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3rd 過去(パスト)――サーラ

 相手の右の肩が、微かに動いた。でも、それはフェイントだった。

 相手の左の拳が、彼の、顔に向かって伸びている。左ストレート、ってやつね。

 彼は見逃さなかった。がら空きの左わき腹を。右斜め前へしゃがんでいきつつ、左フックをそこに打ち込んだ。

 相手の顔が痛みで歪んでる。相手もプロのファイターなんでしょうけど、平然と出来る方がおかしいわ。岩も砕けるハンマーで、鋭く殴り抜けられたようなものだもの。常人なら、死んでしまってもおかしくない。

 すぐに鋭い右ボディブローが、相手の分厚い割れた腹筋に、一瞬だけど、深々とめり込んだ。ほんの少しだけ、腰が曲がって、頭を差し出した。

 稲光が走ったようだった。私は、騒音の泉に落とされたみたい。他の声に負けないように、とにかく彼の名前を叫んだ。彼を褒めた。彼への好意を飛ばした。騒音の泉の女神様、もしも居ましたら、どうか彼に、タイラー様に、私の声を届けてください!


 全てのバトルが終わった。祭りの後の寂しさと、外の涼しい空気が、なんだか心地よく感じる。さて、賭けに勝ったお金は、何に使おうかしら――たまには、ボスだけじゃなくて、あの二人にも、何かおごってあげようかしら。彼の挙動を、逐一目で追えるようになれたのは、彼をずっと見てただけじゃなくて、多分、あの二人のジャグリングを眺め続けてたから、と、思うし。

「なあ、姉ちゃん」 酒やけした、気持ちの悪い声が、私を後ろから呼びかけた。ああ、振り向きたくない。逃げようかしら。でも――

「あっ……」

 前から、薄汚い身なりの、《ヒューム》の中年男が、こっちに近づいてる。ヨダレを垂らしたまま、バタフライナイフを握ってる。一本道で、はさみ打ちになってしまった。サイアクだわ。

 踵を返して振り向いたら、呼びかけた声の主がよろよろと近づいてた。毒々しいパープルの、全身イボだらけの、カエルの《ファーリー》だった。目がうつろで、生気を感じられない。きっとこいつら、麻薬中毒者ジャンキーだわ。そいつが口を開いた。

「カネを、くれねえか……あいつと、オレの、分を、さ……」

 と言った。しかもピストルを構えてた。素直に渡せば、素直に見逃してくれる保証がない。お金を置いて逃げても、また追いかけてくるんじゃ――どうしよう、どうしよう――涙が出てきた。どうしてこんな――

 殴打の音が響いた。音の方へ向くと、

 ――信じられない、これは、ドラマ? ムービー? それとも、夢?

 タイラー様の拳が、《ヒューム》をくの字に曲げていた。拳が離れると、そのまま無様に倒れ伏せた。

「ひ、ひいい!」

 銃口がタイラー様に向けられて、火を噴いた。庇うべきだったのに、私は頭の上の耳を塞ぎ、へたり込んでしまった。

「グエッ」

 次に聞こえたのは、潰されたような、酒やけの声だった。カエルの《ファーリー》が、泡を吹いて、お腹を押さえて、内股で倒れ、痙攣していた。

 憧れの方の、タイラー様のご尊顔が、見上げた先に、手で触れられる距離にあった。鋭いトラの眼光が、じっと私の目を見据えてくれている。男が私を見るとき、殆ど胸や体、顔ばかりを見てる。虫ずが走る、大嫌いな視線だ。やっぱり、タイラー様は、普通の男とは違う。

「……」

 彼はふいと目をそらして、無言で立ち去ろうとした。

「あっ、待ってください!」

 私はすぐに呼び止めた。危うくそのまま、彼の背中を見送るところだった。落ち着いて私。まずは、お礼よ。

「あの、ありがとうございました!」

 帰り道のボディガードを頼みたかったけど、そんな図々しいこと、私には出来ない――嫌われるのが、恐ろしいから。

「えっと、その、ぜひ!何かお礼をさせてください!」

 頭を下げて、片目をあけて、恐る恐る彼を見てみた。じっと私を見つめてる。あっ、近づいてきた!

「……安宿チープホテルでいい……宿代を頼む……」

 初めて彼の肉声を聞けた。すごくかっこいい!ファンだ、っていう贔屓目とフィルターを取り払っても、絶対に、誰もがそう思う声だわ――ただ、疲労が感じられるのは分かる。激しいファイトをした後なのだから。悲哀、を感じられるのは、なぜなのかしら――

安宿チープホテル、ですか?い、いいですよ!」

 少し言葉がつっかえた。でも、憧れの人が目の前にいるんだもの。そんな時は、誰だって、きっと言葉を噛んでしまうわ。


 ここでいい、と決めた安宿チープホテルは、私も利用したことない、利用することのないものだった。一体いつから営業をしているのかしら。壁はところどころ剥がれ、まるで皮膚病スキンシットだわ。廊下のフローリングは、いちいち軋んで歌い出すし、取り上げていくのが面倒なほど、欠点だらけ。


