研究をします
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二週間後、わたしと茉夏は再び印刷室横の備品室に訪れていた。今度は、「文楽同好会」として。
「ああ、こうしてまたここに入れるなんて!」
「許可下りてよかったですね」
わたしは備品室の窓を開けながら言う。少し埃っぽい備品室に、新鮮な空気が入ってくる。そのうち虫干しもした方がいいかもしれない。
「本当に。ありがとう、菜乃日ちゃん」
「いいえ、わたしも入る部活が無くて困っていましたから」
「結構無くなることあるんだね、部活」
「そうですね」
この同好会を作るにあたって活動内容は文芸部と同じにしたが、茉夏がせっかくだから声楽部の要素も入れようとうことで名前が「文楽同好会」となった。活動場所は希望通りの印刷室横の備品室。文楽同好会の活動だと言えば、堂々と鍵を借りることができるようになった。
「活動時間の申請、週1回でよかったんですか?もっと回数増やせば入り浸れるのに」
「いいよいいよ、それ以上増やしたら何も手につかなくなっちゃいそうだし、ここにあるもの以外の本も読むもの」
茉夏は本当に読書が好きらしい。さっそく冊子を手に取って椅子に座った茉夏は、本の世界に入る直前に思い出したようにこう言った。
「そういえば、期初試験の結果見たよ!菜乃日、三番ってすごいね!」
そう、期初試験の結果は学年三位だった。
「ありがとうございます」
「たまに三組覗いても勉強良くしてるよね。勉強好きなの?」
「好き…とはちょっと違いますけど、ジゼルの花を目指しているので」
それくらいしないと、追いつけないのだ。わたしは心の中で苦く笑う。すると、茉夏は手元の冊子をパタンと閉じた。目が丸く、口が開いている。
「じ、ジゼルの花目指してるの…!そうなんだ…!」
「そんなに驚きます?」
「い、いや、杜乃宮に入学したらみんな絶対一度は憧れることだもんね…」
「…茉夏は目指さないのですか?」
「わ、私は正直期初試験でも真ん中より下だったし…あと…ほら…」
真っ直ぐにこちらを見ていた茉夏の視線がぐらりと揺れる。
「…安城家の人がいるから?」
わたしは茉夏の先の言葉を引き継いだ。同級生たちが口々に言う言葉だったからだ。
「う、うん…期初試験で一番だったし…」
そう菊家である安城家の次男、安城鈴矢が期初試験の一番だった。同級生たちは素直な感嘆のため息と、自分にはジゼルの花は無理だと諦めのため息を同時に吐いていた。しかしそれで折れるわたしではない。
「たった一回の試験で一番を逃したからといって、ジゼルの花になれないわけではありません」
わたしは鞄から研究書を取り出して、頁をめくる。
「わたしの研究によると、歴代のジゼルの花で期初試験で上位10位に入ったのは、13名。それ以外は実は中間層にいました。もちろん試験結果は重要ですが、試験結果だけではないというのもジゼルの花を語る上で重要事項です」
「え、うん」
茉夏が若干引いた様子で呟く。わたしはさらに頁をめくる。
「それに、ジゼルの花になった人間は紋家が多いですが、もちろん民家の人間もいます。同級生に梅家の人間がいた学年でも民家の人が選ばれていますから、必ずしも家柄は関係ないことも予想されます」
「…なに?そのノート…」
「ジゼルの花になるための研究書です。残念ながら極秘なので、茉夏でも見せられません」
「…そ、そっかあ」
茉夏がさほど残念ではなさそうに相槌を打つ。それも仕方ないジゼルの花に興味がなければただの落書きノートである。わたしだけが楽しい話題に付き合わせるのは申し訳なく思い、ノートを閉じた。
「わたしの組でもすでにこの学年のジゼルの花は安城鈴矢だという声が多いです。そういえば一組でしたよね、安城鈴矢」
「あ、うん。私と同じ組だよ」
気を取り直したように茉夏は頷く。
「どんな様子ですか、安城鈴矢は」
「そうだね、一言で言えば大人気の王子様って感じだな」
「王子様?容姿的な意味ですか?」
実は機会を逃していて、まだ安城鈴矢自身を目撃したことはない。
