9th 過去(プロフィール)
タカの《ファーリー》が、薄黄色い禁煙パイポをクチバシに挟み、食後の爪楊枝のように弄んでいる。
「俺はホーガン。こいつの友人で、警察だ」
羽根の親指で、イングを指しながら言った。アンドロイドなどの無感情な受け答えとは、またちがう愛想の悪さだった。不機嫌、苛立ち、ストレスの敗北者――
ラウズとモルは、警察という肩書きに、一切臆したり怯んだりしなかった。ニュートラルな表情は、深くも無ければゼロでもない関心が表している。
「お前たちだよな。高速道路でアルフレッドと鬼ごっこしてたの」
ラウズとモルは目を合わせた。アルフレッド、聞いたことのない名前だ。ズーディアックのメンバーにもいない、知り合いにもいない。
「“タンク”の本名だよ」
子申のきょとんとした顔を見て、ホーガンは言った。
ラウズとモルは、ああそうだったのかと、納得した顔を同時に、ホーガンへと向けた。その動作は、打ち合わせしたのではないか、と疑わしいぐらいぴったりだった。
カチンとパイポをクチバシで鳴らし、
「資料は役に立ったか」
とホーガンは言った。
「ええ、とても」
「そうか。そいつは何よりだ……」
「どうして私たちが追われてたの知ってるんですか?」
無垢でマヌケな質問に、ホーガンは片目を吊り上げた。この申娘、純粋なのか、バカなのか、はたまたその両方か。
「高速道路にもカメラが設置されてるの知ってるだろ?お前ら、バスの上に乗ってたろ。白髪、低い背、ネズミの尻尾、サルの下半身と尻尾」
モルの顔が、またも納得したと言っているように変わった。ラウズは自分の頭髪を見上げて、頭を触れるように掴んだ。
「こんな詰めの甘いガキにやられる、マヌケに手こずってた俺たちは、一体なんなんだ」
とホーガンは言った。口に出してないから、誰にも聞こえていない。
「自己嫌悪、嫉妬、敗北感……マイナスの詰め合わせが贈られたみてえだ」
また口には出さなかった。最後に「くそったれ」と付け足そうか迷ったが、虚しくなるだけだと止めた。
「やっぱ、俺らも逮捕の対象ですか?」
とラウズは聞いてみた。ただ何となく聞いてみた、無に近い表情がそう言っている。
「そりゃあ、バスとかモノレールの屋根に乗ったり、社会規律を破ってるからな」
「やっぱり」
ラウズとモルが声を揃えて言った。
「公演が終わって帰るところも見られてたんだね」
「普通そうだよな」
ホーガンは口からでかかったツッコミを飲み込み、聞いてみようと思っていたことを代替で吐き出した。
「公演とか帰宅とか、お前らは、一体何者なんだ?」
イングがラウズとモルを交互に見た。二人は、なぜそんなことを気にするのだろう、と、言いたげで不思議そうにしている。
「確かに気になるね」
リンがシルバーのアタッシュケースを閉めながら言った。カギの部位に付いた、中心に卵型の凹みがある、四角い鉄を見つめた。
「先ほど出て行った時の身のこなしからして、ニンジャの末裔とかじゃないのかい?」
バースデープレゼントの中身を聞く子供のように聞いた。
卵型の凹みの最深部から、髪の毛より細い、ブルーのレーザーが上っていく。リンの網膜をぐるりとなぞると、かちりと錠が閉まる音が鳴った。開ける時も、目がカギとなるのだろう。
「いや、違いますけど」
ラウズがちょっと困ったように笑って言った。それは残念だと、リンは朗らかに笑った。さっきの言葉は、ジョークとシリアスを混ぜ込んで言っていたようだ。
「話してやった方がいいんでないかい?」
イングがカウンターに手を重ねて言った。ラウズとモルは、イングの片眉を上げた顔を見てから、お互いの目を合わせて頷いた。
「じゃあ私から教えて上げます!」
モルが手を上げた。黒板に書かれた問いを、自分が解いてみせる、というのと同じ勢いと元気の良さだ。
