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届かない指先


「やっぱり視えるか」


 店長が言った。でもあたしは答えることができなかった。

 ヤコの映る銀の皿。それが置かれているテーブルに吸い寄せられるようにして歩いていくと、いまいちど、震える声で彼女を呼んだ。


「……ヤコ……!」


 返事は、ない。

 大体ヤコの姿も実際には見えない。見えているのは皿に映っているすこしぼやけた、白銀の光を帯びた淡い彼女の影だけ。

 でもヤコは──皿に映ったヤコの影は、あたしの声を聞いてうれしそうに尻尾を振った。短い尻尾を。

 生きて一緒にあたしと暮らしていた頃と同じに、はたはたと。


「ッ」


 あたしは目頭にこみあげる熱いものを感じた。いや、眼だけではない。喉にも、胸にも。そして何よりこの心に、あふれて押し寄せる激しく熱い感情があった。

 昨晩あれだけ泣いたというのに、またしても涙があっけなくポロポロと頬を転がり落ちていく。店長が横でなぜか頭を抱えている姿がちらりと見えたが、うっとうしいから黙殺!

 あたしはテーブルに両手をついてそこにいるはずのヤコに語りかけた。


「ヤコ、聞こえる? あたしが、視える?」


 それは奇妙な問いかけだったのかもしれなかった。一般的には、あちら側の存在からはあたし達が見えていて、こちら側からがあちらが視えない、というのが多い気がするから。

 でも不思議だったのだ。だって、この世から外れた霊という存在が、どうしてこの世に存在しているあたしを視ることができるのか。

 だから問いかけた。

 すると皿に映ったヤコは立ち上がって小さな口で鳴いた。

 いや、正確にはそうしようとしたのだろう。でも残念なことにその声はあたしには届かなかった。

 生きてた頃には鈴のように可愛く響いたヤコの声。

 あたしはここでようやく店長を振り返った。すると、あたしが何を言うより先に彼は頷いた。そして言った。


「大丈夫だ。見えてるって言ってる」

「……てんちょーは聞こえるの? 視えるだけじゃなくて?」

「まぁ、聞こえるってか、感じるな。ヤコの気持ちみたいなものを」

「なんて言ってるの?」


 あたしがそう聞いたのは、皿に映るヤコがしきりに何か鳴くしぐさを繰り返していたからだ。声が聞こえていたらさぞかしうるさいだろうという勢いで口を開閉してひげを上下させている。

 聞きたい、なのにもう届かない。

 すぐそこにヤコはいるのに、この手を伸ばしても、あたしと彼女が触れ合うことは叶わないんだ。

 困惑とせつなさにまた涙が滲んだが、ぐっと堪えてこぶしで拭った。

 店長はそんなあたしを見つめながら静かな声で通訳を始めた。


「お前が危険だって繰り返してる」

「キ、キケンー!?」


 驚愕に肩を跳ねさせたあたしにまぁ落ち着け、という風に片手を挙げながら彼は続ける。


「何でも”嫌なやつ”が近くにいるから、キケンだと。だから、危ないからあそこには出入りしないでと」

「嫌な奴ってだれ? あそこって?」

「大勢の人間が不特定多数出入りしている、巨大な建物。箱型の部屋に人間がたくさん詰め込まれて、集団で座ってるって。……たぶん大学のことだろ」

「大学にキケンなやつがいるって……?」


 あたしはぞっとした。背筋を悪寒が這い上がる。

 急に世界が敵に回ったようだ。いま、呼吸して肺に取り込んでいる空気さえ危ういナイフのようなものに感じられ、全身が冷やりと緊張してゆくのがわかる。

 危険。大学にいる”嫌な奴”のせいで? あたしが?

 なんで。

 あたし悪いことしたことはないし。

 口は悪いけど、正直だけがモットーだから、誰かを傷つけたり恨みを買ったりしたような記憶はない……。


 っていうか危険な奴って誰? 


 そこまで考えて真っ青になった。

 思わず椅子に座り込んでしまう。

 すると今までずっと立ち尽くしていた店長も椅子に座って足を組んだ。そしてしばしの沈黙のあと、半ば呆れたように、半ば感嘆したように息を吐いた。

 低い声が響く。


「てかお前、マジで信用してるんだな。こっちのこと」

「はぁ? 何言ってんの?」


 あたしは涙も忘れて大声を上げていた。店長らしくもない、臆病な一言だと驚いたからだ。


「今更すぎでしょ。大体、疑うような理由もないし」

「……だからさ。それに驚いてる。フツーは信じないだろう。疑うような理由がなくても信用する理由もないわけだし」


 店長はあたしから眼を逸らして天井を見上げた。喉のラインがはっきりと男性を感じさせて、思わず見とれそうになったけれど、咳払いして自分をコントロールした。


「あ、あるよ。ヤコ。そこにいるじゃん。視えるじゃん」

「そうだ。それが、事故に近いな」

「事故? ……って、あれ?」


 ぶつぶつした店長の物言いに消化不良を起こしてから、あたしはそこでハッと気が付いた。

 そういえば、あれ、おかしいな。

 なんであたしヤコが視えてるの?


「てんちょーっ!」

「うわっ、何だよ!?」


 突如大声を出したあたしに、店長は、彼にしてはほんとうに珍しく驚くという様子を露にした。

 座っていた椅子からびくっと背を起こして眼を真ん丸くしている。

 ビックリしたー、と息を吐いて腕を擦る、そんな彼の様子を目撃したことにあたしはかなり驚きつつ、でも一番自分自身に対して驚いていた。


「あ、あたしなんで? 何でヤコの姿が視えるの!?」

「……今更か? 今更すぎねぇか?」


 店長はえー、と声を発しながら眼を眇める。あたしはイラっとしながらも辛抱強く答えた。


「だって驚くより嬉しすぎたのよ! ヤコに会えて……このきれいな姿にもう一度会えるなんて。叶うなんて思ってもみなかった」


 そして銀の皿の横、ヤコがいる辺りに手を伸ばしてみる。

 指先はむなしく宙を切ったけれど、あたしはヤコに触れているつもりでそっと、手を動かした。撫でるように。

 すると皿に映るヤコがすこしだけ碧の瞳を細めたような……そんな気がした。


「……深沢」

「え? なに」


 店長が口を開く。あたしは銀の皿に魅入っていたことに気が付いてはっと彼を振り仰いだ。 

 すると彼の鋭い藍色の視線にぶつかった。

 店長は言った。


「よく聞け。さっきも言ったがこれは事故だ。本来なら、お前は視えない。というか視えるべきじゃない」

「……視えたほうがいい人とか、そうじゃない人がいるの?」

「いる。これは断言できる。どんな世界にも役割を持って生まれてきた存在ってもんがある。お前が絵を描くことも、俺が料理を作ることも、どんなに一見くだらなく見えても必ず意味がある。世界はそういう理の上に成り立っている」

「? 店長、よくわからない」

「霊に干渉できる力を持つ人間でなければ、霊が視えてはいけないってことだ」


 藍色の瞳に言いようのない感情を滲ませて、店長はあたしを真っ向から見据えた。低い声が天井の高いホールにしずかに響き渡った。


「そして、もしその例から漏れた場合、当事者たちには必ず何がしかの悪影響が出てしまう。──俺はそのことをお前に伝えたかった」




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