美月
水の音が聞こえる。
ここは芸術系の私立大学で、規模こそ大きくないもののその方面では有名だったりする。私は今年度から、ここに通う事になった洋画学科の一年生だ。昔から絵を描く事が大好きで、それを突き詰めてこんなとこまで来てしまった。何も描かれていない白い紙を見ると心が浮き立つ。小学生の頃など、どうしても紙が近くにない時などは、自分の太ももを爪で引っ掻いて絵を描いていた。先生に呆れられたのを思い出す。
私の家は隣の県なので、家から駅までは原付にのり、電車と地下鉄を乗り継いでスクールバスでここまでやって来る。片道一時間半程かかってしまう。しかし、生来ののんびりした性格のせいもあるかもしれないが、暇潰しに読む本や人間観察などをしていると、そんな時間も苦には感じない。
一限目の講義が終わったのだが、二限目は取っていない。三限目から五限目までは必修科目なので、ポッカリ空いた時間なのだ。天気が良く気候も四月後半の新緑の季節で、気持ちいい。絵でも描こうかと思って歩いて来た。
私は今、池の側にいる。人口の池には丸を二つ重ねて並べた様な舞台らしきものがあり、池の中には噴水がある。なので、常に水の音がしているのだ。池を半分取り囲むように階段があって、樹々も所々に植えられている。そこは学生たちの憩いの場となっていた。近くには孔雀小屋があって孔雀の羽ばたきや、鳴き声も聞こえてくる。何故こんなところに孔雀小屋?と思うのだが、入ったばかりの私には分からない。
池の側近くには講堂や教室が配置されている。山の斜面を利用するように建物が配置されているため、やたら坂道が多い。講義と講義の間の移動が場所が離れていればいるほど、苦行の様に感じる。足腰は鍛えられるかもしれないが。
水の音を聞きながら、階段に座る。スケッチブックを広げて鉛筆を握った。気の赴くままに線を引く。何も考えずに線を引いて繋げて、感覚を研ぎ澄ませていく。心が震える事を探す。その瞬間を。木漏れ日やキラキラ光る水面を見詰めながら綺麗だなと思う。手を止めて、ぼ〜っとしていると男の人が見えた。階段に腰掛けてスマホをいじっている。均整の取れた体格をしていて美しい。クセのある焦げ茶色の髪と整った顔立ちは、見るものを惹きつける。見つけた!綺麗なもの。心が震える。直感と感覚を頼りに生きてきた私にとって、それは何より大切だ。気付けば声をかけていた。
「あのぅ、少しだけ描かせてもらって良いですか?」
彼は驚いた様に目を丸くしている。
「えっと、怪しいものじゃありません。ここの一回生の水川美月って言います。」
そう言って学生証を見せる。お願いしますと頭を下げて見上げると、困った顔をしていた。そりゃ困るよねぇ。
「…何したら良いの?」
彼はそう言って私を見てくれた。自然に顔がほころぶ。
「ありがとうございます。勝手に描くので座っていて頂ければ。」
「ん。分かった。」
意外と簡単に引き受けてくれたものだ。私は鉛筆を持って彼をジッと見つめた。集中して周りの音が聞こえなくなる。サラサラと鉛筆を滑らせる音だけが聞こえた。
移動して今度は正面に回り込む。シンメトリーだなぁ。素晴らしい。そんな感想を抱きながらサラサラと描き続けた。時間にしてみると20分位だろうか。
「ありがとうございました。お綺麗ですね。シンメトリーな人って少ないですから、参考になりました。」
「男にお綺麗はない様な…。いや、良いんですけど。」
照れているのか、視線を逸らしてぽつりと呟く様に彼は言った。
「いやいや、お綺麗ですよ。代わって欲しいぐらいです。」
「代わってどうするんですか?」
不思議そうに聞いてくる。
「毎日鏡で、綺麗なものを見られたら良いじゃないですか。」
「綺麗…ですか。」
「綺麗ですよ。」
綺麗を連呼したからだろうか?更に居心地悪そうに視線を逸らしている。なんか申し訳ないなぁ。
「お引き留めしてすみませんでした。本当にありがとうございました。」
可哀想なのでこっちから立ち去る事にした。頭を下げてその場を後にする。
私は無性に絵が描きたくなった。
