも大きく、港の方角はよく見えるだろう。
「かなり昔に、花火を見るためにここだけ窓が差し替えられたみたいです。時間が経つにつれ忘れられていったそうですが」
「なるほど、ここならよく見えるな」
「もうすぐです」
陽野菜乃日は外を見つめる。
「…」
「…」
お互い無言になり、陽野菜乃日がこちらに顔を向けた。
「そういえば、私服で学園入ってよかったんですか」
無言は気まずいと思ったのか、適当な話題を放り投げてくる。
「休暇中なら特に苦言を言われることはないさ」
「それなら良かったです」
なんとも当たり障りのない会話だ。他に聞けることは山ほどあるだろうに。
「…」
ふと視界の端に蛍と珠李が階段を上ってきたのが見えたので、陽野菜乃日に見られないところで彼らを止まるように手のひらを見せる。
「…休暇中は毎日図書館にいたのか」
「そうです。学園の図書館は居心地がいいですから」
「そうか」
そこでふと沸いた疑問を尋ねた。
「どうして敬語なんだ?同い年だろ」
「ああ両親が厳しくて昔から敬語で話すのに慣れてしまっていて、これが標準なので気にしないでください」
「そうなのか、民家でもそういうところがあるんだな」
陽野菜乃日は俺の顔を見て、綺麗に笑った。前に見た、作り笑いだ。
「そうです」
陽野菜乃日が取り留めのない話題を選んだのは、自分に関心の矛先を向けないようにしているのではないか。ふと、その笑顔を見て思った。しかしそうなると余計に俺を花火に誘った理由がわからない。
ドンッ
「あっ」
時間になったようだ。港の方角から、音が聞こえた。同時に、下校時間になったことを示すチャイムが鳴る。
「すごい。本当に綺麗に見えますね」
「そうだな」
まるで一枚の絵画のように、その大きな窓の中心に港の花火が上がっている。
「良かった」
ぽつりと花火でかきけされそうな声で、陽野菜乃日は呟いた。
「…何が?」
何だか聞き逃してはいけないような気がして、俺はそう尋ねた。陽野菜乃日は窓から徐に目を離して、こちらを見た。
「…ひとりで見る花火なんて、味気ないですから」
その顔はどこか陰りがあり、哀愁があるように見えたが、次の瞬間にそれは吹き飛んだ。
「…あれ?」
「あっ」
階段から顔をのぞかせていた蛍と珠李の存在に、陽野菜乃日が気付いたようだ。
「やほー、ナノカちゃん」
「…」
珠李は楽しそうに手を振ったが、蛍は物凄く気まずそうな顔をして頭を一ミリに満たない程度に下げる。
「お二人とも、ちょうどいいところに!ここは花火の名所なんです」
陽野菜乃日は明るい笑顔でそう言った。
「ほんとー?みるみる」
「…」
珠李はすぐに陽野菜乃日の隣に立ったが、蛍はゆっくりと俺の隣に立った。
「綺麗だな、蛍」
「…ああ、そうだな」
花火は数分で終わり、再び急かすように下校時刻のチャイムが鳴る。
「では帰りましょうか」
陽野菜乃日の隣に珠李、その一歩後を俺と蛍が続き階段を下る。珠李はいつの間にか陽野菜乃日にすっかり気を許しているようだ。
「ナノカちゃん送ろうか?家どこー?」
距離感を詰めるのが早い珠李がそう尋ねるが、陽野菜乃日は笑って首を振る。
「わたし寮生なので、すぐそこなんです」
「そうなんだ。家遠いのー?」
「そうですね」
「どのへん?」
珠李は怖いもの知らずなので、ぐいぐい踏み込んでいる。思わず耳を立てる。
「かなり遠いとこです」
「そっかー!」
珠李は頭もあまりよくないので、にこやかに頷いた。さすがに陽野菜乃日が壁を作ったのに気付いたのかもしれないが。
「それでは、わたしはここで」
「ばいばい」
そうして陽野菜乃日はあっさりと俺たちと別れて帰路についた。
「ね、いい子だったでしょー?」
珠李は俺たちに向かってそう言う。
「…そうかもな」
俺と蛍はただ同意することしかできなかった。すでに日は落ち、辺りは薄暗い。夏はもうおしまいだと言いたげな風が、俺たちの髪を撫でていった。
✿
「ああびっくりした」
寮の部屋につき、わたしは深呼吸をする。
「まさか安城鈴矢ご一行が現れるとは」
制服を脱いで、勢いのままベッドに倒れ込む。
「…」
思わず安城鈴矢を花火に誘ったが、まさかあんなにあっさり了承されると思わなかった。もしかしたら茉夏の言う紳士的は、女子の誘いは断らない的な意味合いなのかもしれない。そうでないと、わたしたちはお互い微妙に言い合いをした程度の仲なので説明がつかない。
「…」
わたしは部屋着に着替えて、自分の部屋から出た。そして寮の共有の電話がある場所に向かう。
「…もしもしお母さん?菜乃日です」
「待ってたわよ!菜乃日、誕生日おめでとう!」
「うん、ありがとう。お母さん」
わたしは微笑む。
「今年は一緒に花火見られなくて残念だったわね」
「仕方ないです。明日から新学期だし」
「今日は花火は見たの?」
「はい。でもひとりじゃなかったです、たまたま近くに人がいたから」
「そうなの?それは良かったわ」
母が息をついているので、心配していてくれたのがわかる。
「またいつでも連絡しておいで」
「わかりました。ありがとう」
わたしは電話を切る。サヤの話は出てこなかった。きっと何の連絡もないのだろう。今日はわたしの誕生日だ。そして、去年のこの日を境にサヤとの連絡が取れなくなった。港の花火をサヤと見るのが毎年恒例だったが、サヤが行方不明になった今年はそれが叶わない。わたしは信じていないけれど、もしかしたらもう二度とそれはかなわないかもしれない。ひとりでいるとそんなことを考えてしまうから、安城鈴矢一行がいてくれてよかった。
『ひとりで見る花火なんて、味気ないですから』
思わずこぼれた独り言をを安城鈴矢に聞かれたのは失態だったが、うまくごまかせただろうか。美桜珠李や大波蛍がタイミングよく現れてくれて助かった。きっと三人は一緒にいて、わたしが三年に絡まれているところに出くわしたのだろう。美桜珠李とは休暇中にいつの間にが顔を合わせると挨拶をする仲になっていたからまだ良かったが、大波蛍は顔全面に罪悪感が浮かんでいた。別にわたしは気にしていなかったが、それを話す機会はあるだろうか。しかしだ。わたしは先ほどの会話を思い出す。
『そうなのか、民家でもそういうところがあるんだな』
安城鈴矢は、陽野家が民家なのを知っている。月代家と安城家は、同じ菊の紋家であるために繋がりが他の家よりもある。だから、安城鈴矢が何かに勘付く可能性は一番高いだろう。在学中はできることなら陽野家と月代家に関係があるということは伏せておきたいと思っている。わたしが好奇の目にさらされないためと、月代サヤの失踪を隠すためだ。
と、ここまで考えても答えは出ない。とりあえずは眼前の目標、中間試験で一番を取るところからだ。
「よし!」
わたしは拳を握り、気合を入れた。すでに日は落ち、星がきらめく空の下で鳴く虫の声が窓の外から聞こえてきていた。