「うん、格好いいよ。でもそれだけじゃなくてね、中身もすごく紳士的で、優しい人だよ。それでかつ頭もいいから、もう大人気って感じ」
「へえ」
「あと、生徒会入ったらしいよ。今年の新入生は3人だって」
「…なるほど」
「なんかもう先輩にも頼られてるらしいし…な、菜乃日ちゃん?目が怖いよ?」
「研究対象が増えました…」
「…が、がんばってね」
茉夏は若干ひきつった笑みでとうとう冊子を開いた。わたしは研究書を開いて、新しい頁に文字を書く。
”34代目候補 安城鈴矢について”
一番の好敵手だと思われる、安城鈴矢について学ぼう。すでに同級生からジゼルの花だといわれるくらいだから、それほどのジゼルの花の素質があるはず。それを見つけて、ぜひ参考にさせてもらおう。
「よし!」
わたしは声が大きすぎたかと茉夏を横目で伺ったが、茉夏は本の世界に没頭していてすでにこちらの音は届いていないようだった。
翌日、さっそくわたしは茉夏に用があるふりをして一組を覗いてみた。
「あ、菜乃日ちゃん」
すぐに茉夏が嬉しそうに扉の近くに立っていたわたしの方にやってきた。
「こんにちは、茉夏」
「さっそく偵察?」
「はい」
わたしたちはちらと横目で安城鈴矢がいる方を見た。
「いつもあんな感じですか?」
「うん、いつもあんな感じだよ」
安城鈴矢の周りには同じ組の人間だけでなく、別の組の人間たちまで溢れていた。皆嬉しそうに安城鈴矢に話しかけており、彼も人の良い笑顔で対応している。
「カリスマ性があるということですね」
「どうするの?話しかける?」
「いえ、偵察ですから。ある程度人となりがわかるまでは接触は控えます。茉夏は会話したことはあるんですか?」
「うん、あるよ。移動教室の時に話しかけられたの。私どもっちゃって全然うまく話せなかったんだけど、すごく優しかった」
茉夏が笑顔で頷く。すると、思い出したようにこう付け加えた。
「最初に声かけてきてくれた菜乃日ちゃん、その時の安城くんにちょっと似てたかも」
「うん?」
わたしは思わず抜けた声を出す。どこが?何に?
「あ、もうすぐ次の授業の先生来た。準備かな、早いね」
「では、ここでお暇します。ではまた」
「うん、ばいばい」
一組を離れてわたしは自分の組へ戻る。ノートに”カリスマ性”と書き加えた。そして茉夏が言っていた、”似てた”という言葉を思い出す。雰囲気?言葉?動作?なんにせよ、今のわたしの行動がジゼルの花の候補と謳われる安城鈴矢に似ているというのは、わたしの方針が間違っていないことだろう。この調子で頑張っていこう。
それから、隙を見てはわたしは安城鈴矢の行動の観察を始めた。とはいっても別の組なので、一日一回見かければいい方だった。学園内を散策するつもりで第三校舎にある生徒会の部室、通称生徒会室にも近づいて見たが、上級生の姿を見てとんぼ帰りしてしまった。得られた情報は、”常に笑顔””紳士的””落ち着いた言動””所作が綺麗”といったところだ。これといって特筆することはない。数日安城鈴矢を観察して満足したわたしは、そのうちに安城鈴矢への興味を失って自身の勉学を磨くことへ徐々に注力していった。
それから二週間ほど経ったある日のことである。
「ん?」
授業後の勉強場所として図書館の三階の窓際のある自習机に居座っていたわたしは、ふと窓の外に安城鈴矢の姿があることに気付く。安城鈴矢含め三人が話しながら一階の渡り廊下を歩いていた。
「…」
その場所は第三校舎と第二校舎の渡り廊下をちょうど見下ろせる位置であったため、おそらく彼らは生徒会室から出てきたのだろう。安城鈴矢と、二年生の女子生徒と、二年生の男子生徒の三人は談笑しながら歩いている。特に何かを思うわけでもなく、なんとなくわたしはその三人を見つめた。すると、二年生のふたりに何かを言われた安城鈴矢はふと笑った。
「…へえ」
その笑顔は前に見たものよりもかなり年相応に見えたので、小さな驚きが口から洩れた。その時わたしにとっての安城鈴矢という人間の評価は、つまるところ”完璧な人間”であった。頭脳明晰で容姿端麗、さらにはカリスマ性ももった紳士的な人間。それはあまりにも16歳の男子生徒としては過剰な能力のように思え、どこか別世界の人間のように感じていた。そんな彼でも、あんな無邪気に笑うのだ。あの二年生は何者なんだろう。
