実験4
―これは、ちょっと
千穂は内心冷や冷やだった。授業中、注意がどうしても廊下に行ってしまう。廊下と教室を区切る窓ガラスに、たくさんの妖たちが引っ付いている。こちらを覗き込んでいるのだ。
―確かに、お願いしたけど
正直やりすぎだと千穂は思った。数が多すぎる。現代では見えない人間が多いのをいいことに昼間から大所帯で出歩いているのだ。
―気になって集中できない。
ちらと隣の轟を見る。彼もどこか強張った表情をしているように見える。教科書はもう購入したようで机はつけていない。
―見えてるのかな
千穂は逆隣の武尊も確認した。当然寝ていた。
―武尊がいなかったら教室に入り込んできてたんだろうな
そしてもっと集中できなかったに違いない。妖に反応して変な目で見られたかもしれない。それを想像すると寒気がした。
―生きる結界だな
その表現に満足して、千穂はうんと一つ頷いた。おとなしくノートを取り始める。しかし、視線を感じて集中力は続かなかった。
―これはなんだ?
武尊は授業終了後目を覚ますと、その光景に目を見張った。たくさんの妖が窓にべったり張り付いていたのだ。記憶を漁って、妖に轟が見える人間か見てほしいと頼んだことを思い出す。
―なんで廊下からなんだ?
そう思って、また自分が言われた言葉を思い出す。
―俺の霊力のせいか
武尊に弱い妖は近づけないのだ。その体からあふれ出る力にあてられて死んでしまうのだと言う。武尊は自分の手の平をじっと見つめた。
―力がこぼれてるとか、全然分からないんだよな
「何してるんだ?」
大島がやってきてそう尋ねた。武尊はため息を一つつくと手を下ろした。
「何にもないよ」
「そうか?」
ならいいけど、と大島は武尊の前の席に座った。
「でさ、次の英語の小テストだけどさ」
「山は張らないよ」
「頼むよ~」
大島が情けない声を上げる。
「自信がないなら、今のうちに教科書でもノートでも見直せばいいんだよ」
佐々木が武尊の代わりにそう言った。その言葉に、ちぇーと大島は席に戻って行った。その会話をぼうっと見ていた千穂ははっと現実に帰ってくる。
「小テスト!」
千穂は慌てて教科書を引っ張り出す。せめて単語ぐらいは覚えておこうと机の上に教科書を広げる。隣からくすくすと笑い声が聞こえた。その声は武尊の物でも武尊と一緒にいる佐々木の物でもなかった。千穂はつい声のした方に顔を向けた。
「あ、ごめんね」
轟は謝った。
「一生懸命なところが可愛くて」
カッと顔が熱くなるのが分かった。優実が言い聞かせるように可愛いと繰り返していたが、男子に可愛いと言われたことはなかった。千穂はパッと視線を教科書に戻した。
―なんか恥ずかしい
俯くが、視界にあるはずの教科書は読めていなかった。
「千穂は可愛いんじゃなくて小さいんだよ」
その声は今度こそ武尊の物だった。千穂は顔を上げると武尊を睨みつけた。
「小さくないもん!」
「千穂は小さいよ」
千穂はむーと唸りながらむくれる。そして携帯を取り出した。
「いいもん!陸さんに武尊が意地悪だってメールするもん」
「アドレス知ってるの?」
「武尊が意地悪してきたらいつでも連絡してねってくれた」
登録したからアドレスの書かれた紙は適切に処分した。
武尊ががたっと立ち上がる。千穂は丸くなって携帯をいじり始めた。
「待った!」
慌てる武尊が面白くて、千穂は絶対にメールを送りつけてやろうと決める。
「ちょっと待った!」
武尊が手を伸ばすが、さすがに丸まられたら下から手を入れるわけにもいかずたたらを踏む。武尊はたまらず叫んだ。
「分かった!謝るから!ごめん!」
「もう言わない?」
「言わない!」
「じゃあ、今回は許してあげる」
千穂はどこか自慢げにそう言った。千穂が携帯をしまったから、武尊も自分の席に戻った。
「陸さんって誰?」
佐々木が興味津々と言った体で話しかけてくる。千穂は答えた。
「武尊のお母さん」
「いきなりお母さんと仲良くなったの?」
「うん。いい人だったよ」
「そうなんだ」
佐々木がへーと言いながら前のめりになった体を元に戻した。武尊が苦々しげに言う。
「いい人とかじゃないよ。ただの子供だよ」
「すごく若かったけど、子供ではないと思うな」
千穂は陸の姿を思い出す。長身の美人だった。かっこいいと素直に思う。
「たくさん心配してくれたし、でも見逃してくれたし」
「てきとうなだけだと思うけどな」
「見逃すって、何してたの?」
「夜遊びをちょっとね」
「ふーん」
