ヤコ
猫の名前はヤコといった。
ほんとうは、黒絹のごとく美しい毛並みだったから夜光とつけたのだが、名前 をよぶときいつも響きがヤコとなった。
可愛い子だった。
アパートのすぐ近くに捨てられていて、あたしは躊躇なく拾って帰った。
ほとんど鳴かないし、トイレのしつけもできていて、誰にも気付かれず飼うことができた。
ヤコは猫らしく気位が高いが、あたしが家に帰るといつも、きちんと玄関まで出迎えてくれた。
そのあと餌をねだるのがちょっと小憎たらしいんだけれども、満腹になるとさりげなくあたしの布団の上で寝ていて、憎めなかった。
アパートに閉じ込めておくわけにはいかず、あたしはいつも出かけるときヤコを外に出していた。
ヤコも出たがったし、でもあたしが家に帰ると必ず一緒に帰ってきたので、問題はないと思ってた。
でもたぶんヤコは今年の猛暑にやられた。
見る間に痩せて、元気がなくなった。
食べることが大好きだったのに、ほとんど何も食べなくて、寝ているばかりになった。
あたしは彼女を病院に連れて行ったが、夏バテだと言われた。
なのにヤコは外に出たがって……でも、アパートのあの、暑すぎる部屋にずっと一人にしておくわけにはいかなかった。
それがまずかったのに。
あたしは今でも悔やんでいる。
ヤコのそばにいてやらなかったこと。
バイトと学校の課題で、家に居る時間が少なかったことを。
ヤコは──ヤコの頼れる人間は、あたしだけだったというのに。
「悪化してるねー」
大地が言った。
あたしは白いカンバスを前に、完全にうなだれていた。
提出期限まであと一週間。今度こそ、何も力がない。
真っ白。まっしろだ。
いっそのことこのままカンバスだけ提出しようか……いやいや、そんなことしたら退学だ。
親父に逆らってまで入った大学なのに。
「……透ちゃん、だいじょーぶ?」
「わかんないわ。ごめん大地、なんか用事?」
「いや。うん。あのね、オニトリ店長が、”深沢の様子をうかがって、無理そうなら休ませろ”ってメールしてきたもんだから」
メール。
「オニトリ店長とメールなんかしてんだ。大地」
「まあね。で、どうなの? 大丈夫そう? 今日、6時からラストまで入ってるでしょ」
「行くよ。選択権はない」
「あるよ。ま、透ちゃんが行くって言うなら、誰も止めらんない。ただしその代わり、仕事が終わったら店長のとこに行けってさ」
「なにそれ。それも伝言?」
「そうだよ」
大地は風のように微笑んで、それからふと真顔になった。
「……それからさ。犯人って、見つかったの?」
なんの、とは彼は言わない。だがあたしにはわかった。ていうか普通わかるだろう。よほどの馬鹿か鈍感じゃなければ。
だから首を振ってうっとうしい前髪を手でかきあげながら答えた。
「ううん。管理人はちゃんと見回りしたとき戸締り確認したって言ってるし、大体あたしなんかの絵を破壊して利得のある人なんていないし」
「じゃあ誰がやったの」
「さあ? ユーレイかも」
適当に言って自嘲すると、大地がふいに背中をぽんぽんしてくれた。
予想外のスキンシップにえ、と振り向くと、既に彼は入り口へと歩きながら後姿で手を振っている。
……読めないな。いいひとには違いないけど。
あたしは首をめぐらせて大地の後ろ姿を見送ったあと、ふたたびカンバスに向き直った。
いま、心の中には何もない。
でも、何か描かなきゃ。あたしには描く必要がある。あたしがあたしでいるために。
こんな時だからこそ。
「ヤコ……」
暑いね、ヤコ。
苦しかったね、ヤコ。
ごめんね。
もうあなたはどこにもいないのね。
***
店長は容赦がない。
それはつまり彼がどんな人間がどんな状況下にいようと、平等に扱ってくれるということだ。
「深沢! オーダー取りに行け、ぼやっとするな!」
「キャッシャーで客がお待ちだぞ、待たせることだけはするなっていつも言ってんだろうが!」
「深沢!」
「深沢ッ」
……オニトリ店長と呼ばれる理由の一つはこの遠慮のないシャウトである。
彼は厨房から、料理を作りつつ、あたしたちホールの人間を常に見張っているのである。
店長の腕が確かだから、店はいつも賑わっている。
だからあたしたちはいつも厳しくしつけられていた。
ふだんはうるさいと思うだけのシャウトであるが、今日のように凹んだ日にはもはや逆にありがたい。
いやー、ほんとによく見てるよ、店長。
客の名前も覚えてるし。料理作るの速いし。
加えて自身の接客は、丁寧だけど媚びなくて、なんとなく気高いんだよね。
そこは見習いたいなあって思っていた。
人間としてはちょっと眉つばものだけど、料理人としての店長は、間違いなく「クール」だ。
「お疲れ様でした!」
閉店。
帽子を取って終礼ののち、ぞろぞろ帰る仲間たち。
そしてその流れとは逆の方向に進むあたし。
店長は厨房にいた。
あたしはまた帽子をかぶりながら声をかけた。
「店長ー? 深沢ですけど。来ましたよ」
「ああ。ちょっと手伝ってくれ」
またかよ。
痛烈に思ったが、口には出さず、黙って従った。
厨房に入ると、漂うのは甘いミルクの匂い。
「パンナコッタですか」
「ああ。秋限定の、ミルクティー味の試作だ」
「へえー、おいしそう」
「当然、うまいよ。食わせてやる」
「……はあ?」
あたしは眉をひそめていた。
もしかして、ホントに、心配されちゃってんのかなあ。