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0.取引

 不思議な男だった。彼はそう思った。畳の上にごろんと転がる。

『銀の器が欲しくはありませんか』

そう言っていた。

「欲しくないと言えば嘘になる」

けれど

「手に入れられるほど僕は強くない」

しかし

「だから、欲しい」

堂々巡りだ。なにをどう考えたって、自分は銀の器を手に入れることができるはずがないのだ。それでも、あの男が言ってくるから、もしかしたら可能性があるのかもしれないと思ってしまう。

「うー」

彼は唸った。ごろりと寝返りを打ってうつぶせになる。長い灰色の髪がさらりと背からこぼれた。

「守り手を振り切れるかな」

守り手は教えてもらったところによると三人、これに金色の使い手が一人。

「金色の使い手ってどれくらい強いんだろう」

一人だけ格が違うことは知っている。この世界にいれば、銀の器も黄金の剣も金色の使い手も耳にする言葉だ。多少認識に差はあれど、そこそこに知っているものだ。

「行ってみないと分からないかな~」

うーんと伸びながら考える。

「挑戦は一度だけ」

男の言っていた条件を繰り返す。

「もし失敗したら―」

それでも自分にとっては悪くない条件であったように思う。

「もしかしたら隙を突けるかもしれないし?」

条件は一から十まで守らなければいけないなんてないはずだ。あっちだってそのつもりだろう。

だったら、

「行ってみるのも悪くない」

すっと目を細めた。


「あれ?」

 どさりと床に荷物を落としながら千穂は首を傾げた。

「なんで?」

六月頭に妖の襲撃を受けて傷だらけになっていた壁がきれいになっていた。千穂はぽてぽてと歩み寄り壁に触れてみる。壁の感触は滑らかだった。どこにも傷一つない。

「千穂ー、この野菜も武尊にもらってもらう?」

自分の部屋に荷物を置き終わった壱華が千穂の部屋に顔を出す。そして、壁際に立っている千穂を見つける。自然ときれいな壁に気が付く。

「きれいになってる?」

「そうなの」

壱華も近づき壁に触れてみる。

「きれいに見えるだけの術でもないみたいだし」

本当に誰かが修理してくれたのね。と続ける。

「誰かな」

「教頭先生とか?」

あとは、武尊のお父様よね、と壱華はつぶやく。しばらく考えるように口元に手を当てていたが、思考するのをやめたのか壱華は手を下ろした。

「まあ、気にしなくていいんじゃないかしら」

きっと事情を知ってる人が直してくれたのよ、と壱華は彼女にしてみれば能天気な判断を下す。千穂も千穂で壱華がそう言うならそれでいいのだろうとこれ以上考えるのは止めた。

「で、野菜なんだけどね」

壱華は話を元に戻す。―野菜はありがたく武尊が引き取ってくれた。


「なんであんな出来損ない受け入れたんですか?」

 黒い羽をはやしてふわふわと浮く少女が男に話しかける。そこは夜の学校の廊下。一日の最後の見回りというやつだ。

貴昭たかあきの依頼だからね」

「またあいつですか?」

―この前、傷だらけになっていた壁の修理もしたばっかりなのに、また仕事を振られたの?

少女は嫌そうに顔をしかめた。それに男はくすくすと笑う。

うるしは貴昭が嫌いだねー」

「嫌いですよ!あいつがご主人様をここに縛り付けた張本人なんですから!」

「私は縛り付けられてなどいないのだけれどね」

しょうがないなと男は笑う。その隣で漆は不機嫌そうだ。

「ここに縛り付けただけではなく、ああしろこうしろとうるさい」

「この仕事もなかなか面白いと思うけれどね」

形式上持っている懐中電灯を揺らす。ゆらゆらと光が揺れた。

「そうですか?」

「ああ、面白いよ。人間は面白い」

くつくつと男は笑う。

「こんな箱に子供を押し込んで同じことを教えるなんて、馬鹿げていると思わないかい」

「ご主人様がそう言うなら、馬鹿げているんじゃないですか?」

「ダメだよ漆、自分で考えることを放棄してはいけない」

「はい」

そう言われ、漆は何やら考え込み始める。うーんと腕を組みながら唸る。

「確かに、この時代術者も少ないですし、そういう人間を教育する場所ではないみたいですね。術者になれる素質のある人間にその教育ではなく別のものを受けさせるのは馬鹿だと思いますよ」

「やればできるじゃないか」

よしよしと頭を撫でると、漆は嬉しそうに目を閉じた。

「漆、彼を食べようとしてはダメだよ」

「・・・・・・分かってます」

無言は図星を意味する。出来損ないとはいえ、彼はこの時代には珍しい術者だ。霊能力を持っている。そんな人間は、漆には美味しそうに見えるのだ。

「彼は銀の器を奪いに来るのだから」

下手に関わると巻き込まれてしまうよ。そう言われ、漆は身震いした。あの金色の剣が脳裏に浮かぶ。それを振るう金髪の少年も、その少年の力強い瞳も。銀の器に何かあればただじゃすまされないのはよく分かっている。あの少年に関わりたくなどない。恐ろしいったらありゃしないのだ。

「いい子だ」

睨まれた時のことを思い出して震えている漆の頭を男は優しく撫でてやった。


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