体育祭5
壱華は観客席の一番高い通路に立ち、目を閉じていた。感覚で運動場と観客席と外までを把握する。
―どうにかいけそう
美緒に結界を張ることを提案された壱華はそれを実行に移そうとしていた。
―今更かもだけど
もう遠くに行ってしまったかもしれないという思いが胸中を渦巻く。それはひやりとした感触を背中に走らせた。ぎゅっと両手を握る。深呼吸をして、体育服のズボンから札を取り出した。それを目の前にあるフェンスに張り付ける。そこを中心に半球状の結界が広がって行った。その結界が時折何かにぶつかる。壱華はそれが何なのか気づき、息を飲んだ。
「結界が張られてるっ!?」
「どういうこと?」
一緒に上がってきていた武尊がその叫びを聞きつける。
「会場の中にいくつか結界が張ってあるみたいなの」
壱華はもう一度目を閉じると感覚を研ぎ澄ます。
「ひとつは外のグラウンドにあるわ。あとは―中の部屋にいくつも!」
「じゃあ、どれが本命の結界かはすぐに分からないんだ?」
「そうなの。おとりの結界が多すぎるし複雑に張ってあるわ」
「そうなんだ」
ぎゅっと武尊は唇を噛んだ。結界の気配は感じ取れなかった。元よりそういうものは感じない質ではあるらしい。練習すればいけるかもしれないが。
「おとりまであるとか」
やるなと呟く。
「気配も最小で気づくのに遅れたわ」
しまったと今度は壱華が唇を噛んだ。
「とりあえず他のメンバーにも伝えよう」
「そうね」
「大島たちにはもうテントに戻ってもらって、俺達で探そう」
「分かったわ」
壱華は急いで携帯を取り出すと啓太の携帯に電話をかける。武尊も未海の携帯に発信した。
「あ、未海。未海って、結界の気配とか分かる?」
『私は怪しいけど、お母さんなら分かるかもです』
「じゃあ、結界がいくつも張ってあるみたいだから、手あたり次第そこを探してほしいんだ」
『分かりました』
情報共有はすぐに終わった。武尊は壱華について行こうと電話を切る。壱華も啓太への連絡が終わったようだった。
「そう言えば、美緒さんって結界壊せるの?」
「大丈夫だと思うけど」
壱華はうーんと考えたがすぐにやめた。
「とりあえず急ぎましょう」
「そうだね」
二人は建物の内部へと階段を駆け下りて行った。
「ここにもいない」
ドアを蹴破った武尊は舌打ちをした。
―これで一体いくつ目だ?
いくつの結界を壊したのか、武尊はもう数えてはいなかった。壱華も数えるのはあきらめているだろう。結界があると認識さえすれば、武尊はその結界を壊せるようだった。壱華が驚いた顔をしていたが、それがどれほど人並外れているのか武尊自身には分からなかった。
「次、行きましょう」
壱華が武尊を次の部屋に誘う。
「隣にも張ってあるの?」
「ええ」
武尊はめんどくさくなってきて顔をしかめた。それに壱華が苦笑する。
「悪いけど、武尊が壊した方が速いから」
「それは全然かまわないけど」
そう言いながら隣の部屋の扉を開ける。先ほどは苛立ちで蹴破ったが、武尊がドアノブを回して開けば結界は壊れるのだ。
―これも儀式みたいなもんだって言ってたっけ
特別なことなのだと千穂は言っていた。扉を開くとはそれだけ特別なのだと。
「いない―」
武尊はぽつりとこぼす。頭痛がするようだと武尊は思った。
―あいつ、一体いくつの結界を張ったんだ?
結界術に秀でているとは聞いていたがこれがそういうことかと唇と噛む。それよりも
―あいつは自分を落ちこぼれだと言っていた
なら、優秀な弟やらはどれほどの結界を操るのか気にならないでもない。
「今度はこっちをお願い」
壱華から声を掛けられ、武尊は思考から帰ってくる。はっと振り返り、壱華の元へ駆けた。
「せーの!」
兄弟は二人で扉に体当たりしていた。ぴきりと音がする。
「あともう少しっ!」
啓太の声に、樹ももう一度体をぶつける。ばんと音がして扉が開いた。
「ここもダメか」
啓太が額の汗をぬぐう。二人ともヘロヘロだった。
「―武尊は扉を開けるだけで結界を壊せるって言ってた」
「―それはやばいな」
「うん」
樹は力なく頷いた。それを啓太は見下ろす。
―俺だって疲れるんだから、樹はもっとだよな
まだ小さな弟を見つめる。しかし、手伝ってもらった方が速いのも事実なのだ。
―どうすっかな
召喚獣は目立ちすぎるし、小太刀で扉を壊すとあとから修理が必要になる。啓太は他に方法がないものかと考えるが、思いつかない。
―壱華だったら自分の力を札を媒介にして注ぎ込むんだよな
そして壊す。
―まあ、今は武尊が壊してるみたいだけどな
だったら壱華はこっちに欲しいと思ったが、武尊は結界の気配を感じ取れないようだった。
―漆の時は漆の力の気配を感じ取ったみたいだったな
―あとは状況
―ちょっと、練習してもらうかな
自力で感知してもらった方がありがたい。
「兄ちゃん、次行こう」
「そうだな」
啓太は樹の頭をポンと撫でると先陣を切って部屋を出た。
美緒は集中して結界に手をかざしていた。じんわりと自分の力を注ぎ込む。そこから溶かすようなイメージで注ぎ込む。しゅるりと、音もなく結界は消えた。
「ふう」
美緒は小さくため息を吐く。それに結界が壊れたのだと分かった未海は率先して扉を開ける。
「あ!」
こら!と美緒は未海を止めることができない。
―危ないかもしれないのに
しかし、疲れてしまって声がなかなか出てこない。
「お姉ちゃん、ここにもいないみたい」
さっと部屋の中を見渡した未海が振り返る。
「―そう」
美緒はまたため息をこぼす。
「大丈夫?」
未海が心配そうに美緒の顔を覗き込む。未海は見えるのだが、見えるだけの力しかない。結界を感じ取ったり壊したりするのは難しい。
結界は会場の観客席の中の部屋に集中していた。中の用具庫だったり、控室だったり、更衣室だったりに所狭しと張ってある。その中の一つが正解なわけだが、それになかなかたどり着けない。未海は携帯を覗き込む。誰からも見つかったという連絡は入っていなかった。
―お姉ちゃん
どうか無事でいてくれと、未海は祈るようにぎゅっと目を閉じたのだった。
「戻ってこないなー」
大島はぽつりとつぶやいた。
「そろそろ代打出さないと不戦敗だね」
佐々木が言いにくそうに述べる。
「そうだねーどうしようか」
優実も疲れたというふうにテントの影に座り込んでいる。ふと視線を外せば、担任の斎藤が何やら話している。代打を探しているのかもしれなかった。
「この際誰でもいいから」
そんな言葉が聞こえてくる。クラスメイト達の戸惑った空気が伝わってくる。優実はちらと大島を見上げた。
―そういや、始めは武尊と二人で出ようとか言ってたっけ
そんなことを思い出し、また斉藤に視線を移す。
―聞くだけ聞いてみるか
そう思い、優実は立ち上がった。