陛下、人って、首を絞められるとあんなにも苦しいのですね。
その日、王はかけがえのない者を失った。
彼が誰よりも信頼し、大切で、尊かったそのひとは、敵の攻撃から王を守ったのだった。
見たこともないくらい穏やかに、うつくしく、艶やかに微笑み、一言、王の名を呼んで、満ち足りた顔のまま、二度と動かなかった。気難しかったそのひとは、憑き物が落ちたように穏やかな顔をしていた。
その時、王はようやく気付いたのだ。
言葉にできぬほどの、その尊さに。
王の護衛であったそのひとが彼の名を呼んだのは、その一度きり。
生涯で、たったひとこと。
しかし、それはあまりにも尊い音だった。呪いのように、耳の奥にこびりつき、王の時間を一息で止めてしまったのだ。
それからというもの。
王は冷徹王などと呼ばれるようになっていた。氷のように、心が硬質な王。
そのひとを失い、動かなくなった心に、何の疑問も抱かないまま。
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目の前で平伏す妻となる女性を前に、何の感動も無い私の心は、とうの昔に錆び付いてしまったのかもしれない。
"あのひと"が息を止めたその時に。
「私は貴女にとって誠実とは言いがたいだろう」
興味がないのだから、仕方ない。
けれどぞんざいに扱うつもりもないから、安心しろ。
意味を瞳に込めて、彼女を見下ろす。
彼女はひれ伏していた面をあげると、まっすぐに視線を合わせた。肝の座った女だ、と思った。
この頃は直属の臣下さえ、顔を上げもしないというのに。
「陛下。お噂は耳にしております。…お側に置いてもらえればよいのです」
それに、と彼女は微笑んだ。
「貴方様にいらないと言われたらわたくし、行き場が無くなってしまいます」
幼い少女の様に無邪気に笑うその姿に、彼女は良い人間なのだな、と感じた。
ほんの少し、指先が冷たくなる様な震えを感じた。内心、自嘲する。こんな感情が残っているんだな。
「愛してやれないこと、すまないと思っている」
「まあ、いいえ、いいえ、王様。ふふ、血が通っていない冷徹王、なんてとんだ噂話ですわね。あなた様はとても、あたたかい。なぜかしら。何故かそう思うのです。
ーーーあなた様にすら、わからなくとも」
慈しむ様に私を見た彼女は、目を伏せて胸の上に手を重ねあわせる。
「…それにわたくし、一途な方は好きですの」
「陛下、どうかわたくしの、友人になってくださいませ」
心を潰さずとも良いのです。
あなた様のその気持ちは、何よりも尊いものなのですから。
そう囁いた彼女を前に、知らず詰めていた息を吐きだした。
自分でも驚いた。
息を、詰めていた。
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妃が私の隣に立って数年。
謁見の間で、ある男を見下ろしながら彼女が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なぜ、貴方がここにいるのかしら」
男は国王夫妻を前に、不敵に笑った。
「国を出て参りました。姫様が居ないと寂しくて。ーー嗚呼、ちゃんとこちらの採用試験はお受けしましたよ。正規の手順を踏んでこの度騎士となりましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
「はあ、お父様は何をしていらっしゃるのかしら。あれ程国から出さないように言っておいたのに」
「不自然に各方面から邪魔が入ると思ったら、やはり貴女様の仕業でしたか」
「…胃が痛くなるわ」
国王夫妻を前に飄々と言ってのけたその騎士に呆れたそぶりを見せながらも、彼女の言葉の中には言葉にしがたい親しみが籠る。
何かが引っかかる思いで彼女の肩をそっと抱き寄せる。
抱き寄せてハッとした。
その小さくて細い体が、気づかぬ程に微かに、けれどたしかに震えていたのだ。
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まるであの時の再現だった。
予期せぬ残酷な事態というのは、何故こんなにもあっけないのか。
何故未然に防ぐことができないのか。
自分の不甲斐なさに舌を噛み切りたくなる。
「…陛下、」
悪夢でも見ているようだ。
私の妃は、あのひとと同じように私を庇い、そして倒れた。
銃で撃たれた胸の傷から、止めどなく血が溢れ出す。彼女が顔をしかめて倒れ込む、それを咄嗟に抱え込む。腕の中の軽さと脆さに恐ろしくなる。こんなもの、一瞬で壊れてしまうのに!
視界が黒く染まり、酷い吐き気を感じる。足下から崩れるかのような絶望感。
不意に意識の何処かが弾けた。血が沸き立つ程の不快感。俺は、また、失うのか!
