森人 Ⅰ
気配を消す。
それは狩人にとって、なくてはならない必須技能だ。息を潜め、辺りの葉の擦れ合う音に同調させ、迷彩を作り出す。あたかも自分が自然の一部になったかのように錯覚させ、感情は心の内へと潜ませる。獲物となる獣は警戒心が高い上に人間の感情に敏感だ。それが獣に向けられた殺意であるならなおのこと。
一流の狩人は最後まで獣に気取られることなく、その命を奪う。最初に足などを狙い機動性を奪ってから、という方法もあるにはあるのだが、基本的に推奨されているのは一撃必殺だ。それが命を奪う側としての最低限の礼儀であるという狩人ならではの思想が根底にあるためだ。
二十を超えたほどの長身痩躯の男、レウは狩人の極意を最大限に活用し、獲物として標的を定めた猪から身を隠していた。木々の隙間から眼を走らせて猪を観察する。口元から伸びる二本の牙はやや小振りで、短小な体躯からも猪がまだ成長段階にあることが見てとれる。猪は成長しきった雄が食糧を得るために単独で群れを離れることはまれにあるが、レウの視線の先にいる猪はおそらく群れの行動途中で逸れてしまったのだろう。その証拠に行動に一貫性がなく、フラフラと彷徨っている。
―――小兎を狩りにきたつもりだったが、今日は運が良い。
レウは緑色の顔料が塗られた右頬を撫でる。複数人の狩りにおいては獲物を発見したという合図として用いられ、レウの癖でもあった。
些細な音を立てないよう、柔らかな布の靴で滑るように追跡する隠遁術は既に一流の域にある。猪が進んではレウも進み、猪が足を止めればレウの足も止まる。それを何度か繰り返すと、猪の足取りがおもむろに止まった。群れの匂いでも探しているのだろうか、鼻を地面に近づけている。周囲への警戒心が薄くなったその瞬間、獣はか弱い獲物へと変貌する。
レウは背負っていた小型の複合弓を左手構え、筒から一本の矢をつがえた。無駄なく一息の間に必殺の行が完成する。弓を引く。動物の腱で作られた弦がキリキリと悲鳴を上げた。意識と感情を切り離し、感情を心の奥底に追いやる。乖離された意識だけの今のレウは猪を狩るだけの装置だ。
猪が首を上げ、方向転換しようと半身を翻す。その瞬間にレウの弓から矢が放たれた。
ひゅおう、と鏃が空気を切り裂いて猪に迫る。邪魔をする木々の葉など眼もくれずソレは、直線を描くだけの単純な軌跡にも関わらず、見る者を引き付ける魔的な魅力があった。
猪が異変を察知したのは矢が猪に襲いかかるほんの数瞬前のことだったが、もしかしたら自分の命に危機が迫っていることすら分からなかったのかもしれない。猪は矢を避けるという選択肢を取ることすら許されず、鏃が眉間に食い付いた。
森において弓矢で狩りをすることは容易なことではない。木々や葉といった障害物は多数存在するし、足場も良いとは言えないため、熟練の狩人であったとしても百発百中は難しい。しかしレウという狩人にとって、それは呼吸をするが如く容易なものだった。
一瞬、びくりと躯を震わせた猪だったが、次の瞬間には横向きに体を倒していた。何度か足をバタつかせる動きを見せたものの、それは直ぐに止まった。身動きしない猪の様子を後方から確認したレウは猪に駆け寄った。猪を死亡を確認し、手を合わせ頭を下げる。糧となる獲物へ向けた感謝の礼だ。十秒ほどのそれが終わると、レウは猪を肩に背負い、その場を速やかに後にする。矢を引き抜いていないため、その場に流れる血液は僅かなものだが、野生動物の臭覚は侮れない。
周囲を警戒しながらも足早に帰路につくその様子は、レウが年若い男であることは忘れさせてしまうほど老練としたものだった。
渓谷や草原を抜け、半刻ほどでレウは山村にたどり着いた。レウの住む山村は、『森人の里』といい、エンテ王国の南東、大樹の森のほぼ中心に位置している。深い深い森は天然の要塞となって侵入者を阻んでおり、素人が入るとまず間違いなく抜け出すことはできない。隣国と敵対関係にあったときは何度か火攻めが行われていたようだが、元々の湿度が高く、頻繁に局地的な豪雨が発生し、さらには大樹の加護の影響で火に対する抵抗力が高まっているため、効果はほとんどなかったという。
エンテ王国の天然要塞と言われる大樹の森の中心に聳え立つのは一本の巨大な大木だ。神樹・白亜と呼ばれれるそれはエンテ王国建国当時から存在していたと歴史書に描かれており、巨木が立ち並ぶ大樹の森でも一際大きく、存在感を放っている。