モルが生まれた場所は、“月光”という名をいつの間にか付けられた、背の高い緑に囲まれた里である。山の一部分を謙虚に借りたような、人種を問わぬ少数の集い。
その最先端とは縁もゆかりも無い所では、猿王寺と呼ばれる寺が一番の存在感を放っている。
キリンも見上げる門を抜けた先に、筋骨隆々、鬼のしかめっ面をした、猿武大王という、武の神の木像がある。門とやや同じ背の高さを誇り、見下ろす眼力は誰もが裸足で逃げ出しそうなものだ。
爽やかなサンライトイエローの胴着を着た者が、均等に並び動いている。
エイ、オウ、と空気をぴんと張らせる掛け声。同時に突き出す拳、振り抜く蹴り、弾ける砂利の音。
猿王寺は単なる広大な寺ではない。どこの誰であろうと、志願者に徹底的に「武」を叩き込む寺なのだ。
生まれも育ちも“月光”の、サルの《ファーリー》の女性が、日課である、山での食料採取をしていた時である。
出会いがあった。
《ヒューム》の青年が木陰から姿を現し、二人の目が重なり合った。
凛々しい顔つき。スレンダーながら、出るところは出ている身体。
初々しい童顔。色白の頼りない肉体。
《ヒューム》の男性は、一目惚れした目の前の女性に、「猿王寺に行きたいのですが」と聞いた。
その言い方からは、いじけた見た目とは裏腹に、爽やかで朗らかな性格が滲み出ていた。
サルの《ファーリー》の女性は、食料の詰まった、丸い背負い籠を肩で直し、「着いてきなさい」と言った。
凛とした声が、青年の鼓膜にとても心地が良かった。
リストラの憂き目に合うも、心身共に鍛え直そうと思い立ち、猿王寺を目指した男。そして偶然出会った女。
それがモルの両親である。
「みんなで出かけないか?」
モルの父親が、抱き上げられはしゃぐ幼い娘と、妻に向かって言った。浅黒い肌、たくましい肉体、妻と出会った頃とはまるで別人である。
「どこへ行くの?」
料理の煮える音を交えて、妻が聞いた。背中の赤ん坊は、すやすやと穏やかに眠っている。
「メトロポリスだよ」
「どうして?」
「家族も増えたし、みんなで色々と見に行きたいと思ってさ」
「いいイメージがないのよね、メトロポリスって」
「《アンダートーン》が何かと取り沙汰されることが多いからね。一番広くもあるし。でもそこにはいかないさ」
語気には、何があろうとお前たちを守るから安心しろ、と感じられる。
妻がはにかみながら味見をしているのに、夫は気付いていなかった。
まばらな雲の晴れの下、《ミッドレンジ》にて。
四人家族は、ズーディアックの路上公演に、拍手とクーイングを送っていた。
「おとーちゃん! おかーちゃん!」
元気で可愛らしいモルの声が、両親の耳に軽快に突き刺さる。
「なんだ、どうした?」
「わたしもやってみたい!」
ズーディアックの公演を指差しながら、モルは言った。
夫婦の互いの眼に、互いの苦笑が写り込んでいる。娘は笑顔のまま、両親の顔を交互に見た。
「そうね……じゃあ、条件があるわ」
と真剣な顔つきで母親が言った。モルも鏡のように顔つきが変わる。
「じょうけん?」
「お父さんとお母さんと同じように、猿王寺に行きなさい」
生半可な覚悟は許さない、母の表情はそうも言っている。
健全な心身を伴えば、如何なる苦悩も困難も、歩み越えられん。猿武大王が残したとされる言葉の一つである。
故郷“月光”へ戻ってから、モルはすぐに猿王寺へ通うことになった。
天性の明朗な性根が幸いとなり、モルは泣き言も嘆きも皆無で通い続けた。
帰ってきては、行われた修行の内容、組み手の様子を嬉々として話していた。
ケガや傷はあれど、絆創膏が貼られる程度だった。
モルが学んでいるのは、足技を主体とした流派である。功夫とカポエイラが手を取り合った、見た目も派手なものだ。当然、実戦も考慮されている為、熟練度が高くなれば、突き、蹴り、共に岩を飴細工に変えて砕けるものになる。