数日後、スクールバスの乗り場まで行くと、見知った人物を見かけた。同じ高校出身の友達で、村瀬遊だ。明るい茶色の髪にクリッとした目をしていて、男にしては可愛い顔立ちをしている。彼は私に気付いて、前に並んでいたのに私の後ろにわざわざ並び直す。
こっちまで来なくて良いのに。そう思う気持ちと、来てくれた嬉しさで少し照れる。
「今帰り?」
遊が聞いてきた。
「うん。そっちはどう?デザインの授業って楽しいの?」
「ぼちぼち。まだ始まったばっかだし。そっちは?」
「クロッキーの授業があった。モデルさんの裸体を描くの。」
「へぇ。面白い?」
「瞬間的に形を捉えるって難しいなぁって感じ。5分ごとにポーズ変わるしね。」
「ふ〜ん。じっくりと描くんじゃないんだ。」
「そうなの。女性モデルなんだけど、どっちかと言えば男性モデルが良かったわ。」
「…なんで?」
「普段じっくり見れないでしょ?」
「…見たいんだ。」
「そりゃあねぇ。誰かさんに禁止されてるし。」
「…禁止はしてないだろ?ああいうのはやめとけって話。」
遊は渋い顔をする。彼が言っているのは新歓コンパの時の話だ。
「大丈夫。約束は守るから。もうあんな事はしないって。」
「絶対だからな!どうしても我慢できなくなったら相手になってやるよ。」
ニヤリと遊は笑って、私を見下ろす。
「遊だと食指が動かない。」
私はそっぽ向いて告げる。
「酷くない?俺は食指が動くよ?」
「ははは、本当かなぁ?でも、我慢出来なくても、遊は選ばない。数少ない大切な友達で理解者だからね。」
「…友達じゃなくなるのは嫌?」
「絶対嫌。」
本当は気付いてる。遊が私を好きでいてくれてる事は。言葉の端々で、仕草でそれを感じる。と言っても気付いたのは本当に最近になってからで、ずっと友達だったから戸惑った。彼氏にしたらそれは幸せだろうと思う。でもそれは私が遊を好きならばだ。凄く条件は良いのに、何か違うと思ってしまう。その何かはもっと直感的なモノだ。
だからそれこそ、興味本位で失いたくないのだ。それくらい大切な関係だからこそ。寂しさに耐えかねて遊を求めても、うまくいかない未来しか見えない。きっともう元には戻れないくらいに、傷つけてしまいそうだから。だから私は今日も見ない振りをする。
「この前さぁ、すっごく綺麗な男の人見たよ。」
「綺麗?カッコいいじゃなくて?」
「そう、綺麗なの。」
私はその時、目の端に映った彼の姿を捉えた。
「あんな感じ。」
私は目で遊に促す。
「あー。成る程ねぇ。あれ同じデザイン学科の一回生だよ。名前は三嶋樹。ちなみに結構仲が良かったりする。同じサークルだし。」
「へぇ。そんな名前なんだねぇ。この前聞きそびれたからなぁ。」
「知ってんの?」
遊が怪訝そうな顔をする。
「この前、絵のモデルになってもらった。」
「ヌード?」
「遊は私をそんなに変態認定したいんですか?」
なんか腹が立ってきた。蹴ってやろうか。
「ゴメン、冗談だよ?」
私の不機嫌を感じ取ったのか、遊が慌てて言う。
「さすがの美月も、そこまで非常識じゃないって分かってるし。」
「人を非常識だと思うのは何でかなぁ?」
「あー、前科?」
遊は顎をポリポリ掻きながら言う。
「…たった一度の失敗で、信頼が地の底に落ちるのを痛感してる。」
私は大袈裟に胸を押さえて屈み込んだ。
「失敗だったって自覚はあるんだね。」
私を見下ろして遊は溜息をつく。実は失敗だとは思っていないのだが、遊の手前そう言っておく。また、怒られては堪らない。
「…ちゃんとある。」
私は屈んだ状態から遊を見上げる。
「あー、樹さ、彼女いるから手ぇ出すなよ?」
「ちっ、彼女持ちか、残念。」
スカートを払って、立ち上がる。
「舌打ちするな。本当にやめとけよ?」
「私だって常識ぐらいありますー。信用無いなぁ、もう。」
私はわかりやすく頬を膨らませてみせる。
「そうそう、地の底だからね。」
くっ、いつまで言われるんだろう。私は溜息をついた。
その時、視線を感じてその方向を見ると、三嶋樹がこっちを見ていた。どうやら、私達に気付いた様だ。私は会釈をする。 彼も会釈を返してきた。
「絶対だぞ。」
遊の釘を刺すような言葉に、私はまた溜息をついた。
「…わかってる。」