戸惑い
新歓コンパは金曜日だったので、今日は土曜日だ。私は教職の講義を取っているので、涼先輩の家から大学に行かなければいけない。
絵が好きだと言っても、それで食べていけるのなんてほんの一握りだ。絵を描き続けるためには、ちゃんと就職しないといけないし、それで教員免許を取る事に決めた。教員免許を持っていたとしても、教師になれるのなんてこれまた一握りの人間で、就職に有利かもしれないなどという安易な考えもあって取っている。塾の講師なんかの職も持っていた方が有利だと聞いたのもあった。本当に教員になりたいと思っている人間からすると、迷惑な話ではある。だけど、可能性の一つとしてはアリかなと思うのだ。結局、自分が何に向いてるかなんて分からないのだから。
そんな事を話したら、涼先輩はちゃんと考えているだけ偉いんじゃない?と言ってくれた。涼先輩もこれから就職活動をしなければいけないので、大変なんだとか。卒業制作も並行して進めなくてはいけないし、こう見えても忙しいんだと笑って言った。
「元カノの洗顔フォームとか化粧水とか使って大丈夫だったんですか?」
私はシャワーを借りてバスタオルで髪を拭いているところだ。
「良いよー。使って無いし、捨てようかなって思ってたところだったから。また来てくれるなら捨てずにいようかな?みっちゃんだったら、宿代わりに使ってくれて構わないし。」
涼先輩はドライヤーで私の髪を乾かしながら言ってくれた。世話焼きだよね、基本的にこの人は。何かよく分からないけど、気に入られたみたいだ。
「…しなくて良いなら。来ますけど。」
確かに便利そうだよね。大学から近いし。
「チュウぐらいは要求するかも。抱き枕になってくれればもっと嬉しい。」
本当に寂しがり屋だなぁ、涼先輩は。
「…それぐらいならいいですよ。」
まぁ、私も先輩もフリーだし。誰に迷惑をかける訳でもないし?
「本当?ダメ元だったんだけど。みっちゃんガード甘すぎ。心配だわー。」
自分から言っておいて何言ってるんだ。
「じゃあ来ません。」
むすっとした顔で言うと、慌てて来てよ〜と抱きついてきた。本当に寂しがり屋だなぁ。
髪が乾くと優しく髪を梳いてくれる。人にやって貰うと気持ち良くて眠くなるんだよね、不思議なことに。欠伸をしていると、はい出来たと先輩が肩をポンと叩く。
「ありがとうございます。じゃあ、行きますね。」
私は鞄を持って立ち上がる。玄関で靴を履いていると、先輩が見送りに来た。
「もっとゆっくりして行けば良いのに。」
壁に背を預けて先輩は言う。
「お腹空いたんです。早めに行ってパンでも買って食べようかと。」
「ゴメンね何にも無くて。朝食べないんだよね。」
苦笑いしながら、私の頭を撫でた。
「と言うか、どうやって生きてるのか不思議な冷蔵庫の中身ですよね。」
水と目薬ぐらいしか入っていなかったのだ。
「あまり料理しないから。」
あまりどころか、全然では無いだろうか?
「じゃあ、時々生存確認に来ますよ。」
生存確認?と涼先輩は目を細めて笑う。じゃあと私と涼先輩は軽くキスをして別れた。
私の通う大学は山の上にあるので、基本坂道だ。普段はスクールバスで来るので、坂道を歩いて登るのが新鮮に感じた。たまにはこんな日も良いなぁ。葉桜を眺めて目を細める。桜が散る頃にはコブシの花が街路樹を白く彩る。私はこの白い花と黄緑色の葉とのコントラストが好きだ。あぁ、春の色だななんて感じて。
朝は肌寒いので坂道を歩いていても暑くはないが、昼近くになると暑くなるかもしれないな。そんな事を考えながら学食を目指す。今日は土曜日だからあまり人はいない。
学食の二階にはカフェスペースがある。画材屋と本屋があり、パン屋もある。お弁当派の私はあまり利用しないのだが、このパン屋さんのシュガートーストが密かにお気に入りなのだ。
カウンターに腰掛けて紙コップに入ったブラックコーヒーを置く。バターの香り嗅ぎながら、ジャリジャリしたグラニュー糖がまぶしてあるシュガートーストを頬張った。苦いコーヒーとこの甘さが絶妙にマッチするのだ。幸せを感じながら噛みしめるように食べる。
昨日の夜を思い出すと恥ずかしさが込み上げてくるが、相手が涼先輩で良かったなと思う。あの時、この人なら大丈夫だと直感的に思った。寂しそうな目を見て、私を連れて帰りたいと言う彼に何かしてあげたいと感じた。もちろんそういう事に興味もあったし。
それに彼からは、人を値踏みする様なギラギラした不躾な視線を感じなかったから。
だから後悔も無いし、そもそも古風な貞操観念も持っていないので良かったのだ。遊と葵に言ったら、笑い飛ばされるか、呆れられるかどっちかだろうけど。
食べ終わって講義を受けるため、教室に向かった。外に出て歩いていたら遊に呼び止められて驚く。遊は教職取ってない筈だけど、何でいるんだろうか?
