6th 激突(デュエル)
夜空の下、薄暗い高架下、膨らんだバッグを肩に下げ、駆け抜ける影が二人。
「現金はどうしよっか。ついでに取ってきちゃったけど」
モルが自分のバッグを叩いて言った。
「どこかに寄付するか――バラまいちゃうか」
ラウズの脳裏に、現金札の紙吹雪が、摩天楼を背景に、風に乗って飛んでいく映像が浮かび上がる。
スプレーの落書きだらけの長屋の車庫の上、欠けたレンガの廃屋の屋根、ホコリを被ったような薄汚れた小型ビルの屋上、と、バッグの重さをものともせず、転々と飛び移っていく。
高速道路の照明に飛び移る。同時に二人は乗れない。先に飛び移ったラウズは尻尾でぶら下がり、モルの為にスペースを開け、そこにモルが着地する。
二人がそれぞれ、ゴーグルとスポーツサングラスを外そうとした時だった。ラウズとモルのすぐ近くから轟音と地響きが襲った。建物を取り壊す、クレーンの鉄球が落下した、と思わせる凄まじいものだ。ラウズとモルは、耳の穴に指を突っ込んだまま、発生源の方へ振り向いた。
「見つけたぜ……」
巨大で無骨な、鉄の塊の手足を着けた“タンク”が、高速道路をスプラウトグリーンでぼんやりと照らす、蓄光中央車線を跨いで立っていた。背後で起こっている玉突き事故を意に介さず、怒りで歪んだ笑みを浮かばせ、二人を見上げ睨む。アルマジロの《ファーリー》ではなくなったかのようだ。
胴体や頭がない、中途半端なパワードスーツと言ったところか。鉄の塊の手足は、“タンク”の丸い背中に、ぴたりとくっついた鉄の骨で繋がっていた。
「なぜ盗んだ?」
歯ぎしりをしながら二人に聞いた。
「答えると思うか?」
ラウズは呆れたように答えた。
「おバカなんだねー」
モルが子供のように言った。
「キサマらあ!!」
咆哮に等しい怒りの声。背後の一番近い、ホワイトボディの車のヘッドを掴む。メキメキと音を立ててへこんでいく。鉄の巨人が握力を試しているようだ。
「ひいい!」
クラクションを鳴らし続けていたドライバーが、情けない声を上げ、慌てふためきドアを開け走り去った。
「くたばれえ!!」
掴んでいた車を、二人に向かって放り投げる。
「ウソ」
ラウズとモルは心中で同時に言った。
投げられた車が、ぶつかって折れた照明と共に、高速道路の下へ落ちていく。
ドラム缶の焚き火にあたっていた、毛むくじゃらのホームレス達の一人が、自分たちの元へ飛んでくる車に気付く。気付いた一人が叫び、全員が視線を車へと向いた。灯に吸い寄せられたガのように、よろよろと散り散りに避ける。まるで脚本通りである、ドラム缶へフライングボディプレス、そして、爆発。
「あんなのどこに隠してたんだろうねー!」
モルはバスの上の風に負けないよう、大声で言った。
ラウズとモルは、反対車線を通りかかったバスの屋根に飛び移り、車をかわしていた。
「多分地下に隠してたんだろ!」
「お金も地下に隠せば良かったのにねー!」
「もしかしたら、地下に隠してると思って地下に行ったら、地下にはない、罠だ! なんてあったかもしれないな!」
「なるほどー! さすがラウズだー!」
とモルが言った時、ラウズがバスの後方へ目を凝らす。それを見て、モルも目を向ける。
「マジかよ……」
「しつこいなー!」
重低音の足音が近づいている。高速道路を踏み荒らしながら、“タンク”が追いかけてきていた。
邪魔となる車を――殴り飛ばす。投げ飛ばす。踏み台にする――撤去しつつ、着々と二人に追いつこうとしていた。
さらに後方からは、ヘッドライトの群れ、“タンク”の部下達が、バイクチームとなり追いかけてきているのが見える。横転、炎上する出来たての廃車たちを、すいすいと蛇行し、軽やかに、鮮やかに避けている。
「あのバイクも地下にしまってたのかなー!」
「多分そうだろうな!」
バタバタという重く風を切るプロペラの音。空からのサーチライトが、“タンク”と部下のバイクチームを照らし出す。警察ヘリのお出ましだ。
「すげーことになってんな」
「プロペラうるさーい!」
この状況でも二人は全く臆していなかった。
ラウズとモルは同時によろけた。バスが加速したのだ。
「どうしよっかー!?」
「うーん……」
