森人 Ⅲ
「ブアッハッハッハッハッハ!」
矢鱈豪快な笑い声が土間に響く。その声の主はシャガという壮年の男だ。シャガはミアテの夫で、フヨウとヨヨウの父親だ。豪快な笑い声に相応しい巨躯は今だに肩を震わせている。
「うるさいよ、アンタ。……ごめんねレウ、騒がしくって」
「いえ、そんなことは。それにご一緒させていただいている身ですし」
レウはシャガ家の囲炉裏の前に腰を下していた。迷惑をかけたお詫びも兼ねて、という形でミアテから夕食の招待を受けたのだ。このようにして食事を取るのは珍しいことではなく、レウの一人暮らしを気に掛けたミアテから招待を受けることが頻繁にある。囲炉裏の火が揺れるほどのシャガの笑い声にも慣れたものだった。
シャガが爆笑している理由はレウが今日の一連の顛末をシャガに話したからだ。場のつなぎ程度の話題のつもりが笑い上戸のファガンの笑いのツボに嵌ったらしい。笑いの種にされたエルマとイルマは膨れっ面でシャガを睨んでいる。今日の夕食で肉抜きを命じられた二人は未だに恨めしい顔つきだが、ミアテにこってりと絞られた手前、文句を口に出すことはしなかった。
「うん、それじゃそろそろ良いかな」
自在鉤に吊り下げられた囲炉裏鍋の蓋を取り、ミアテが中を確認すると丁度いい塩梅らしく、食事が始まる。今日取れたばかりの猪の肉を使った味噌鍋に、麦子を練った団子が今日の献立だ。いの一番に鍋のお玉を取ったのは双子の片割れ、エルマだ。エルマはさっそく大量の肉を自分の皿に乗せようとし、
「……エルマ?」
「じょ、冗談だって。冗談」
ミアテの鋭い眼光に怯んだエルマは肉の代わりに根野菜を掬い、自分の皿に入れた。一歩遅れたイルマにもミアテは視線で牽制を入れ、それを見たシャガはくつくつと忍び笑いする。ファガンの家では総じて良く見られる光景だ。ともあれ、こうして食事が始まった。
「―――で、砂糖樹を見つけたわけか」
夕食の間に時折交わされる会話の内容はエルマとイルマが見つけたという砂糖樹に関してだった。二人の探検と称した徘徊行動が実を結ぶのは珍しく、二人は胸をはり、それを見咎めたミアテに睨まれて縮こまっていた。悪ガキの二人も母親には頭が上がらないのだ。
「午前中といっても黒獣が出ないとは限らないのよ。大体ちょっと方向魔術が使えるくらいなのに、なんでアンタ等はホイホイ圏外に出るの」
怒りがぶり返してきたのか、再び説教を始めるミアテにファガンはまあまあ、と窘めて止めた。
「しっかし砂糖かぁ。三月ほど前に舐めたきりだな」
「一般にはほとんど出回りませんからね。祭事の時に少し戴く程度ですし」
そもそも砂糖樹はやや冷淡な気候で育ちやすい落葉樹だ。森人の里は冬の季節でもあまり冷えこまない気候のため、砂糖は貴重品だ。農耕役達が実験がてら何本か栽培している程度で、夏場に零下魔術を使わなければならないこともあり、収穫効率は非常に悪い。森人の間では嗜好品という扱いだ。王都の方では輸入された砂糖がそれなりに出回っているらしいが、行商人が商いのために立ち寄る程度でしかない森人の里では無縁に近い。
甘味をさして好まないシャガとレウの反応は薄いが、エルマとイルマはあぐらを組みながら器用に地団太を踏み、すぐにミアテに鍋の蓋で頭を叩かれた。
「砂糖食いたーい!」
「食いたーい!」
「そんなに食いたいなら取ってくればいいだろう?」
「やったー!」
「言質取った!」
エルマとイルマのデモ行為に対し、あっさり許しを出すシャガ。ミアテが口を開こうとするが、シャガがそれを手で制す。
「別にかまわんだろう」
「構うにきまってるじゃないか。アンタ、森人の誓約の最初の一条をド忘れしたんじゃないだろうね」
「『互助と共助をもって日々の生活を営むこと』だろ。分かってるさ」
「ならアタシの言い分が分かるだろう。アタシ達が砂糖樹を独占するってことは誓約を破るってことだよ?」
森人の誓約とはその名の通り、森人として生きる上で順守しなければならない誓約のことだ。七カ条からなるそれは実際の法効果を持つわけではないが、決して形骸化されているものではない。森人の生活は基本的に完全分業制で、得た物資は一度村の中央に運ばれた後、物々交換、貨幣による取引を経て再分配される。
例えば狩人役であるレウが狩りで獲物を取ったからといって、その全てを自分のものにできるわけではない。まずは村の中央に基礎分量の肉や毛皮を収めなければならないのだ。その上で超過分があれば自分の好きなように処分できる。
森人にとって互助と共助とは生活の根幹で、それを犯すということは森の民にとって致命的な失態だ。森人として、という前提をつけるならばミアテの言い分は至極正しい。
「なんとか日陰で生き残っているような野生化した虚弱な砂糖樹だぞ。大した量の蜜は出ないだろうし、状態によっちゃ甘いかどうかも分からん代物だ。そんなもん中央に持って行ったって突っ返されるだけだぞ」
農耕役が栽培している数十本の砂糖樹を纏めても大した量の砂糖は取れないのだ。野生化した砂糖樹からは取れる量など水呑み一杯に満たないだろう。
「そりゃ、そうかもしれないけどさ」
