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店長とあたし。

 

 

 とてもかなしいことがあった。

 飼っていた猫が死んだのだ。

 一人暮らしだったあたしにとって、その子がいなくなってしまった打撃は大きかった。

 

 昨日までそこにあったぬくもりがない、ということは。

 暗い夜道から帰りついた家に、出迎えてくれるものがいない、ということは。


 あまりにも喪失感が大きい。

 ぽっかりと、胸の一部がえぐられて、感情の行き場すらなくなってしまう。

 涙が流れても、やがては止まって、息ができないくらい、くるしくなる。


 しかし。

 厄介な事にあたしは学生であり、しかもどちらかというと苦学生だった(この言い方はきらいだが)。

 つまりそれがどういうことかというと、学校の授業はさぼれても、収入を得るためのバイトは何があってもさぼれないということですよ。


 よって飼い猫を、彼女の好きだった見晴らしの良い丘にひとりで埋めたあと、あたしはいっそ死にたくなるほどいつもどおりにバイトに行かなければならなかった。

 バイトは隣町のイタリアンレストランだ。担当はホールスタッフね。

 ……でもまあ、習慣っていうのは腹立たしいもので、バイト先の裏口をくぐった瞬間、あたしの口は勝手にしゃべる、


「おはようございまーす」。


 あー、その響きのなんといつも通りの元気良さか。

 我ながら情けなくなった。

 あたし、元々人に弱みとか見せられない主義なのだ。だって見せてもなんの得にもなんないじゃん?


 まあ、こう言う時こそ何かしら体を動かしているほうがよけいなことを考えなくてすむから楽だ。

 あたしは考えながらバイトを始めた。

 しかし。

 周りの人たちは特になにも気付かなかったみたいだけど、やはり、いつもより格段にミスが多かった。


 注文は取り違える。

 カフェオレとエスプレッソを間違えて運ぶ。

 キッチンの人に何回かぶつかって料理をだめにした。

 会計のレジをまちがった。


 当然ながら店長に怒鳴られた。はい、本当にごめんなさい。


「おつかれさまでしたー」


 気が付くと店の照明は落ち、スタッフみんなが帽子を取って終礼を終えてしまっていた。

 ため息一つ。あたしも帽子を遅れて取り、ロッカールームに着替えに向かおうとした。

 ところ。


「深沢」


 ──げげげっ、店長だ!


 オニトリとのあだ名でもって呼ばれている我らが店長兼料理長、名取さんが。

 あたしの目の前に仁王立ちしていた。


 あたしははっきり言ってめんどくさかった。

 疲れてるのだ。何しろ。

 帰りたかった。しかし、そういえば猫は死んだ。帰っても悲しいだけだ、とも考えて、凹んだ。

 ああもう自分が面倒くさい。


  葛藤しながらぼんやり帽子を手に立っていると、再び店長があたしの名を呼んだ。


「深沢。返事しろ」

「あ、すいません。はい」

「……やっぱりお前、今日変だな」

「は?」


 予想外の言葉にきょとんとして、次の瞬間警戒する。

 心配されてる?

 いや、というか、踏み込まれそうになっている。心の中に。


「変じゃないですよ」


 すかさず答えた。

 あたしは、意識的に人と仲良くするのが苦手だった。

 心の中に踏み込みたくないし、踏み込まれたくない。

 絶対に乱されたくないペースというものがあって、頑固だから、それを譲れないのだ。


 人なんていつか絶対裏切るし。

 体面ばっかり気にするし。

 恋愛絡むと醜いし。


「帰りますね。お疲れ様でした、名取さん」


 言い捨てて、面倒な事になる前に店長のわきを通り過ぎた。

 店長は何も言わなかったけれど、ロッカールームの扉を閉める直前、たぶん彼がため息をついたのが聴こえた。

 あたしはそのまま超特急で着替えて、超特急で帰った。


 猫のいない家に。

 誰もいない家に。


 そしてうまく眠れるはずもなかった。


 ***


 翌日である。


 学校はサボった。

 だがバイトは行ったあたし。

 やはりミスを繰り返しつつ、あっという間に終礼の時間。


 それでもってふたたび店長につかまって──何でよ!!


 ……新作のデザート作りだかなんだかに駆り出されたのよ!