前方を見ると、六角形の透明なトンネルが近づいていた。入り口から出口まで、五本のアクアブルーのネオンのラインが走っている。
ドライバーが、今にも泣きそうにハンドルを握りしめていた。
「なんだよあいつ……何なんだよあいつ……なんで追い掛けてくるんだよ……こちとら給料安いんだ! チキショオ……」
自分を落ち着かせようと、とにかく独り言を繰り返していた。突然、真横のウィンドウからノックが聞こえた。ゴーグルを装着し、鼻から下を、伸ばした襟で隠している少年が、屋根から覗き込んでいた。ドライバーは一瞬おどろき戸惑いながら、ウィンドウを開き、
「な、何の用だ!?」
とドライバーは言った。何者だ、と聞くべきだったかと迷った。
「ちょっとお伺いしたいんですけど、あのトンネルって消火機能とかありますか?」
「ぜ、全部のトンネルにあるはずだよ!」
「そうですか。消火剤が出るとか、そういう感じですか?」
「そうじゃないのか?! ニュース映像じゃそんな感じだったと思うぞ?!」
「やっぱそうですよね。あと、車内で誰か――を持ってません?」
“タンク”は、あと少しで手が届く、と言える程に、バスとの距離を縮めていた。
「あと少し……」
そう脳内で呟いた矢先だった。ラウズとモルの顔がひょこっと現れた。
何をする気だ、と思った時、トンネルへ突入した。同時に、二人が何かをバラまいた。
燃える紙幣吹雪と、きつめの酒類が、淡々と、無情に、“タンク”を襲う。道に染み込むアルコールに火がつき、追い打ちをかける――ラウズは、ライターと酒類を、バスの中で購入していた。無論、盗ってきた現金でだ。
「き、キサマらあああ!!」
紙幣が、じわりじわりと灰へ変わっていく。
燃え盛り踊り狂う炎に、トンネルのセンサー――アクアブルーのネオンが反応。ランプが回転し、オレンジへと変わり、トンネル内全域を同じカラーリングに染め上げる。天井に点々と取り付けられていた、大砲に似た丸穴の噴射口から、真っ白い消火剤が飛び出す。まるでのたうち回るヘビのように。
お節介な洗浄をするよう、“タンク”にも消火剤が降りかかる。
燃える売上が顔に貼りつく、消火剤が目、口に入る――“タンク”の足を、散々な目が止めた。
後続のバイクチームも、トンネルの消火活動で足止めを食らう。
“タンク”の元に、二人乗りのバイクが一台、慎重に近付いてきた。
「ボス! 大丈夫ですか!」
バイク後部に跨っていた、メガネをかけたウサギの男性の《ファーリー》が駆け寄る。目線はボスに向いてはいたが、パワードスーツの方を心配しているように見える。
「……おい、シンク……」
「は、はい?」
「妨害アンテナといい、ハッキングといい、このスーツといい……お前は天才だ。創造主の鏡だ」
「は、はあ……ありがとうございます、ボス……」
「だが、その目はなんだ?」
と言い、シンクと呼んだウサギの《ファーリー》の目を見る。モンスターの目だ。
「自分の生み出したものの方が心配か。ああ、やはりお前は鏡だ」
「そそそ、そんな! まさか! ボス、少し落ち着きましょう! 頭に昇った血を――」
鉄の拳でシンクを殴り飛ばした。シンクから潰された声が漏れた。トンネルに深々とめり込んでいる。
前方後方両方向から、パトカーのサイレンが聞こえてくる。上方から微かに聞こえてくる、プロペラの音も近い。警察が言わずとも分かる、完全に包囲されていることが。
「あの、ボス……」
バイクに跨ったままいた部下が、恐る恐る言った。押し黙ったままの“タンク”から、言いようのない恐怖を感じる。
ラウズは、バスのドライバー、乗客達に、迷惑料――バッグの中の現金を渡していた。
空っぽになったバッグは、折りたたまれ再びポシェットサイズに。脹らはぎのジッパーを開けて突っ込み、モルが待つバスの天井へ戻る。
ラウズは「ドライバーがロボットかアンドロイドじゃなくて助かったぜ」と心中で呟いた。もしもどちらかだとしたら――追いかけられている状況だろうと、バスは淡々と安全運行を続けていただろう。掴まって、全てまとめてスクラップにされて――
ラウズは、手にはめていたグローブを外そうとした――アジトにて、金庫の中身をバッグに納める際も、装備していた。アッシュグレーのポリマー製で、手首部分が柔らかく分厚いブレスレットになっている。ブランド名、穴、模様、これといったアピールポイントは皆無だ――