 私が案内された部屋の隣が、タイラー様の部屋となっている。

「……恩に着る……」

 彼は私の目を見てそう言って、部屋に入った。彼にお礼を言われた。ああ、耳に、鼓膜に、脳に、幸福感が満ちている。

 部屋は意外と、綺麗なものだった。シャワーもある。誰が何を描いたのか、よくわからない絵が壁にぶら下がっている。この壁一枚を隔てた向こうに、彼がいる――

「あら?」

 私は思わずそう言った。何となくずらした絵の裏に、なかなか大きな隙間が出来ていたから。

「……バレない、わよね」

 と私は頭の中で呟いて、思い切って覗いてみた。せり上がってきた好奇心に、呆気なく負けてしまった。

 私の視線の先に、タイラー様がいる。ソファーに座って、たすき掛けのブラウンのショルダーバッグから、何かを取り出した。サングラス、かしら。耳にかかる部分に、イヤホンが付いている。見覚えがあった。何かを選べとか謳ってる、ゲームのコマーシャル、だったかしら――

 驚くべき光景が、私に襲いかかった。

 サングラスとイヤホンをしっかりと着け、蝶番にあるスイッチを押したら、彼の体中をなぞるように、ブルーライトのラインが巡っていき――サングラスとイヤホンに、吸い込まれるように消えてしまった。サングラスが、ヘリコプターの着陸のように、ゆっくりとソファーに降り立った。

 一体、何が起きたというの?彼は、タイラー様は、どこへ行ってしまったの?どこへ消えてしまったの?部屋へ入って確認は、出来ない。部屋のカギを閉めた音を、さっき聞いている。外からは、いや、落ちたりしたら大変だわ。ああ、混乱してきた。

「……やっぱり、夢なのかしら。」

 そう呟いた途端、どっと疲れが私に取り憑いた。夢じゃないのは自覚してるし、現実逃避してるのも分かってる。今日はこのまま寝てしまおう、シャワーを浴びて、支度をしたら、まっすぐベッドに飛び込むのよ。 私を起こしたのは、朝日ではなく、彼の咆哮シャウトだった。まるで少しでも誤魔化すために出したような。誤魔化す、いったい何を――壁が薄いおかげか、呻いているのが聞こえてくる。何があったのかしら――

 すぐに呼んで来てくれたホテルマンが、スペアキーで彼の部屋のドアを開けてくれた。落ち着いて考えたら、ホテルマンより、ドクターを呼んだ方が良かったわね。

「うっ、くっ……」

 部屋に入ると、彼はサングラスを手に持ってぶらさげて、ソファーにもたれかかり、苦悶の表情を天井に向けていた。大きなケガは見当たらないけど、汗だくの肉体が、昨日よりも逞しくなっている。腕、胸板、腹筋、肩、どの箇所も――

「ダンナ、大丈夫かい?救急連絡(E・コール)は――」

「いや、いい……騒がせてすまない……」

 と言う彼の言葉を聞いたホテルマンは、

「そ、そうかい……とりあえず、俺は戻るぞ?」

 不安と疑問が混ざった顔で戻っていった。

 私は勇気を出して、彼に聞いてみた。

「なにが、あったんですか?」

 彼は深呼吸をした。少し落ち着いた様子になり、こう言った。

「何でもない……君には関係ない……」

  正直、予想していた返答だった。私を君と呼んでくれたことは、ちょっぴり嬉しくはあったけど、後半の言葉に、少しだけ寂しさと、ムカつきを感じた。私はその少しの感情エモに、従ってみることにした。

「何があったか、言ってください。私はあなたが心配なんです。何でもないとか、余計なお世話だとか、クソみたいな返事は却下します」

 クソだなんて、我ながら下品な――怒らせてしまったかという不安が過ぎった。彼が呆気にとられた顔で、私をじっと見ている。こらえているように、小さく笑っている。ああ、杞憂で良かったわ。私は内心で、胸をなで下ろした。

「……さっきこいつをやり終えた後に、全身に激痛が走ってな……」

 彼は手に持っていたサングラスを、ひらひらと揺すっている。

「コマーシャルでやってる、ゲームですよね。実は――」

 私は、昨日見た光景を彼に話した。サングラスに吸収されていくタイラー様、というと、ちょっぴりホラーコメディのようだわ。

 彼は驚いた様子でサングラスを見つめた。

「あの世界は、仮初めの世界じゃないのか? 確かにリアリティはありすぎるぐらいだった。一体どうなってる……」

 彼はそう呟いていた。困惑してるということは、今まで、自分が吸い込まれてたのに気付いていなかった、ということかしら。

「あの、そのゲームで、一体どんな遊びを?」

 と私は言った。彼は少し間をおいてから、真顔で私の目を見つめた。

「……俺は、プライベートを干渉されるのが好きじゃない。」

 私だってそうだ。不躾なクエスチョンを投げかけちゃった。でも彼は、何か考えてる様子で私を見ている。

「君から、自分のことを話せば、俺も話そう……もし、俺の過去を知りたいなら、君も自分の過去から話せ。俺はそれを受け入れる。君は、受け入れられるかは分からないが……」

