彼と私のヴァレンタイン
傾き始めた太陽が、ようやく雪の溶けた誰もいないプラットホームを優しく照らしている。仕事に疲れた人が見たら、は〜っと一日の終わりを告げる、声にならない声を出しそうな穏やかな夕日だ。
でも、今の私はその逆。楽しい気持ちの中に確かな緊張感が存在している。
大のお気に入りで長く愛用している毛皮のバッグを肩から提げ、もう片方の手には白い紙袋を持って、私は電車を待っている。やがて軽快なメロディがホームに流れだし、司会の右側からゆっくりと電車が入って来た。
(よし、おねがいね)
紙袋を握る手に思わず力が入る。
陽がいよいよ沈んでいく。鉄橋の下を流れる大きな川の向こうから、ゆっくりと夜がやって来て、次第に車内の明かりが存在感を増す。私は向かい合った4人がけの座席の一番窓際のシートへ腰を沈め、穏やかな風景をぼんやりと眺めては、これから起こること、いや、起こすことに時折心がさざ波を立てるのをなだめようと顔が少しばかり強ばる。
心はどきどき、わくわく。
電車に乗り込んで3つ目の駅が見えて来た。車内には到着を告げる若そうな男の人のアナウンスが流れる。私はいよいよ携帯電話を取り出してメールを作成する。
「今からいくね」
3つ目の駅に着いた。バッグを肩にかけ、紙袋を握りしめ、陽の落ちたプラットホームに降り立った。
彼と知り合ったのは去年の冬のこと。まだ3ヶ月も経っていない。実家暮らしをする私の家から自転車で少し走った所に、彼の勤める出版社はあった。彼は今もそこへ勤め、私も大学生の傍らそこでアルバイトをしている。2人ともはじめはなかなか声をかけられなかった。ところがある日、彼の方から声をかけてくれた。
「新しいバイトの子?」
それがはじまりだった。
その日から妙に意識するようになっている自分をはずかしく思ったり、でもそういう気分で仕事先に出てくる自分を幸せだと思ったりするようになった。中肉中背、少し高めの声、でもスーツ姿は凛々しくて、話をすると独特な感性を持った不思議な人。それが今の私の彼。
今思えば、彼の方もまた、私を意識していてくれたんだと思う。話かけた彼は明らかに緊張していて、それ以上に私の視界にわざわざ入る場所で仕事をすることが多くなった。
付き合うきっかけになったのは何回目かのデートの時。忘れもしない。私の一番の勇気を示した日だから。
その日のデートは、最近できたばかりの遊園地だった。クリスマスイヴということもあり、大勢の人が遊園地を埋め、至る所で華やかな会話が咲き乱れていた。そんな中、ショーステージがなにやら騒がしくなり、人がぞろぞろと移動し始める。
「行ってみようか?」
彼はそう言いながら、もう歩き出していた。
その時、手に持っていたジュースのペットボトルが人に押されて落ちた。
「あ、待って。ジュースを落としちゃった」
私は彼の背中に言ってから、後ろを振り向く。押し寄せる人の波を逆流する形になって、地面に落ちたペットボトルを拾おうとするもうまくいかない。なんとか背をかがめて手を伸ばし、人に蹴られ、ころころと転がるペットボトルの蓋の部分を掴んだ。
「ごめん、ありがとう」
彼の方を振り返って言った。しかし、彼の姿が見当たらない。
辺りをきょろきょろするも人ごみに紛れてしまった彼を見失ってしまった。
(やばい、どうしよう)
立ち止まりたくても人に押されて足は前へ前へと押されていく。
ショーステージはどんどんとにぎやかになり、もうすぐショーが始まるようだ。しかし肝心な時に一人になってしまった。彼を一人にしてしまった。
体はステージへ動いているが、心は立ち止まっている。その時、右側から手首をつかまれた。
「きゃっ」
思わずその手を振り払う。この人ごみ、誰の手が当たっても不思議ではない状況だけど、明らかに意図的に掴まれたことくらいはわかる。
掴まれた右手首を見て、すぐに顔を上げた。
そこに彼がいた。悲しそうな顔をして。
「あ、よかった。はぐれたかと思った」
口をついて出た言葉が彼に聞こえたかどうかはわからない。だけどまた肩を並べて歩けることに安心感を覚えた。
ところが彼の方はなんだかしょんぼりしている様に見える。
「どうしたの?」
すかさず聞いた。
「いや、べつに」
妙に素っ気ない。こんな彼を見たのは初めてだ。
「はぐれてごめんね」
ひとまず謝って見る。
「いや、いいよ。近くにいてよかったよかった」
引きつったような笑みを見せ、彼は人の波に合わせてステージの方へ歩く。私もぴったり付いていく。
(どうしたんだろう。急に元気がなくなって…)
そう考えてはっとした。