下手をすれば、命も砕ける威力になるということだ。
母譲りのボディ。父譲りの優しいオーラ。モルは立派な少女へと進化を遂げた。
跳躍などの身軽さも、野生のサルか、それ以上のものとなっていた。
早朝、モルの旅立ちの時。晴れ晴れとした爽やかな気候が、旅の無事を現している。
「いつでもここで待ってるからな」
「無茶はしないこと、いいわね」
「お姉ちゃん、がんばってね!」
「うんっ!」
モルの満面の笑みが、家族を安心させる安らぎとなった。
「だけど、あの時の劇団が無くなってる可能性もあるぞ?」
モルの父が、顎を撫でながら言った。
「きっと大丈夫、今もあるよ!」
とモルが言い、父と母は呆れながらも愛しく笑った。
「もし無くなってたら帰ってくるんでしょ?」
モルの妹が言った。
「そうだねー、その時は他の団を探して、ちがうって思ったら戻ってくる!」
モルは妹の頭を撫でながら言った。
目標に向かって行くだけ、自立するだけ、今生の別れではない。だが、寂しくないワケではない。
しかし、誰一人として涙を流す者はいない。
風が種を運んでいくみたいに、寂しくも、どこか心地よい別れ――
「と、いうわけで、私は今このメトロポリスにいます!」
モルは胸に手を当てて、ご静聴いただいたお礼のお辞儀をする。
リンの拍手が店内に響き、ホーガンの雑な拍手が遅れてやってくる。
カウンターに寄りかかり査定を待つ、リスの耳、ウサギの尾が目立つ女性の《ハーフ・ファー》が、じろじろと四人を眺めていた。
「ねえイングさん、あの人達なんなの?」
「気になるかもしれないけど、気にしないでください。眉間にシワを寄せちゃあせっかくの美貌と愛らしさが台無しになってしまいますよ」
人差し指の裏で、つうっと女性の顎のラインを撫でる。
それを目にしたホーガンは、店に唾を吐き捨てたくなる衝動に駆られた。
リンが自分の顎を撫でながら、
「なるほど、君の身体能力は努力により身についたものなんだね」
と言って、モルの笑顔をじっと見つめた。混じり気のない白さで輝く、そんな笑顔。
モルがラウズを見る。それに釣られリンとホーガンも、アンニュイな少年の顔に視線を移す。
「じゃ、次は俺の番ですね」
幕が開く代わりに、酸性雨が忍び足で降りてきた。
薬品研究所。白い収納ボックスが均一に並んだような、無機質の権化な外観。
中で生み出され、試され、出荷され続ける商品は、錠剤、液体、粉末、興奮剤、ステロイド、避妊薬――豊富なバリエーションを誇り、さながらカーニバルである。
薬の被験者は、商品と同じく、中で産み出されている。カラフルなでかい円筒の水槽。培養液が満ちたカプセルがずらり。中には身を守るように丸まる、《ハーフ・ファー》もぞろり。子供から大人まで、多種多様、選り取り見取りである。
精子や卵子――繁殖力の影響か、着床力があるのか、ネズミの《ハーフ》、もしくは《ファーリー》が多めだ――を買い取り、色とりどりの液で成長を促し、商品のニーズに合わせた、インスタントの実験体を生み出している。作り出している、とも言えよう。
実験後、用済みとなった被験体は、リソイクルにより成長を促すジュースにしてもらっている。悲しむ両親もいない。職員もいない。
この職場の環境において、問われるものは、良心より、好奇心と向上心である。
ラウズの最初の記憶は、白い光が埋め込まれた蓮の花托。無影灯の、白い光。無慈悲で無機質な無彩色――
薄汚れたスカイブルーのベッドに、黒いベルトで拘束されている。マスクに白衣、白づくめの職員の手に、ラウズへのプレゼント。
針の先端から、プレゼントのオレンジの水滴が、用済みだと背を蹴られ、幾つか飛び出した。