「何でいるの?今日講義ないでしょ?」
「昨日新歓コンパで遅くなったから、友達の家に泊めてもらったの。あと忘れ物取りに来た。」
そう言って鞄をポンポン叩く。どうやったら鞄なんて忘れるんだ。結構呑んでいたのかな?これから家に帰るところだと言う。
「へぇ、デザインもそうだったんだ。うちもそうだったよ。」
私は呑んで無いけどね。
「そうなんだ。」
遊は私をまじまじと見ている。何か付いてるかな?シュガートーストのグラニュー糖?
「…美月煙草の匂いがする。」
ぽつりと遊は呟く。犬か!と内心突っ込んだ。涼先輩、煙草吸うから匂いが移ったみたいだ。まぁ仕方ない。
「…私も友達に泊めてもらったの。」
メッセージアプリの友達だから友達で間違いない筈だ。うん。そう言うことにしておこう。
その時風が強く吹いて目を細めて少し耐える。風が通り過ぎた後、遊は呆然とした目で私を見ていた。何?どうしたの?遊の様子が変だ。
「…その友達って男?」
何故分かる?困惑して黙っていると、遊は私の腕を強く握って歩き出した。痛い。痛いと思いながらも、遊のいつもと違う様子に言葉が詰まって出てこない。遊の背中から、静かな怒りを感じる。あれ?予想していた反応と違う。困惑と戸惑いと不安が私の胸に去来する。
人気のない建物の裏まで連れて来られた。黙ったままの状態がどれぐらい続いただろう。そろそろ手を離してもらえないだろうか?沈黙に耐えきれず私が口を開こうとしたら、遊の静かな声で遮られた。
「…お前何やってんの?」
「何が?」
私は惚ける。気付いたんだろうか?気付いたとしてもなぜ怒っているのか分からない。
「何がって、そんな痕つけて何がは無いだろ?」
納得した。見えたのか。
「あぁ、ちょっと成り行きで。」
私はあははと笑ってみせる。
涼先輩の馬鹿!早速バレたじゃないか!とは心の中だけで思っておく。
「…恋愛に興味なかったんじゃ無いの?」
遊の静かな声からは感情は読み取れなかった。怒ってると思っていたけど、違うのかな?
「受験の時はそうだったけど、ほら興味の対象って変わるし。」
「…付き合ってるの?その男と。」
遊は私のことを見ずに、遠くを見て聞いてくる。私の腕を掴んだままの遊の手に力が入るのが分かった。
「付き合ってないよ。一回だけの約束だったから。」
少し彼の手が緩んだ。
「…何それ。したかっただけって事?」
遊がこっちを見た。腕の拘束がやっと解けてほっとする。私は掴まれていた腕をさすった。
「まぁ、利害の一致というヤツで。いつまでも大事に取っとく必要もないし?」
「…お前、もう少し常識のある奴だと思ってたんだけど?」
溜息をつきながら、遊は自分の額に右手を当てた。いつもの彼に戻ったような気がした。私は緊張感が和らいだことに安堵する。
「常識はあるつもりですが。」
どこがだ?と彼は言う。チクチクと棘は残っているようだけど。
「…ちゃんと付き合ってからにしろよ。悪い男だっているんだから。」
「悪い人じゃ無かったよ?」
むしろ良い人に分類されるタイプだと思う。自分の人を見る目を賞賛したい気分だ。
「好きじゃない奴とはするなよ!」
あ、やっぱり 怒ってる。
「…肝に命じます。」
怖いので、ここは折れなくては。私は上目遣いに遊を見て機嫌を探る。もう良いかな?講義があるので、早く教室に行きたい。
何で浮気がバレた彼女みたいな立場になっているのか分からない。遊には関係ない筈だ。そう、関係ない筈なのに。心配してくれているだけなのか、他に理由があるのか。
一つの可能性が頭に浮かんで来た。いや、まさか。遊に限ってそれは無いだろう。ずっと友達だったんだから。心配してくれているだけだ。そうに決まってる。
「じゃあ、講義始まるから。」
私は強引にその場を離れた。
教室に入って席に着くと溜息が出た。自分の腕にくっきりと、赤く遊の手の跡が付いているのに気付く。モヤモヤしたこの気分は何だ。後悔はしていないのに、悪い事をしたみたいに感じるこのモヤモヤは。逃げる様にあの場所を去った時の気持ちは。
私は、戸惑っているのか。遊が本気で怒ってるところなんて初めて見た。知らない一面を見たから?
「もう、訳わかんない。」
私は机に突っ伏した。遊があんな顔するからだ。静かに怒りながら、捨てられた仔犬みたいな目をして私を見るからだ。
取り敢えず、涼先輩に文句のメッセージを送ってやる。そう決めて私は遊のことを頭から追い出した。