通過したトンネルの方から、爆発音が響いた。ラウズとモルを追い掛けていた、警察ヘリに乗るスナイパーがライフルのスコープで確認する。
“タンク”が、荒削りの無骨な鉄の多面ダイスとなり転がっていた。先刻の二足歩行よりも速い。しかし低予算で作られた影響か、細かな方向転換は全く出来ないようだ。
壁を破壊し高速道路から落下しては、元の状態で跳んで戻り――この時に、疲弊と憤怒で歪んだ表情が一瞬見える。体力の消耗が凄まじいのだろうが、怒りが限界を超越してもいるのだろう――手足が“タンク”を覆うよう変形していき、すぐさま鉄のダイスへと化けて転がり出す。賞賛ものの執念だ。
「モル、これ持って先に行っててくれ!」
肩に掛けていた、金品が詰まったバッグを投げ渡し、黒い柄と白い柄を逆手に持ち、ボタンを押す。
黒い柄から白い光の、白い柄から黒い光の刃が、小指側から飛び出す。どちらも全く同じ、カッターナイフの刃に似た薄さと形をしている。
「オッケー、後でね!」
と言って、モルはバッグを肩に掛ける。
ラウズは照明へ向かって飛びかかった。弧を描く照明の首を尻尾で掴み、ぐるりと一回転大車輪。尻尾を離し、丸めた体を大回転させ飛び上がる。右拳と両足の三点、全くぶれない着地をする。
ラウズが顔を上げる。ゴーグルに映る、鉄のダイスのサイズが、だんだんと肥大していく。アクセルベタ踏みの大型トラックが、ひき殺す気満々で迫ってきているようだ。
ラウズが跳び上がった。
鉄のダイスを飛び越え、すれ違う。
ブラックとホワイトの光の刃――
体を回転させる――
鉄のダイスを、滅多切りにしていく――
ラウズが着地すると、パワードスーツがバラバラに解体し、
「ぐおおおおおっ!!」
“タンク”が苦痛の叫びをあげながら、殻を破るように姿を現し、倒れ伏せる。
銃弾が効かない体のあちこちは、出血は一切ないが、焼けた斬り傷だらけであった。自慢であっただろう白いタキシードスーツ、その下の黒いワイシャツも、ズタズタにされ切れ目だらけとなっている。
「やっぱり薄くなってたか」
と言いながら、パワードスーツの破片を拾い上げる。ダイスの状態になると、装甲が均等に行き渡る、即ち装甲が薄くなる。ラウズが睨んだ通りだった。
「あんたさ、しつこすぎだよ」
と、拾い上げた破片を、後ろへ投げ捨てながらラウズは言った。
“タンク”は、首をラウズのいる後ろへ向け、十字に斬られた火傷で塞がった目を見せつける。よろよろと立ち上がりながら、
「テメエ……」
と、荒い呼吸の中、かすれた声で言った。
残った目がおかしくなったか、ラウズの姿が、徐々に空気に溶けていくよう消えていく。ブラックとホワイトの、光の刃だけが宙に浮いている。
目がおかしくなったのではない。消えたのだ。一体なぜ――刃も消えた――何が起こっている――“タンク”の頭は、パニックの万力に挟まれ、締め上げられていく。
声に出せず、表情だけで叫びを上げた。
“タンク”の丸い背中に、激痛が走った。大きなバツの字が刻まれていた。出血はないが、赤黒く熱を帯びている。
「次は、どこがいい?」
姿が見えないラウズの声が言った。その淡々とした声は、怒りを恐怖へと変えていく。
「尻尾――」
尻尾の先端近くの道に、瞬間的に焼けた音と、深い斬り跡が出来た。
「足首――手首――腿――腕――」
斬ろうという部位が聞こえると同時に、突然現れる刃が、道に深々と斬った跡をつける。おろおろと周りを見回しても、一切姿がない。
突然、“タンク”は両肩に、体重がかかったのを感じた。足を乗せられた感触――
「首――」
頭頂部から、ラウズの声が聞こえた。
ブラックとホワイトの、無機質な光の刃が、首に交差される。汗が一滴、“タンク”の鼻をなぞっていく。
怪しく輝く宝石箱のようなビルを背に、ラウズが姿を現す。“タンク”の肩に足を乗せてしゃがみ、腕を交差させ、逆手で刃を突きつけている。ブラフはない。下手な真似をすれば、ここで首をはねられ、死ぬ――そう感じた“タンク”は、
「……ま、まいった……」 唾を飲み込み、両手を上げてギブアップの意を示す。
