店長。
「大地、深沢はどうだ?」
「少し疲れてるのかな。眠ってます。特に熱とかはないみたいですけど」
「どーせまた無理したんだろう、このバカは。自分の受けた打撃も把握できないんだ」
うとうとする意識の外にそんな声。
あたしは腹も立たなかった。
店長、やっぱ言うことは正しい。
けど大地が反論した。
「お言葉ですが。透っちゃん、飼ってた猫が死んで、相当ショック受けてるんですよ。彼女、親がいなくて、一人暮らししてるんですから。かなり寂しいと思いますよ。なのに店長、少しは口に気をつけた方がいいっす」
「……わかってるよ」
ん? なんだか店長、嫌に殊勝だな。きもちわるーい。
とかなんとかぼんやり考えていると、大地がふっと笑った気配がして、それから部屋を出て行った(音がした)。
え、店長と二人にしないでよ!
慌てたあたしは起き上がろうとしたけど、そのとき店長がまた喋った。
……喋ったのだ。大地はもういないはずなのに。
「お前も同じことを言いたそうだな?」
って。
あたしは意味がわからなかった。
店長はあたしが目覚めていることに気づいているのだろうか。いや、そんなはずはない。あたしはソファに横たわっていて、眼を閉じている。たぶん、横たえられた姿勢のままさっきから微動だにもしていないし。
じゃあひとりごと?
ぐるぐる考えていたら店長は今度は、なぜか笑った。
「わかった、わかった。悪かったよ。でもな、お前の大事な飼い主、別にいじめてるわけじゃぁないんだぜ。これでも俺なりに心配してるんだぜ、いろいろと」
あたしはますます混乱した。というか、なんか聞いちゃいけないことを聞いているような気がしてきた。
これは、独り言ってレベルじゃないじゃん……。てんちょー、もしかして、妄想癖ありなの!?
「ん? ああ、わかってる。俺は視えるからな。お前のご主人、弱ってるせいでちょっと厄介なモンにくっつかれてる。お前もそれが心配でココに居残ってるんだろう?」
「て、店長、あのっ……」
あたしはついに堪えきれずに起き上がった。
すると店長は、取り立てて驚いた様子も慌てた様子も見せずに、あたしを見た。わずかに藍色の瞳。
「起きたか」
「え、っと。ハイ。すいません」
「なんで謝る」
店長の鋭い眼はあたしから逸らされない。
あたしは初めてどぎまぎした。
「だって、仕事中にご迷惑おかけして」
「倒れるのは構わん。が、具合が悪いならはじめからそう言え。そうすればこっちも休ませるとか、別のバイトを呼ぶとか、できたんだぞ。大地から聴いたが、お前、すこし参ってるそうじゃないか」
「参ってる……のかどうかはわかりませんが。夏の課題がもう少しで提出期限なんです。だから没頭して、寝不足なんです。それだけ」
「……そうか」
店長は、なぜかためいきをついた。
あたしはその理由がわからなかったが、とにかく居心地悪くてたまらなかった。
ひゃー、なんかやだ。大地のせいか、やりにくい。
っていうか店長、厨房に戻らなくていいんですか!
「俺はあんまりこういうことはうまく言えないが」
「え? は?」
「は、じゃねえだろ」
照れ隠しにとぼけてみたら睨まれた。こわいよー!
いまひとつため息をつき、店長は言った。
「……無理をするな。心配になる」
心配?
え、と思ったあたしが顔をあげた時には。
店長はもう、あたしに背中を向けていた。
……なによ。
なんだよう。
普段はあんな性格のくせに、こう言う時だけ、そういうこと言うんだ。
ちくしょー、とあたしは思わず胸を押さえていた。腹立たしいが、動悸が速い。
つまり、ドキドキしていた。
店長の、さっき見せた一瞬の表情が。
あんまり優しかったから。
***
その日は店長の御達しでそのまま帰らされた。
うあー、バイト代がー、と涙ながらに仕事をしたいと訴えたあたしだったが、 オニトリ店長は許してくれなかった。
代わりに「この間の残業代を出してやる」と言われた。
今更すぎだし……。
「文句言うならどっちも出さん」
「鬼!」
「黙れ。役立たずは大人しく家帰って寝てろ」
「ひぎゃー、もはや人間じゃないよアンタ」
横暴極まりない態度で店長はあたしを裏口まで送り出したが、その時ふと妙なことを訊ねてきた。
「それより、深沢」
「なんすかこれ以上ー。もう帰りますから、ほんと店長のサドに付き合わせるのも勘弁してください」
「ちげーよ。……あのな。聞きたいんだが、お前最近身の回りで妙なことないか?」
「妙なこと?」
あたしはきょとんとしたと思う。いつものナマイキな態度も一瞬忘れてしまうくらい、それ位虚を突かれた質問だった。
妙なこととは、はて。どのようなことを指すのだ?
「えーっと、特には……。ってか妙なことって、例えばどんなことです?」
「どんなことでもいいが、そうだな。物的干渉は難度が高いから、精神的なもんだな。周りで急に態度かわった人間とかいないか?」
「た、たぶん。あのー、店長、さっきから頭だいじょぶですか?」
真面目な顔で腕を組んでおかしなことを言う、そんな店長が心底怖く思えてあたしは聞いたのだが、彼は結果としてさらに怒っただけだった。
「うるせぇ!」
はあ。
そんなこんなであたしはバイト先を追い出され、珍しくはやめに夕飯なんぞを創っているんだけれど。
だめだ。
この家の空虚さがたまらなく嫌だ。
猫の餌皿とトイレ。
あの子の好きだった金魚ばち。
極めつけに、窓際で日焼けしたフォトフレーム、そのなかで、やんわりほほ笑む母。
……だめなんだよ。こういう日には。
あたしはなんであたしに生まれてしまったのか、この人生を生きているのか、疑いたくてたまんなくなるから。
悲嘆にくれるのは嫌いだ。
けど、文句の一つも言いたくなるときはどうしたってある。
疲れたとか、もう働きたくないとか。
ずーっと寝てたいとか、親父に会いたいとか。
お金が欲しいとか、色々さ。
でも一番はたぶん、なんであたしは一人でここまでやんなきゃいけないのかってこと。
寂しいとかじゃないのよ。
ただ、疲れたのよ。
ああ、もう、ずーっと眠りたい。ずっとずっと眠り続けて、目覚められなくなっちゃえばいいのに。
そう思った。
のろのろとご飯を食べて、シャワーを浴びて、寝ることにした。
明日はまた朝から学校にこもって課題をやんなきゃなあ……とか考えていたら、ほかでもないその大学から電話があって。
なんとあたしの課題が破壊されたという。
破壊?
ハカイとはなんぞや。物騒な言葉過ぎて耳が受け付けないぞ。
とりあず寝てから見に行きます、と電話に答え、あたしは寝た。
そうすることで悪夢が醒めればいいと思ったのだが、やっぱり夢じゃなかったようだ。
「……ひっど」
寝ぼけた頭で登校し、あたしのカンバスを目にした開口一番の感想がこれ。
蒼が散っていた。
カンバスが八つ裂きにされ、青いバラは花弁となって部屋の床いちめんに散っていた。
その様子すら美しいと思ってしまうあたしは、大地の言うとおり、たしかにイカれている。
花弁の一ひらを指でつまみあげ、あたしはぼんやりそれを見つめた。
誰がやったとか。何でやったかとか。どうでもいい。
感じるのはただ面倒だということ。そして残念だと言うこと。
あたしの渾身の、魂のかけらが、粉々にされた。
そしてまた、生み出さなければいけない。
……面倒だ。
とにかく、面倒だ。