ラウズは口を開く気が無かった。水泳後に似た疲れに負けているからだ。気だるさに身をゆだねている、とも言えるか。
ラウズの皮膚を針が貫き、オレンジの注射の中身が、カメの歩みの如く減っていく。
中身を全てを送り込み、針が抜かれた。
ほんの数秒後である。ラウズが目をつぶり、顔をしかめ、零すように言った。
「うっ……」
ラウズは口を大きく開いたが、上手く叫べない。空気の石がつっかえたようだった。代わりに歯を食いしばり、首を左右に振りまくった。
脈が早くなる。血のジェットが、肉体の隅々を飛び回る。か細い腕が、脚が、じわりじわりと膨らんでいく。腹筋もくっきりと割れて浮かび上がり、尻尾は強靭な鞭の暴れ馬と化している。
体内の騒動が納まると、ラウズはスレンダーな肉体美を手に入れていた。新体操、水泳などの、スリムなプロアスリートに見える。
絶え絶えの息を、深呼吸で落ち着かせる。しかし、ラウズは休憩を貰えそうになかった。白ずくめは、次の新薬が満ちた注射器を、手に取って眺めていた。除草剤にも見える、青々とした試薬だ。
悪い予感と打たれたくない渇望で、ラウズは身を縛るベルトを、長い尾で引きちぎり、職員に投げつけた。
ベルトはメガネを割り、レンズが水晶玉に食い込んだ。落とした注射器が踏み抜かれ、床が青く染められていく。ついでにラウズの蹴りを顔面で受け止め、マジックミラーを突き破って退場した。
職員はケイレンして立ち上がれない。それも当たり前だ。ザコがやたらとハデにやられる、アクション映画によくあるシーンをそのまま、ノンフィクションとして味わったのだ。
容易く割れるはずのない、ミラーが居なくなった窓枠は、白い壁と呆気にとられる研究員が立つ舞台、ラウズを迎え入れる巨人の大口となった。
枠の両脇から、護衛が飛び出し、ライフルの引き金を引いた。チュンチュンとロボットの小鳥を彷彿とさせる銃声。赤い糸を伸ばしたレーザーバレットは、ラウズの眠っていたベッドを焦がしていく。
飛び上がったラウズは、天井についたダクトの蓋を、指先で引っ剥がした。そのまま落下と同時に、蓋を四角いフリスビーに変え、護衛の一人を片付ける。ガインッ、と小気味よくも実に痛そうな音が響いた。
もう一人は、片付けられた同僚に目を向けてしまった。標的が目の前にいるというのにだ。ラウズに蹴飛ばされ蹴散らされ、だめ押しに後頭部を蹴られ、白い壁に熱烈なキスをし、自前の赤いインクでサインを施してぶっ倒れた。
注入された試薬品は、漫画やゲームなどのフィクションにある、細い見た目にそぐわない身体能力を得たい、夢と現実の区別がつけられない、もしくはつけたくない愚か者のサイフを狙った商品である。しかしどうやら、生存本能も際立たせてしまう効能が、強くなっていたみたいだ。
マシーンのアームが、コンベアに乗った試験管を、世話しなく整理する部屋。
ゴーグルをした研究員が、並べられたビーカーの中身を眺め回す部屋。
丸まった被験体が、液に浸るカプセルが列をなしている部屋。
出口を求めて走り回るラウズの目に、多様な光景が入ってくる。
腕を拘束されぶらりと垂れ下がる、かつて被験体だった死体が、ずらりと整列された部屋もあった。まさに死の軍である。
マシュマロのような防護服を着た誰かが、具合の違う死体を見ては、ホログラムのボードに分厚くなった指で何かを書き記している。恐らくは薬の見て取れる影響、影響を受けた部位――顔にヤケドを負ったような死体――腕の肉が一部なくなり、代わりに骨を見せる死体――
化学と薬学の発展、発展につきものの犠牲、この施設ではそれがセットで住んでいるようだ。
ラウズの背後から、追跡の足音というムカデが、這いずり近づいてきている。正面にはラウズを見て驚く白衣の男女。左は壁、右には非常口の重たい扉。