白亜は只の巨木ではない。白亜の根本には清廉な魔素が噴出する巨大な地脈があり、その魔素が名もなき木であったであろうものを神樹と呼ばれる位階にまで引き上げたのだ。魔素の影響を受けた白亜の影響は他の木々にまで影響を及ぼし、伝播した結果、木々は魔術師ソーサラーの発火魔術ですら跳ね返すほど屈強に育ち、独特の魔素が充満する大樹の森ではよほどの訓練を積んだ魔術師でなければ魔術の発現すらできなくなった。多くの旅人が迷い、命を落としたことから大樹の森を死の森と揶揄する者がいるほどだ。
大樹の森は文字通り白亜が中心となっており、エンテ王国の天然要塞と言われる所以も白亜が存在してこそだ。つまり、白亜が存在しなければ森のあらゆる加護と異常は消失してしまう。そのために白亜を守護する存在が必要であり、その役目を担っているのが森人達だ。
白亜を取り囲むように円村が形成されており、そこに住まう彼らを総称して森人と言う。森人はエンテ王国建国当時に守護役に命じられた貴族の子孫達で、レウも代々白亜の守護役の中でも狩人役と呼ばれる子孫の一人だ。エンテ王国では一応名目上は準貴族とされるのだが、猪を肩に背負い里の屠殺場へ向かうレウからは貴族の欠片も感じられない。実際、レウ達森人は彼ら独自の思想も相まってエンテ王国の一般農民より多少豊かな程度の暮らしぶりだ。
「なんだいレウ、今日は早かったじゃないか」
レウは真っ先に屠殺場に向かうと、沢の近くに存在する里の屠殺場には数人の先客がいた。レウに声をかけてきたのは四十路ほどの灰色の前掛けを着た小柄な女性。レウと同じ狩人役のミアテだ。屠殺場に常備されている大ぶりな刃物は人に振るえば瞬く間に悪意に満ちた凶器へ変貌するし、子供が下手に触れば指を落とす。危険物の安全管理のために屠殺場には数人の監督役が常に監視の目を光らせているのだ。監督責任者であるミアテの腕には監督役、責任者を表す赤色の腕章が付けられている。
「ええ、運よく逸れた猪を狩れましたので」
「ほうほう、頭を一撃かい。流石だね、狩人の技巧は親父譲りだ」
「いえ、まだ精進が足りません。父ならば運に頼ることなく、私よりも短時間で猪を仕留めることができたでしょうから」
レウの誰よりも自分に厳しい姿勢は周知のことで、ミテアにはそれがレウの本心だと分かった。六年前、魔素に躯を侵された獣―――黒獣との戦いで命の落としたレウの父親のダハウは歴代の狩人役の中でも卓越した腕を誇っていた。確かにそのダハウと比べると劣っていると言わざるをえないが、それはそもそもの比較対象が間違っている。レウは間違いなく、若手の中では最も腕の立つ狩人だ。
「謙虚だねえ。ウチのアホ共にも見習ってほしいもんだよ。ああ、でも―――」
―――アンタにも少しはウチのアホ共を見習ってほしいねえ、という言葉をミアテは飲み込んだ。
「……どうしました?」
「ん?ああいや、なんでもないさ。やっぱウチの連中はアホだって改めて思っただけさ」
それ以上は話題を広げようとせず、ミアテは沢の水を猪に被せ、刷子で汚れを取っていく。猪の汚れを大まかに取ると、次は肛門付近から生殖腺や内臓を傷つけないように腹を裂いていく作業に移る。レウは腰の短刀を抜き、慣れた手捌きで猪の体を割いていった。それは二十年も狩人役を担っている彼女ですら感嘆するほどの素早さと丁寧さを兼ね備えていた。
現役の上級狩人役の中では最も若いレウだが、その狩りから解体の腕に至るまで他の上級狩人役に見劣りしていないどころか、突出している。レウが狩人役の頂点である狩人頭になる日はもう遠くはないだろうとミアテは思っていたし、他の者も同様の期待をかけている。
レウという人間は狩人である。
それはレウが狩人の役を担っているという意味だけを指すのではない。レウは常日頃から狩人の姿勢を崩さないのだ。レウはどこまでも狩人であり、そこにレウという一人の人間が希薄なようにミアテには見えた。狩人役として実直であると言えば聞こえはいいが、もう少し若者らしくあるべきではないか、というのがミアテぼ意見だ。
「ねぇ、レウ。ちょっと聞きたいんだけどさ」
「なんでしょうか?」
内容物がこぼれないように、のどの付近の食道もひもで縛りながらミアテはレウに問いかける。
「あんたさ、人生楽しんでる?」
「は?」
大凡無表情であったレウの表情に僅かに困惑の色が浮かび、ナイフの動きが止まった。
「考えたことなかったですよ、そんなことは」
レウはそう言って苦笑する。苦笑する瞬間には確かに人間としての色があり、ただそれだけのことにミアテは安堵した。
次回からは登場人物、会話文が増えると思います。