次の日、さっそくわたしは生徒会の部員を調べてみた。生徒会の人間は公式の書類に顔や名前が載ることが多いので、すぐに名前がわかった。女子生徒は、美桜珠李。男子生徒は、大波蛍。大波家は梅家だが、美桜家は民家だ。一体どういうつながりなんだろうと興味を持ったが、深い詮索はジゼルの花らしからぬ行動だ。調査はそこで切り上げたが、わたしは定期的に窓の外を眺める習慣がそのうちについていった。
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「もしもしお母さん?菜乃日です」
「あら菜乃日、元気?」
授業後、わたしは母親への定期連絡をしていた。
「元気です。勉強はやっぱり大変ですけど」
「菜乃日でも大変だなんて、さすが杜乃宮ね。まだ参考書残ってたと思うけど、送ろうか?」
「いえ、今度帰った時に一緒に持って帰るので大丈夫です。そちらは何か変わったことはありましたか?」
「ううん、何もなく穏やかよ。そういえばこの前菜乃日が教えてくれた本、面白かったわ」
「それは良かった。茉夏のセンスはいいですね…あ」
「どうしたの?」
本の話で思い出した。今日返却期限の本を借りているのを忘れていた。勉強した後に返却しようと思っていたのに。
「すみませんお母さん、まだ間に合うと思うのでちょっと図書館に返しに行ってきます」
「あらあら、気を付けてね」
「はい、ではまた」
わたしは電話を切り、晩御飯前だったので管理人に声をかけてから寮を出る。図書館の本を延滞したら、ペナルティで一週間貸し出しができなくなる。それ以前に、返却期限を忘れるなんてジゼルの花らしからぬことだ。わたしは小走りで閉館直前の図書館に滑り込んだ。
「間に合って良かった」
わたしは安堵の息をついて、図書館を出た。あたりはもう陽が落ちかけているので橙色に染まり、人気もない。わたしはなんとなく、いつも見ている場所に行ってみることにした。
「ここか」
そこは、第三校舎と第二校舎の渡り廊下。図書館の席から見下ろせる場所である。あれから何度か安城鈴矢を見かけており、生徒会の人間はここを頻繁に通ることが分かった。
「ふーん」
ぼんやりと渡り廊下から図書館の窓を見上げていると、閉館の時間になったのか図書館の照明が消えた。その時、背後から足音が聞こえて、わたしは何とはなしに振り向いた。
「っ」
思わず声が出そうなのを、寸でのところで飲み込んだ。安城鈴矢とよく一緒にいる二年生の生徒会の人。今まで生徒会の仕事をしていたのだろうか、手には書類を持っている。立ち止まったまま顔を凝視してしまったので、大波蛍は一瞬眉を潜めた。安城鈴矢と別系統ではあるが、大波蛍も端正な顔立ちをしている。その顔が夕陽のせいで影が濃くなり、思わず畏怖を感じた。
「…失礼します」
わたしは慌てて小さく一礼し、振り返って出口に一目散に向かった。変な挙動しちゃったかな。ま、まあこんな一年のこと気にも留めないよな、そうであってほしいと願いながら。
その日はなんとなく胸が騒がしいまま食事を終えてすぐに部屋に籠ったが、次の日になると思慮は消え、授業後はいつも通りにいつもの席へと向かった。
「…」
話声が聞こえて、わたしは窓の外を見る。安城鈴矢一行だ。安城鈴矢は美桜珠李と何かを離しており、その一歩後ろを大波蛍が歩いていた。いつもなら普通に通り過ぎる一行だが、その日は違った。大波蛍が、こちらを見上げてきたのだ。
「…!」
わたしが声を抑えて驚くと、あちらも一瞬目を見開く。わたしは思わず窓から頭を引っ込めて、自分のノートに目を移した。
「…」
数秒経って、いや待てよ別にそんなやましいことをしているわけではないよなと思い立ちわたしは再び窓の外を覗き見た。そこにはもう誰もおらず、わたしは小さく息をつく。別にやましいことではないが、見ず知らずの誰かに見られているという事実に気付いてしまったのなら、気分を悪くすることもあるかもしれない。わたしはその日から、窓の外を眺めるのをしばらく控えることにした。