無我夢中で走って、くぐり抜けた天国の門の先は、夜と雨を浴びる地獄の運河。
息を切らすラウズはフェンスを掴み、恐る恐る見下ろした。薬品研究所の排水、汚水を、健気に受け止め続ける穏やかな川。水面に波紋が生まれては消えていく。
周りを見回した。ハシゴが収まったケース。しかしカギが無ければ開きそうにない。螺旋階段。しかし鉄柵のドアにカギ、上には電流が走る有刺鉄線が縦に並ぶ。
追っ手が近い。捕まるか、飛び込むか――
「うえええ……」
川から這い上がったラウズは、上陸早々に嘔吐した。原因は泳いだ川の臭い、全身を回る疲労という毒――日雇い作業の給料で買った酒を、ラッパ飲みするホームレスが、ラウズをじっと眺めていた。
重たい足取りで、ラウズはまるで少年のゾンビのように、味家のないコンクリートの傾斜の階段をよろよろ上がっていった。
行く宛などない。どこへ行けばいいかも分からない。目に見えない絶望に掴まれて、頭をだらりと垂らし、ただ闇雲にさまよい歩いた。
異臭の原因の汚いネズミに向かって石を投げる者――は、投げた石を拾って投げ返され、片目を失った。
惨めなガキに向けて、空になったビール瓶を投げる者――は、対象の足元で半分になったそれを投げ返され、ブルズアイにダーツが刺さるよう、顔のど真ん中に突き刺さった。
とりあえず休もう、休まなくちゃと、とある店の壁に寄りかかった。何の店か気にする余裕もない。
その時である。
ラウズの耳に、店のドアが開く音がお邪魔した。よじよじと体を動かし、音のした方を見てみた。
用心棒と思わしき大柄な背中と、襟を掴まれて暴れる二人のティーンエイジャー。そしてその情けなく暴れる二人が、ゴミを出すように放り投げられた。
「ケンカなら外でやってくれ」
「――ってぇなコラ!」
「テメエからやってやっよ! コラ! おい!」
ティーンエイジャーの一人の、ハチマキそのままのバンダナをした《ヒューム》が、包丁ほどはあるナイフをジャケットから取り出した。と思われる。
顔の半分をパンチの跡で凹ませ宙を舞っていた。ぐにゃぐにゃで関節が無くなったようだ。ナイフも一緒に回転している。無重力の状態みたいだった。
用心棒が殴り飛ばしていたのだ。右腕が顔の前にあり、拳も作られているのが証拠である。
ラウズも、残りの一人も、呆気にとられた。いつ殴った、きっとナイフを取り出す瞬間、だとしても、パンチのスイングが早過ぎる。まるでテレポートだ。
「光り物を脅しの道具に使うのは関心しないねえ」
拳を解いて、落ちてきたナイフをキャッチした。同時に、グシャッと殴られたのが地面に衝突した。ぴくぴくと震えている。命はまだあるようだ。
「す、すみませんでした!」
残された、トラの頭とゴリラの腕と足を持つ《ハーフ・ファー》が、しがみつくように叫んだ。今の光景で、酔いも怒りも何もかもがどこかへ吹き飛んだようだ。
「大人しく帰るか? 飲み直すか?」
と用心棒が腕を組んで言った。
「え、えと……日を改めて、出直します!」
ところどころ裏返る声で必死に言った。そのまま《ハーフ》は背を向けて、駆け足ですたこら去っていった。
「やれやれだ……」
と溜め息と一緒に漏らして、用心棒は振り向いた。びくりと体を強ばらせたラウズが目に入った。
「ん? どうした、ボウズ。そんなところで……」
イノシシの《ファーリー》は優しく言った。
「お前さん、親はどうしてんだ?」
「……いない。しらない」
「そう、か……どこから来たんだ?」
「……わからない」
「ふーむ、そいつぁ困ったもんだな……とりあえず、入んな。その身なりのままじゃお前さんもイヤだろ」
ゴミ溜めの沼から生まれた状態。布切れ同然の、元のカラーリングが分からなくなった、無意味な患者衣。意図せずして、同情を誘うには充分すぎる見た目となっていた。