怒り。
怒り。
怒り。
華奢なその体を支えつつ、ひくつく喉から思い切り叫んだ。
「…医師を。不届き者を、捉えよ!」
すぐ脇にいた騎士が、風のように敵めがけて飛んでいく。
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妃の部屋に入った時、目に入ってきたものを見て息を止めた。
寝台に横たわる妃と、妃に馬乗りになって首を絞める、騎士。
二人は互いに見つめあっており、そこには二人の世界があった。ふいに騎士がこちらを向く。
思わず背筋が凍るような、殺気をこめた視線。後退りそうになる足を必死に押しとどめ、唸るように声を絞り出した。
「…何をしている」
そこでようやく手を離した騎士は、わざとらしいくらい優雅な仕草で、音も立てずにするりと寝台から降りて一礼する。
妃が喉を抑えて激しく咳き込み出した。
「…これはこれは陛下。お見苦しいところをお見せしまして、申し訳ありません。少々気が立っておりまして」
そのまま去っていこうとする騎士を追おうとすれば、妃に止められた。未だ喉を抑えて咳き込む彼女を放っておくこともできず、慌てて駆け寄る。暫く背中を撫でていると、大分落ち着いてきたらしく、微かに息を吐いた。
私は彼女を刺激しないよう、出来うる限り柔らかい声を出した。華奢な背中に手を回し、ゆっくりと撫でる。
彼女はふ、と笑うと軽く息を吐きだした。咳き込んで涙ぐむ瞳を向けられる。ひた向きで強い感情が込められた色の瞳が、私の瞳と絡み合ってゆるりと解けた。
目元だけで笑った彼女の顔を見て、あたたかいものを感じた。ただひたすらに清らかで、暖かなものを飲み込んで心の臓を満たしていく様な、不思議な絆。
その時初めて、私は彼女を家族なのだと感じた。
家族になっていたのだ。
守らねば。
私が、守らなければならない。
「何があった?」
「なにも」
「………」
間髪いれずに返ってきた彼女の言葉に、思わず黙り込んだ。
それに彼女は苦笑し、掠れた声を絞りだす。それは本当に微かな声だったが、空気に混ざらずよく通る、静かで印象的な声だった。
「嘘をついているわけではないのです。ほんとうに、なにも…ただ、わたしがあの人を深く傷つけただけで」
苦い思いが胸をつく。
「…私など、庇うからだ。馬鹿」
おまえは、私が守るべきものなのに。
「あら、馬鹿とはひどい。陛下は最近少し、口が悪いですわ」
「元からだ。諦めろ」
私に馬鹿と言われて楽しそうに笑う彼女を眺めつつも、思い出すのは騎士のあの目だ。
気付かぬはずがない。
思えば最初からそうだったではないか。騎士は、彼女を暗い目で見ていたではないか。
激情。
愛しいのに、制御の利かぬ、魂さえ焼き尽くす様なーーー。
「ふ、ふふふ。あは、あはは。やだわ、とても痛い。陛下、人って、首を絞められるとあんなにも苦しいのですね」
彼女が突然笑い出す。
笑いながら、泣いていた。次から次から出てくる涙は、とめどなく。
「……辛いか?」
怖くなった。彼女がこのまま、壊れていきそうな気がして。溶けてしまいそうなくらい儚いのに、私では繋ぎ止める事もできない。幽霊の手にすがりつく様な心地がした。背筋がスッとして、心もとない。掴めないのだ。体がここにあっても、その中身が今ここにない。
彼女は泣きながら、うっとりと頬を染めて笑った。
「いいえ陛下。…嬉しいのです。幸せなのです。とても、とても。
あの人に首を絞められた時、時が止まって欲しいと、神に願いました。おかしいでしょう?
わたし、妃失格ね」
わたしの妃が、とても幸せそうに笑う。
そっと瞼を閉じた。
どいつもこいつも、なぜこんなにも不器用に生きているのだろう。
歯車が合わない。それでも大切なものは唯一絶対的でかけがえが無く、だからこそ苦しみ、憧れ、しかしやはり、巡り逢わなければよかったとは、到底思えないのだ。
「それでも、私には貴女が必要だ」
彼女が穏やかに笑う。
しあわせな夢から覚めて息子を見つけた時の様な、ただただ、やさしくて柔らかい笑みだった。
私の願望かもしれない。
けれどその顔は、誇らしげに見えた。
Fin.