「嫌がらせですかこれ」

「ああ?」


 自慢じゃないがあたしはかなり率直で、それゆえ口が悪いと言われていた。

 そして店長もかなり口が悪かった。

 暗い店内にはキッチンの明かりだけが漏れている。

 あたしはチョコレートを湯せんで溶かしたあとのボールを洗い場で洗いながら、背中で店長に文句を垂れた。


「あたしが昨日からミスばっかりしてるから、刑罰なんですか」

「ま、そう思うならそうなんだろう。自覚するほど、昨日からのお前は酷過ぎる」

「だから、自覚してるんだからそれ以上言う必要はないです。だいたい、こうしてても残業代出ないし。」

「俺は能力を重視するからな」

「あたしははっきり言って、仕事はちゃんとこなしています!」

「昨日までは、な」


 ずばりと言われ、言葉につまった。

 ああもう。だから嫌い、このひと。

 無愛想だし、口悪いし、俺様だし。

 なんでかあたしばっかりこき使うし!


 腹が立って来て、ステンレスのボールをわしわし金属たわしで洗っていたら、再び店長から小言が飛んできた。


「スポンジで洗え! ったく、この間備品買い換えたばっかなんだぞ、少しは気を使え!」


 さらに腹が立った。

 あたしは返事もせず、たわしとスポンジを持ち替えた。

 が、店長は黙らない。


「深沢! 聞いてんのか!?」

「……聞いてますよっ!」


 張りつめていた糸が切れた。

 あたしはステンレスのボールを思いっきりシンクに叩きつけるとふりかえった。

 急速に熱を持った視界に、店長が驚いた顔をしているのが映った。

 こういうとき、店長があたしと同じ20代だという事実が裏目に出る。

 つまり、遠慮せずタメ口になってしまうのである。


「何なんですかっ!?」

「ふか」

「うるさいのよ! そりゃ、あたし確かに昨日からミス多いし、みんなに迷惑かけたけど、言い訳してないし、べつにわざとやったわけじゃない! なのに何なの? なんで店長っていつも、あたしばっかりこき使うんですか!? いやらしいのよ! はっきり言って酷いくらいよ!」


 そして叫んで興奮してしまったあたしは、当然ながら収集がつかなくなり、キッチンを飛び出すとそのまま店も飛び出した。

 数歩歩き、力尽きて路肩にしゃがみ込んだ。

 うー、と声が漏れるのを、唇を噛んでこらえる。


 くそ。腹立つ。ほんとに腹立つ!

 あんな男にこんなに感情さらけ出しちゃうなんて、情けないし。

 でもほんと意味がわかんない!


 涙が出そうだった。

 でも、目元を腕に押し付けてこらえた。


 夜風がつめたく、しばらくそうしていると段々まわりの音が耳に入ってくるようになった。

 虫の鳴き声。酔ったおじさんのあげる下品な笑い声。

 そして。


「……案外近くに居たな」


 すぐ傍で止まった、バイクのブレーキ音。

 あたしはすぐに顔を上げるのがしゃくだったので、しばし間をおいてから、おもいっきり怖い顔を晒してやった。

 店長はしかし、まったくひるまずにこちらを見下ろしている。マジでむかつく。


「戻るぞ、深沢。制服で出歩くのは禁止だ。保健所がうるさい」

「戻りませんよ。帰ります」

「お前、荷物置いてきてるだろう」

「歩いて帰ります」

「バカか。最近夜は冷えてきてるし、この辺りは物騒なんだよ。とにかく戻れ」


 臆面もなく人をバカという、この人を誰か殴ってほしいとあたしは本気で思った。

 だが店長は、むかつくことはむかつくが、言っていることは正しいのである。

 いろいろ言い返そうとは試みたが、やがてあきらめ、あたしは立ちあがった。

 正直なところもう何もかも面倒くさいというのが本当だった。


「……いま、何時ですか」

「11時だ」

「サイアク。明日、1限からなのに」


 とぼとぼ歩きだす。

 あーあ、なんで結局、こうなるの。

 店長はバイクを押して歩きながらそっけなく言った。


「どうせ休むんだろ。最近おまえ授業で見ないって大地が言ってたぞ」

「はっ、藤代君が? なにあの人!」


 同じ大学のバイト仲間の名前を呟いて、あたしは毒づいた。

 するとなぜか店長にどつかれた。さらに憤る。


「何するんですかっ」

「バカが。お前、ほんとうに阿呆だな」


 言いすぎ。


「言わせてもらえば店長ほどじゃあありませんわね。無意味に部下をこきつかって残業させて結果怒らせて自分で後始末つけるはめになってるじゃあありませんか」

「そーゆー意味じゃねえんだよ」


 まくしたてると、店長の声が一気に不機嫌になった。

 この人の声は低いので、怒るとすごみがある。

 あたしは悔しいが、一瞬ひるみ、帰す言葉を失った。


 そしてそのまま、なんとなく喋ることができずに、レストランまで歩いてしまうことになった。



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