ラウズは店の中へ連れられた。店を見回そうとするが、それよりも早く、快活な女の子の声が叩き込まれた。
「おかえりボスー! あれ、その子はだれー?」
拍手の雨が、さーっと店内に入り込んでいる。
「と、こんな具合です」
物憂げに考え込むリンが、じっとラウズを見つめている。
カチッとパイポを鳴らして、ホーガンが聞いた。
「お前、ナノネットは……?」
「実験台にいちいちナノネット与えてたら、コストもかかって面倒でしょうからね。繋げられてないですよ。居場所をあいつらに特定されて追われるのもイヤなんで、今もそのままです」
「ふーん、そうか……打たれた薬の効果は続いてんのか」
「多分。いつ切れるのか、もしかしたら切れないのか……まあ、失敗品だと思いますよ」
「なぜそう思う?」
「継続して買ってもらわなきゃ儲からないから、です」
「なるほど」
鼻で笑って同意しながら、ホーガンは言った。
「金がいる訳はあるのか」 顎でイングを指して言った。二人に危ない依頼をする張本人を。
ビーバーの中年男性の《ファーリー》が、24Kのネックレスを購入していた。しかも現金でだ。レモンイエローとホワイトの、ボーダーのポロシャツのボタンを開き、カウンターにあった手鏡で、色々な角度からネックレスを確認している。
「……住みたいところがあるんです」
ラウズとモルの住む場所の、置き土産のひとつ。映像ではなく、書籍の写真集、ラウズの夢のきっかけ。
それは、一つの島の記憶。
完璧な紺碧――
蒼天と蒼海――
純白の砂浜――
虹より豊かな魚の群れ――
サンゴの森は穏やかに佇む――
たゆたう海藻はまるで羽衣――
自然であるがまま特有の美しさを、星の気まぐれにより作り上げられた、天然の楽園。桃源郷。
「私たちの場所!」
モルの元気な声が響いた。
ちょっと待て、私「達」っつったか? ――ホーガンのつり上がる目がそう言った。リンが素直な顔つきで聞いた。
「彼の夢は、君の夢でもあるということかな?」
「うん! 二人だけの場所に二人で住むの!」
気恥ずかしくなるぐらい清々しく答えた。リンは、ただ優しく微笑みながら頷いた。祖父と孫の、他愛ないやり取りのようだった。
「……好き合ってるのは分かったよ。まだ聞くが、体が透明になるのは、何なんだ?」
ラウズに目を移しながら、ホーガンは重苦しく言った。個人の透明化というのは、機動隊や特殊部隊といった、限られた特権に与えられるコンバットスーツや、縮んだバネのように目玉が飛び出す、高額な肉体改造――カカシを撃つだけで得られるようなものでは決してない。元実験台、現劇団員のネズミボウズが、容易に取得できるものでは決してない。打たれた失敗作の影響、と考えられなくもないが。
言ったところで、信じてもらえるかどうか、ラウズは甚だ疑問ではあったが、自分の姿を無くす術を得たことを、正直に、そのまま話した。
「……夢でも見たんじゃないか、って言いたいところだが……」
ホーガンがそう言うと、ラウズは透明化を解いた――手慣れてきた影響か、透明化の発動、解除は、手を握って開く感覚で出来るようになった。襲いかかる疲労感も、道端に唾を吐き出す程度のものになった――。メルヘン、ファンタジー、パラレルワールド――ホーガンの頭の中で、普段浮かぶことのないワードが、自分の尻尾を追ってぐるぐると回るマヌケと化していた。「納得するしかない、か……」ホーガンはそう呟いた。自分にしか聞こえないように。
ただ一人だけ、リンは顔を輝かせ、じっとラウズを見つめていた。描いた理想が目の前にある感じだ。
ただ一人、リンの様子に気がついていた。その一人は、透明になるなんて珍しいものを見れて、この人も嬉しいんだろうな! と、塵ほども疑わずに思った。