「素性を探りたきゃ探ればいいさ。命が惜しくないなら、さ」
刃が消える。“タンク”の肩が軽くなった。
タイヤのない、丸いフォルムの浮遊パトカーが数台、到着した。数名の警察が、オートマチックハンドガン――引き金の上に付いたボタンを押すことで、実弾、麻酔、スタンガンに切り替わる優れもの――の銃口を“タンク”へ向けながら、パトカーから恐る恐る出てくる。
「う、動かないでください!」
ネコの《ファーリー》の新人婦警が、震えながら大声で言った。“タンク”は、傷だらけで、うなだれて、放心状態だった。
「連行する。立て」
グレーブラックのスーツを着た、タカの《ファーリー》がぶっきらぼうに言った。羽の片手で銃口を向けつつ“タンク”へ歩み寄る。
高速道路に設置されているカメラの映像を、彼はパトカーのカーナビで観ていた。光の刃に斬られ、翻弄され、脅された一部始終を。
「さて、分かってるよな」
スタンガンモードに切り替えられている銃口が、“タンク”の眼球に、触れるか触れないかギリギリの距離まで近づく。針の着いた弾丸が刺さり、電気を流し込む仕組みだが、“タンク”の岩石に等しい堅固な皮膚に撃ち込んでも、針が折れて無駄に終わる。“タンク”は、疲弊しきった表情で「ああ」とだけ言い、両手を小さく上げる。
警察ヘリ数台から伸びるライトが、カーテンコールの代わりに、“タンク”に一点集中する。
タカの《ファーリー》はふと、光の刃を振るっていた子供が、跳び去っていった方に視線を向ける。虹より豊富なカラーバリエーションで灯る無数のミニLEDが、軍隊のように規律正しく並び、そうして出来上がった電光看板が、コマーシャル――セキュリティーシステム会社の、無意味に等しい受賞歴に、わざとらしく驚くナレーションの声――を流していた。
タカの《ファーリー》は、スーツの内ポケットからタバコを一本とライターを取り出し、クチバシにくわえ火をつける。少々しわくちゃに歪んだタバコの先端が、オレンジとブラックに染まった。
鼻から蒸気機関のように副流煙を吐き出し、気に食わないと口に出す代わりに、小さく舌打ちをした。
《アンダートーン》の一部であり、《ミッドレンジ》の一部でもある、《小亜漢字圏》。漢字を使う文化を持つ国が、無理矢理に密集したような地域だ。
ヘッドランプ、テールランプが、無作為に動き回る、ホタルの軌道のような痕跡を残す。
高すぎず低すぎず、中途半端なビルが立ち並び、ネオンやLEDの、縦書きの看板が随所に取り付けられている――消費者金融、バッティングセンター、整形外科、ゴルフグッズ、漢方薬、卓球、デジタル・セクシャル・ファンランド――その光景はまるで、色彩豊かで、妖しさに満ちた、柱の林である。
すし屋ビルの自動ドアの入り口横。縁がスピーカーとなっている、巨大なモニターの水槽。マグロ、イカ、タコ、サーモン、アジ――店内で召し上がれる立体映像のメニューが、優雅に泳ぎ回っている。スピーカーの客引きは、ネタは全て天然モノと謳っているが、十中八九、下の階層で出てくるネタは、培養液で手早く強制的に成長させた、養殖モノだろう。それでも店内は、どの階も満員である。会社員、経営者、家族客、旅行者――
グレーのスリーピース・スーツを着た、ふくよかなフクロウの《ファーリー》の中年男性が、初老男性の《ヒューム》の職人から、注文したネタを受け取った。艶やかに煌めく、ピンクの大トロの握りが、緒のない下駄に乗っている。醤油はつけず、箸ではなく毛羽の手で掴み、直接口へと運んでいく――
イヌの鼻と耳、両腕を持った《ハーフ・ファー》の男の子が、頭が悪そうに大声で喋っている。シミだらけの面を下げた、中年女性の《ヒューム》が、頭を無闇に殴りつけて注意する。イヌの《ファーリー》のくたびれた夫は、ベルトコンベアが運ぶ寿司が乗った皿を、取って、箸で寿司をとり、小皿に注いだ醤油につけて口へ――腹が満ちるまで、漫然と繰り返している。
ネオンの韓国語で、焼き肉とだけ書かれた、シンプルな看板を掲げる店がある。店舗はブラウンカラーのコンクリート製だ。屋根が高い影響により、二階建てとは思えない高さを誇っている。