シャガの意見にも納得できる部分があったのか、ミアテの言葉が尻すぼみになる。ミアテの意識が自分達から離れたのを感じ取ったエルマとイルマは援護射撃するように無言でレウに催促を求めてきた。これを無視しても別にいいのだが、後後面倒な絡まれ方をされるだろうという予感があったため、仕方なしにレウはエルマとイルマの擁護に回ることにした。
「取った砂糖を中央に持って行って報告すれば問題ないでしょう」
勝ち目のない戦いと悟ったミアテはがっくりと項垂れる。規律に厳しいミアテと大雑把な性格のシャガ。性格が対極的であるからこそ、釣り合いがとれているのだろう。エルマとイルマの性格はファガン譲りだな、とレウは思った。
「じゃあ明日の朝だね!」
「準備準備!」
ミアテにこれ以上の発言を許さず二人は速やかに撤退する。ミアテは疲れたような溜息を零した。その様子に再びシャガは笑いながら、火箸で灰を探る。灰の中から出てきたのは徳利だ。火傷をしないように厚い布で徳利を掴む。
「一杯、付き合ってくれるか?」
「はい」
レウに手渡されたのはいつも使う猪口ではなく、磁器で作られた上等な盃だ。シャガはミアテにも徳利を傾ける仕草を見せたが、下戸であるミアテはそれを断った。シャガはレウの盃に酒燗を注ぎ、次いで自分の猪口にも注ぐ。そしてどちらかともかく、酒燗を呷った。
レウは酒好きというわけではないが、狩人役には酒を飲む機会が意外と多く存在するため、酒を飲むことが苦痛というわけではなかった。酒量を弁えれば酒は薬と同等であるし、祭事や重要な狩りを行う前の日の一杯だけの晩酌は元担ぎとして広く知られている。
「レウ」
「はい」
「……明日、二人に付いてやってくれんか」
「ちょっとアンタ!」
ミアテとしてはこれを流石に見過ごすわけにはいかなかった。迷惑を掛けたことに対する侘びも兼ねた食事の席で、さらにレウに負担を強いようとしているのだ。
「すまん、少し言葉が足りんかったようだな」
シャガの顔はいつもにはない真剣さがあり、単に思いつきやふざけ半分での提案ではないことを読み取ったミアテは一先ず口を閉じた。
「……黒獣が出るかもしれん」
空の猪口を握りしめたまま、シャガは静かに言った。
神樹・白亜の大いなる守護によって守られている大樹の森だが、その須くが好影響を及ぼすというわけではない。その代表例が黒獣という存在だ。黒獣は魔素によって体を侵食された獣弓類の総称のことで、名前の由来は侵食された魔素によって全身が黒く変色していることによる。
「黒獣、ですか」
要領を得ないまま、レウは相槌を打った。黒獣が出現することはさして珍しいことではない。レウ自身も何度か討伐経験がある。魔素の侵食によって非常に好戦的になっている点では厄介と言える。狩人役に限らず、森人にとっての外的な死因のトップだ。レウの父親であるダハウは大型の黒獣によって殺されたのだが、数百年の歴史書をひも解いてもあれほどの大きさの黒獣は出なかったと言われるほどのものだったという。
「うちの造役の見習い小僧が結構なデカさの奴を見かけたらしい。南の集落の近くだな。一応中央の方に通達済みだ。近いうちに調査隊が組まれるかもしれん」
「ならのんきに砂糖樹にかまけてられるわけないだろう!なに考えてんだい、アンタは!」
「落ちつけ、ミアテ。同じ現場で何人か造役がいたが、その小僧以外黒獣を見た奴なんていなかったし、本当に黒獣だってなら迷わず襲ってくるだろう。他の奴らは全員見間違いだろう、って相手にすらしてねえくらいだ。近くに殺生石もあったしよ」
「でもだからって」
「大体、俺等が注意した程度で止まるような二人じゃねえだろ。見えないところで好き勝手されるよりも紐をつけた方がいい」
その紐役がレウらしい。
「迷惑かけちまってる手前だが、頼めねえかレウ。二人に一番近くて腕が立つ狩人役はお前なんだ」
「分かりました。二人の事は私に任せて下さい」
シャガの頼みにレウが迷うことはなかった。エルマとイルマの先達狩人役として、二人を先導する義務がレウにはあるし、それが良い狩人役とされているからだ。それに家に何もしないでいるよりも、森に入る方がレウにとって有意義だ。
「レウ、迷惑だったら断ってもらっても」
「シャガさんの話を聞く限り、危険度は低いでしょうし、問題はないかと」
「悪いな、埋め合わせはするからよ」
「かまいませんよ。こちらも普段からお世話になっていますからね」
その後、僅かな雑談の後、今日の所はお開きとなった。
翌日、レウは戸を乱暴に叩く音で強引に起こされた。外はまだ太陽が白みはじめるほどだ。戸を叩く音はいつにもまして激しい。
「レウ、俺だ!シャガだ!」
聞こえてきたのはエルマとイルマの中性的な声ではなく、響くような低い声。焦燥感を滲ませた声色を感じ取ったレウは直ぐに跳ね起きた。戸口に向かい、閂を外すと息を荒げたシャガの姿があった。
「……何かありましたか」
肝っ玉の太いシャガが取り乱すことなど早々ない。何かよからぬことが起こったことは確定的だった。シャガは荒れていた息を整え、絞り出すような声で言った。
「黒獣に襲われて死人が出た」