ドルチェ
「ヤコに会いたい」
「それは、無理なんだ。悪いけど」
あたしと店長は、閉店後の店でコーヒーをすすっていた。
薄暗い店内にさしこむ月の明かり。輝く銀器。
青と白のテーブルクロスの織りなすあざやかな色の対比。
きれいだけれど、どこを見てもヤコはいない。
「……店長は、霊感あるんですか」
「これをそう呼ぶのなら」
そうなんだろうな、と彼は言った。
帽子を取って、疲れたように顔を手でこすり、コーヒーをまた一口すする。
あたしがじっとその様子を見ていると、やがて気付いて眉をひそめた。
「なんだ。どうした。そんなに俺が珍しいか?」
「そうじゃなくて。羨ましいんです」
「うらやましい?」
「ヤコが──店長にはヤコが見えてるんでしょ。あたしにはもう見えない。どんなに願っても。ヤコがどんなふうに目を輝かせているか。尻尾を揺らしてるか。どんなふうにあくびをしてるか、歩いてるか、座ってるか」
しまった。
喋っているうちにただのおセンチな口上になってしまった。
こんなバカみたいなセリフ、誰にも聞かせたくなんてないのに。
ましてやオニトリ店長に聞かせてしまうなどと、なんたる失態。
……しかし。しかしですよ。
店長は笑わなかった。
むしろ逆にひどく優しげに、目を細めて、低い声を和らげた。
「勘違いするなよ、深沢」
あたしは黙って彼を見た。
テーブルの上にはさっきから、まったく手のつけられていないパンナコッタが鎮座している。
中央のガラスの器には、一輪の花が水に浮かべられて踊っていた。
「見えることが大事なんじゃない。考えるべきは、なぜヤコがお前のそばにいるかってことだ」
「それは……成仏出来てないからじゃないの?」
「だからなんで」
「未練があるから」
答えると、店長は深いため息をついてうなだれた。
手のひらで顔を覆い、なんかぶつぶつ言っている。
バカ、とか聴こえた気がした。
なんだとー!
「今なんて言いましたっ、店長」
「バカっつった」
「言いすぎ! 前から思ってたけど店長バカバカ言いすぎだよ!」
「それはお前がバカだからだろ」
だからー!!
いきり立つあたしが立ち上がろうとしたのを、店長の手が制した。
と、言っても、彼はただ広げた手のひらをあたしの顔めがけて突き出しただけ。それだけ。
それだけで、あたしは動けなくなった。
きーっ。
「前にも言ったが、お前は無茶をしすぎなんだ」
「だって忙しいんだもの。しょうがないじゃん!」
「周りが心配してるのを自覚しろ。死んだ飼い猫に心配されるって、どんだけだよ」
あたしはうっと言葉に詰まった。
言い返せない。
店長が呆れたようにまたため息ひとつ。
「いいか。幽霊とかそーゆーもんは、よほど強い心残りがなければこの世には残留しないんだよ。それだけで、お前がどんだけバカかってことがわかるもんだろ」
「……だから、言いすぎだっつーの。大体、店長はなんでそんな力があるのよ」
「さあな。ガキの頃に両親を亡くして、このレストランの前オーナーである爺さんに引き取られた。それからだな」
俺が視えるようになったのは。
店長は言った。淡々と。
あたしは思わず言葉をなくした。
「たぶん、両親に会いたかったんだろう、俺も。お前のように」
「……てんちょ」
「俺の名前、蒼次郎っていうんだけどな」
またしても店長は話を唐突に切り替えた。
あたしはもう何がなんだかわからなかったので、黙って聞くことにした。
はい、と頷いてから、ひとこと考えて添えた。
「知ってます」
すると店長は眼を丸くしたが、すぐに目を逸らした。
あたしはその仕草にああ、と思った。
この人もその心の中に、絶対に譲れない何かを持っている。
「……爺さんの名前が蒼輔と言った。俺の名はそこから取られたんだ。両親が交通事故で、しかも俺を守るために死んで。俺はどうしていいのかわからなかった。そこを爺さんに引き取られて、一緒に暮らすことになった。イタリア人の血が混じってるとかで、陽気でうるっさい奴でなー。俺は落ち込んでることすら許されなかった」
店長の顔に笑みが咲いた。大事なひとを想う顔だ。
あたしは胸があつくなるのを感じた。
「爺さんは料理がうまかったんだよ。何しろ、当時はすでにこのレストランを開いてたからな。俺がめそめそしてると、すぐ頭をど突いてきやがって、優しかったとは言い難い。でも、料理を作ってくれた。毎日。」
「まいにち?」
「そう。──こうやって、閉店したあとの店でこっそり、パスタだの、ニョッキだの。うまかったなあ」
嬉しそうに、懐かしそうに、店長は眼を閉じた。
きっと、おじいさんの前でも同じ顔をしてきたのだ。
あたしにはわかった。
「あれが最初だった。料理が人を笑顔にする力があるって知ったのは。それから俺、見よう見まねで爺さん手伝うようになってさ。何度も怒鳴られたし、殴られたけど。でも楽しかった。両親のことでふさぎこむことも減って。そのうち爺さんより料理うまくなったんだぜ」
そう。
「でも、ドルチェは何度やっても爺さんに勝てなくてなー。なんでだろ、今でもわかんねぇ。創り方は変わらない筈なのに、決定的に味が違って。ジジイ、秘訣を教えろよ! って言ってたのに、結局教えてくれないまま、あの人は天国に行っちまった」
そうなんだね。
「会いたいなあ。爺さんにも、両親にも。まあ、それで俺はこうやって料理人になれたわけだから、文句言わないけどさ。……って、深沢?」
店長が、あたしのほうを向いたのがわかった。
そして彼が驚いたのもわかった。
無理もない。
だってあたし──泣いていたから。
大粒の涙が、あとから後からあふれて、止まらない。
手のひらで押さえても到底おいつかない。
なぜだかはわからない。でも。
とても……切なくて、胸があたたかくて、たまらなかった。
「深沢」
「っはは……ヤだな、もう。てんちょう、が、そんな良い顔するから」
笑いながらも、あたしはさらに泣いた。
そのままずーっと、涙が枯れるまで。
体中に湧き起こるこの衝動が、おさまるまで。
店長の前で、静かに号泣した。