もやがかかった自動ドアの入り口の、左右の斜め上に、横縞の換気口が付いている。空腹に厳しい香りで作られた、蒸気に似た煙が吐き出されている。肉、キムチ、コチュジャン――
こじんまりとしたキッチンと、カウンターが合体したと言える、中華料理の移動屋台がある。屋根の端に垂れ下がる布に、墨と筆で描かれた「TAKE OUT」の文字。目の前で調理した料理を、持ち帰り用の箱に詰めて渡してくれる。丸イス――足の塗装が、ところどころ剥がれ、クッション部分のスポンジも見えている代物が――も幾つかある為、その場で食べていくことも可能だ。本日は満員の為、用意できるイスがないようだ。
豊富な内容により、サイズが大きくなったメニュー表が、カウンターの上で、ドンと大きな存在感を放っている。料理――チャーハン、チンジャオロース、ホイコーロ、ユーリンチー水餃子――から、飲料――ウーロン茶、紹興酒、白酒、養命酒、ビール――、さらにデザート――団子、饅頭、杏仁豆腐――まで、屋台とは思えない充実っぷりだ。
パープルのチャイナドレスが、エロティックに眩しい、クジャクの《ファーリー》の女性が、「また来てね」と艶めかしく言い、持ち帰りの麻婆豆腐を、注文した客に手渡した。豊満な鳩胸――ちらりと見える谷間は、羽毛と肉が合体したような乳房――が、触れそうなほどに近い。
豊歳線が目立つ、神経質な顔をした、彼女の《ヒューム》の旦那が作る、料理が目当ての客も入れば、彼女とまた会うことが目当ての者もいるだろう。もしくはその両方か。
《アンダートーン》寄りのエリア、一件の雑居ビルがある。屋上には、気球と瓜二つの電球に囲まれた、真四角の看板が取り付けられている。黄色い下地に、大きな赤い字で、テレクラとある――時代遅れの、旧式な風俗店が軒を連ねる、《ヨシワラ》、と呼ばれる場所だ。衝撃的な快楽は最新式には劣るが、実体験可能な博物館のようで楽しい、と、なかなかの人気を誇っているようだ。好きな種類の《ファーリー》と、戯れることの出来るソープランド――好きな格好をさせて遊べるイメクラ――奉仕してもらえるピンクサロン――本能と欲望が人にある限り、ここが無くなることは無いだろう。
ソープランドビル最上階の電光看板。そこにモルは腰掛けていた。淡いピンク色をした、こしあんの詰まった饅頭を、無垢な笑顔で頬張っている。中華料理の屋台で、持ち帰りで購入したものだ。ほのかな桃の香りが、モルの鼻を通過し、食欲を促進させる。
電光看板のコマーシャルが変わる。着物を着た、キツネの耳と鼻を持つ、《ハーフ・ファー》の女性が映し出された。拡大された顔の横に、コーラ味のキャンディに見える、茶色い丸薬をつまんでいる。
「よっ、待たせたな」
ラウズがモルの横に着地して言った。ベルトに掛かった二つの柄が、着地の反動で風鈴のように揺れる。
「お疲れ!」
とモルは言って、サングラスを頭に乗せ、食べかけの饅頭をくわえて立ち上がる。左手の箱から、新しい饅頭を取り出し、ラウズに投げ渡す。ふらつきもせず、右手でゴーグルを額へ上げ、左手で饅頭を、潰すことなく受け取った。
キツネの《ハーフ・ファー》が、口に含んだ丸薬の効果を口にする。正体は、避妊薬だった
「これどうしよっか? このまま渡しに行く?」
たすき掛けにしている、金品が詰まったカバンを、軽くパシパシと叩く。
「寝てるだろ。明日にしよう」
とラウズは言って、マスクを下げ、タートルネックへ戻す。渡された饅頭を頬張った。
「それもそうだね、それじゃ、戻ろっか!」
モルがサングラスをかけ直し、ラウズは「よっしゃ」と言いながら、ゴーグルをかけ直す。
「ね、どっちが早く戻れるか競争しない?」
ラウズはほんの一瞬だけ――命を奪ってやろうか、という、命がけのハッタリで終わった激突の後に、また勝負事か――と思った。目がサングラスで隠れていても、モルが純粋に張り切ってるのが分かる。ラウズの頭の中から、余計な考えは吹き飛んだ。
「そいつはハンデってことか?」
満タンのバッグを見つめながら言った。
「こんなのハンデに入らないでしょ!」
「さすが。それじゃあ、モルが勝ったらバナナ奢るよ」
「ラウズが勝ったらリンゴ奢るね!」
お互いの賞品が決まったところで、帰宅のレースの開幕となった。