 饒舌なタイラー様を、初めて見た。もし、彼の孤独感を、私が変えられるなら――過去。私の、過去――

 私が何なのか、分かってる。生まれた理由は、分かってる。その理由の存在も、覚えてる。

 私は正直、思い出したくない――――――でも、憧れの人が、受け入れると、はっきり言った。私は、それを信じることにした。


 私が産まれたのは、ある店の、ライムグリーンのジュースが満ちた、円柱のガラスのケースの中だ。小さい頃の記憶というものがないのは、きっと、その中で育ったからだと思う。

 そのある店のフロントで、

「お客様、いかがですか?」

 と、私の隣の白衣を着た男が、私の目の前の男に言った。

 目の前の醜い脂肪の塊は、潰れた鼻で荒く呼吸して、ソバカスだらけの顔を、にやついて汚く歪ませてる。

「うん、い、いいよ、サイコーだよ。ウサミミ、キョニュウ――」

 と籠もった声で言った。早口で、ぼそぼそと、気持ち悪く。

 不潔なくせ毛を右手で掻きながら、ぐっと力んだ表情に変わった――生ゴミのコラージュみたいだったわ――そいつの前に、ホログラムの口座画面が現れた。毒を持ったイモムシみたいな、太くて気持ち悪い指で画面を叩いている。

電子ウェブマネーでいいんだよね」

「ええ、もちろんでございます」

「――送金したよ、確認して」

 白衣の男は、青白くて気持ち悪い右手を握るようにして、親指の根元を人差し指で押した。目の前に現れたホログラムの画面を眺め、小さく頷いた。

「結構でございます」

 私は、そいつに無理矢理に手を握られ、早足で連れられていった。


 この店は――人工娼婦製造販売店アルツ・ラブドール・ストアと呼ばれる店だ――私は、この客の為に生まれた、性欲を満たす商品ツールで、そして、買われたんだ。


 私を買った客の――醜い動く脂肪の部屋に入れられた。敷かれっぱなしのぐちゃぐちゃに乱れた布団は、汗と栗の花のニオイがした。どこか私に似ている、アニメやコミックの女の子のポスターが、壁と天井にところ狭しと貼られてた。ゴミ箱に出来た、丸まったティッシュの山は、今にも雪崩を起こしそうだった。ブックシェルフに詰め込まれてるコミックは、背表紙からしていかがわしいものって分かる。恐怖で寒気がしてきた。

「ね、ねえ……」

 とそいつが言った。恐る恐る振り向くと、素っ裸で息を荒げてた。毛だらけで、アンバランスに足が細くて、汚いものがぶら下がって、まるで醜悪の権化だった。

「は、はい……」

 と私は言った。ホントは口を開くこと自体イヤだった。

 そいつの両腕が、肩から真っ二つに割れて、タコの足に変身チェンジしていった。風になびいてるみたいに、うねうねと揺れていた。

「気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い!」

 ひたすら頭の中で叫んでた。声が出せなかった。

「ゴシュジンサマって、言って……」

 イヤ、イヤ、イヤ、誰か助けて!

 私はがんばって首を横に振った。

「……そ、そっか。ちょっと反抗的な性格にしてくれってリクエストにあったから……」

 と、ぶつぶつ小声で早口で言っていた。火がついたような薄ら笑いが、すごくイヤなものだった。私はブックシェルフから、一番分厚いコミックを手にとって、思い切りそいつ目掛けて投げつけた。

 運が良かったんだと思う。投げつけたコミックの角が、そいつの目に当たった。泣きながらうずくまっていた。私は急いでその部屋から脱出した。


 私は行く宛もなく、《アンダートーン》をさ迷った。店に戻ったら、多分、いや、きっと、私は処分される。何度か男に襲われそうになって、そのたびに全力で逃げて――警察に助けを求めたけど、事情を話したら、購入者バイヤーの元に送られそうになった。

 もう限界だった。足も体も痛くて、歩くスタミナも尽きかけた。

 私は、偶然の神様がいたら、心から感謝を伝えたい。私は一件のバーの裏で、膝を抱えて震えていた。

「大丈夫か?」

 と誰かが言った。温かみと、父性を含んだ声だった。たくましくて、頼もしく見える、イノシシの《ファーリー》の男の人が、優しく手を差し出してくれていた――


 タイラー様が、真剣な表情で、じっと私を見てる。

気がつくと、私は泣いていた。涙がアゴまで伝わっていた。話してるうちに泣いてたのね、どうしてかな……

「そうか……ありがとう」

 彼が優しく私を抱きしめ、頭をなで、背中をさすってくれた。

「次は、あなたの番よ。タイラー様」

「様なんていらない、呼び捨てで構わない」

 と彼は言った。サイボーグの指で、優しく涙を拭ってくれた。

 彼に惹かれたのは、必然だったのかもしれない。

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