視えるもの、視えないもの
「店長」
「皿出せ、深沢」
話聴いてよ、てんちょー。
「出しますけど。店長、あのですね」
「なんだ。邪魔すんな」
「だったらそもそも呼ばないで下さい」
「ほっほう。お前、店長に向かってそんな口利いていいのか? 時給下げるぞ」
おっ、横暴!!
にやにや笑いながらそんなセリフを、そんなセリフを吐くとは、なんて極悪非道な奴!
あたしはブチ切れそうになったが、ちかごろは怒ることすら疲れるので、けっきょくやめた。
代わりにこれみよがしなため息を大きくひとつ吐きだして、棚から洗った皿を出してくる。
「店長って、なんで店長なんですかね。フシギ。そんな性格で」
「はあ? そりゃお前、俺のカリスマの御蔭に決まってるだろうが」
「否定はしませんが、個人的に嫌い。そーゆーのって」
「タメ口きいてんじゃねえぞ」
「だってタメでしょ。」
そうなのだ。
実はあたし、29歳。
専門学校を出て、一度社会人をやってからこの大学に入ったので、けっこー歳がいっている。
そしてこの若き店長も同い年。
あたしが店長にタメ口を利くのにはそれなりの理由がちゃんとあったのですよ。おほほ。
しかし、キッチンの店長はボール片手に固まっている。
あたしは横目で笑ってやった。
「あーら、ご存じありませんでした?」
「……いや。正直に言うと、知っていた。大地が言ってたからな」
あいつはスパイか。
内心で突っ込むあたしを余所に、店長ははー、とため息をつきながらパンナコッタをお皿によそった。
「だが本当にほんとだとは思ってなかったよ。ショックだなあ」
「ちょっと、どういう意味よ」
「なあ、それより、お前黒猫飼ってたりした?」
急に話がすりかわった。
真っ白な皿によそわれた、ほんのりミルクティーべージュ色のパンナコッタが目の前にやってくる。
怒ろうとしていたあたしはまたしてもくっ、と拳をひっこめるしかなかった。
いい匂い。
いい匂いなんだよ! まったく。
店長の創るものは、腹立つくらいなんでもさー。
「ボール一杯食べてやる」
「食えるんなら食ってみろ」
「猫なら飼ってましたよ。死にましたけど。大地に聞いたんでしょ」
「いーや。正確に言うと、あいつに聞くより先にたぶん知ってはいた」
よくわからない言い方を店長はした。
あたしは怪訝な顔をしたと思う。
パンナコッタを調理用のテーブルに置くと、店長もキッチンから出てきた。
手を洗いながら背中で喋る。
「……信じる信じないはお前の勝手だが」
「え?」
「お前のまわりをこの2週間くらい、黒い猫がうろちょろしてる」
「……え?」
ヤコ?
あたしは恋しさと未練のあまり、店長の言葉に飛びついた。
疑う余地などない。
思わず店長に駆け寄り、彼に詰め寄っていた。
「ヤコのこと? それって、尻尾の長い、左足の片方だけ白い黒猫?」
「ヤコか。いい名前だな」
店長は手を洗い終えてふりかえった。
その顔は笑っていた。
いつかのように、とてもやさしく。
彼はあたしを見ながら、照明の落ちた店の方へ顎をしゃくった。
「せっかくだし店で食うか。」
「店長! 答えてよ、ほんとうにヤコがいるの? あたしのそばに」
あたしは答えを聞きたいあまり、苛立ちながら店長に何度もたずねた。
必死さのあまり泣き出しそうである。
会いたい。
ヤコが近くにいるのなら、あと一度だけでもいい、たった一度でいいから、あの黒絹のようなやわらかい毛並みに触れたかった。
そして思い切り抱きしめて、言いたかった。
『ヤコ、ごめんね』と。
「……疑われるかと思っていたが」
店長はじっとあたしを見つめてきた。
あたしはもはや涙ぐんでいる。
だが泣き顔を見られることがくやしいと思うより、いまは大事なことがあった。
「だってそんなこと、あたしには推し量れないもの。答えてよ、店長!」
「ああ。綺麗な、とてもきれいな黒猫だよ。お前の言うとおり、左足だけ白くて、尻尾がすごく長い。お前の足元をいつも先に立って歩いてる」
ヤコだ。
あたしは確信した。
ヤコはいつもあたしに自分の前を歩かせなかった。
気位が高くて。
そのくせ、ハトやスズメを見つけると、一目散に飛びついて行ってあたしによこした。
「ヤコ……!」
あたしは泣き出してしまった。
どこにいるの。ヤコ。
どうしてあたしのそばにいるの。
会いたいわ。戻ってきて。
また触らせて。
「参ったな……」
銀に染まった視界のむこうで、店長がそんなことを言うのが聴こえた。
なんだか困った声みたい。
彼のそんな声を聞くのは初めてだったので、驚いたあたしは思わず顔を上げた。
そして眼と眼が合い、お互いにちいさく吹き出してしまった。