佐々木は釈然としない様子だったがそれ以上追及するのは止めたようだ。
「高野原さん?」
おとなしめの声が掛かる。千穂は後ろを振り向いた。困った顔の轟がいた。そんな表情をされるいわれがなかった千穂は怪訝そうに轟を見た。轟が千穂の机の上の教科書を指す。
「小テスト、いいの?」
「良くない!」
そう現実に戻ってきたのとチャイムが鳴ったのは同時。それに合わせて本間が入ってくる。千穂は叫んだ。
「武尊の馬鹿ー!!」
「あれは傑作」
けたけたと優実が笑った。
「二階堂に馬鹿って言える人間は希少だよ」
佐々木も褒めてるのか馬鹿にしているのか分からないことを言う。
「だいぶ千穂もクラスに慣れて来たんだなって安心したわ」
あかりもふわふわと笑っている。
「うう」
千穂は縮こまる。
英語の始まる時間に千穂は武尊に馬鹿と叫んでしまった。その叫びは教室中に響き、一瞬空気が固まった。それにカッと赤くなり俯いたのだった。
「そもそも千穂に話しかけて邪魔してたのは轟の方じゃん」
武尊は心外だとでも言うようにポッキーを口元に運ぶ。
「あれは、会話に入らなくてもよかったと思うけどね」
佐々木が助け舟なのかそんなことを言う。
「そう?あいつ話長そう」
「偏見だよ」
武尊の言葉に、佐々木は冷静に返す。
―本当に嫌いなんだな
千穂は意外だと武尊を見る。
―偏見なさそうなのに
人である以上偏見はあるものだろうが、千穂はそう思った。
―なんか調子悪そう
千穂は武尊から視線を外すと紙パックからストローをはがして刺した。ちゅーっとオレンジジュースを飲む。
「それで、小テストはどうだったの?」
優実がにやにやと笑う。千穂はうーと唸った。
「単語が二個しか書けなかった」
「私四つ!」
勝ったと優実は拳を上に突きあげたが、その頭をあかりがポンと叩く。
「褒められる点数じゃないわよ」
小テストは単語六つと短文の筆記が二つだった。当然英作文は捨てる。ここからは単語の勝負だった。しかし、その勝負でさえ千穂は勝つことができなかった。
「単語くらい自分で覚えてよね」
テスト前に大量に覚えようとしたって無理なんだからと、武尊はもう次のテストの心配をしていた。
「テスト前は頼られるからねー」
佐々木が他人事だという口調でのんびりと言う。
「他人事だと思って」
「実際他人事だしなー」
「なんか腹立つ」
「そう?」
佐々木は涼しい顔だった。
そんなこんなしていると教室の入り口辺りが騒がしくなる。轟が戻ってきたのだ。
「なんか、武尊の時より人が多い気がするよね」
優実が学食組の集団を目を細めて見つめる。千穂はぽろっと口にする。
「だって、武尊怖いもん」
「千穂は俺が怖いの?」
「へ?」
千穂は武尊の方を向く。その顔には心外だと書いてあった。
「だって、轟の方がよく笑うし」
「愛想は良いよね」
優実も頷く。
「そう!いつも笑ってる!」
「いつも笑ってるなんて胡散臭すぎでしょ」
「二階堂が正直すぎるんだよ」
佐々木がもらうねと机の上に広げてあるポテトチップスに手を伸ばす。千穂も食べようと思って手を伸ばした時
「千穂!」
武尊に鋭く名を呼ばれる。びくっと肩を揺らしながら武尊を見る。視線で見ろと訴えられる。千穂は武尊の視線を追うと轟を視界に入れた。ちょうど教室の扉をくぐろうとしているところだった。その上に、小鬼が二匹ほどスタンバっていた。二匹とも面白そうに笑っている。それが、一匹轟の頭に飛び乗った。
「うわ」
轟は突然頭が重くなりバランスを崩す。もう一匹も肩に飛び移り顔を覗き込んだ。轟は驚いた顔をした後、肩を払って小鬼を落とす。一匹落ちれば、頭に乗っていた小鬼も後を追って床に下りた。そして教室を去って行く。
「おいおい、大丈夫かよ」
そんな言葉が轟にかかる。轟は怪訝な顔をしていたが、すぐに笑顔に戻る。
「ごめんごめん、なんかつまずいちゃって」
「気を付けなよー」
「うん、そうする」
そう答えた轟と、千穂と武尊は目が合った。轟は一瞬しまったという顔をしたがすぐに笑顔に切り替えると首を傾げて見せた。それにじっと轟を見ていたことに気付いた二人は視線を思いっきりずらす。
「なにやってんだ?お前ら」
そんな二人に、大島がどうしたと声をかける。
「やっぱり胡散臭い笑顔だなと思って」
「人気者だなと思って」
二人は声をそろえ全く違う言葉を口にした。大島は呆れたと書いてある顔で言った。
「やっぱ、仲いいよな、お前ら」
それだけ言うと大島もポテトチップスに手を伸ばすのだった。