(まさか、咄嗟に手を振りほどいたのがいけなかったのかも…)
そこまで考えが及ぶと、こちらも謝りづらくなってしまった。彼は私に拒まれたとでも思ったのだろうか。
「急に手を掴まれたからびっくりしちゃったの。これだけの人だし…」
なんとか説明してみるも、彼の表情はかわいそうなくらい沈んでしまっている。
そんな妙にぎくしゃくした雰囲気のまま、とうとうステージが始まってしまった。
いろんな着ぐるみのキャラクターたちが踊ったり歌ったりしている。正直いって、内容はほとんど覚えていない。隣の彼はどうだっただろう。今振り返ってみると、やはり意識はそちらへ飛ぶ。でも、その後にそれらは笑い話に変わることも、今はわかる。
初めてキスをしたのはステージが終わった後のことだった。まさか私の方からキスをするなんて、彼は思っても無かったのだろう。もちろん、私の方も同じ。そんな勇気が自分にあったなんて、今でも少し恥ずかしくなる。
そのときの彼の表情は今でも忘れない。顔立ちの幼い彼が、よけいに可愛く見えた瞬間だった。
かゆい所に手が届く。
そんな表現しかまだできないけれど、彼の優しさはその一言につきる。こういうと私がお姫様に憧れているように聞こえるかもしれないけれど、そうじゃない。手を握ってくれた彼の勇気に対する「お返し」を、今もずっと忘れていないし、これからすることはその第二弾でもある。
駅を降りて彼のマンションがある方角へ歩く。右手の白い紙袋は結構な重量だ。中にはこれから作るチョコレートの材料が入っている。あのときのキスのように、私からのサプライズ。
彼の家が少しずつ近づいてくる。しかし、それにしても変だ。彼からメールが返ってこない。今日は仕事が休みのはずで、一日家にいると言っていたのに…。昼間、私が学校へ行っている間から急にメールが来なくなった。
彼のマンションに着いた。ごくありふれた4階立てのマンションである。4階の一番端にある出窓を見上げた。灯りもついていない。わくわくやドキドキが一気におかしな鼓動に変わっていくのがわかる。
(まさか…、もしかして…)
嫌な想像ばかりが頭をよぎり、気づけば口の端が下がっているのがわかる。
4階までゆっくり階段で登り、彼の部屋の玄関の前に立つ。しばし、中の物音を聞こうと聞き耳を立てる。
何も聞こえない。留守なのかな? ちょっとコンビニへ出かけてしまったとこそういうのかもしれない。
呼吸を整え、人差し指をインターホンへ伸ばす。いてほしいような、いてほしくないような気分。
ぴんぽーん
深刻な時には深刻そうに聞こえてしまう不思議な軽さを持ったインターホンの音が部屋に鳴り響いた。
しばらくすると、なにやら中で物音が聞こえだした。しかし、なかなかドアが開かない。
(あやしい…、あやしすぎる…)
今頃中では、ひそひそと話し合い、いそいそと荷物だとかいろんなものを片付けている…、ような想像ばかりが膨らむ。休日、彼女にメールも返さず、電気のついていない部屋の中に、確実に彼がいる。
そこまで考えて咄嗟にドアの隅へ体を寄せ、覗き穴の視界から離れた。ドアの向こうに誰かいる。その気配が確実にある。彼だろうか…、それとも…。
ガチャン
ドアが内側からゆっくりと開いた。
その瞬間、私はもう少しで悲鳴を上げるところだった。
お化けのような青白い顔の彼がいた。白いマスクをして、その下でもごもごと動く口がうめくような声を発している。
「ど、どうしたの!?」
最悪の想像と目の前の現実がしばしリンクしなかった。リンクしなくてよかったと思うのはもう少し先のことでもあったが。でも声に出した分、理解も早かった。
「風邪?」
彼は眉毛を下げて返事した。
「朝起きて、あ〜、これはやばい」と思ったんだそうだ。熱を測ると38度ほどあり、必死で水分を取りつつひたすら寝ていたのだと言う。
「メールとかしてくれれば、すぐに来たのに」
私が言うと、学校はちゃんといかなきゃとまた優しいことをいう。
でも心の一角では、もう少し頼ってくれてもいいのにとすねる自分もいる。
「まだ熱はあるの?」
ベッドに横になる彼が、返事ともため息とも取れない声を返す。
「しばらくここにいるから、もう一回測ってみて」
体温計を渡し、布団の端を上げ直しながら私は言った。
「うん」
今度はしっかりとマスクの下から声がした。
(さて困った、どうしよう)
2人でいるのに一人でいるような静寂の中、私は思案に暮れる。まさかの展開で予定が狂ってしまった。
とりあえず落ち着かないので立ち上がり、意外と片付いている部屋を何となく見渡す。なんとなく拭えない最悪の想像を土台にして、ちらちらと置いてあるものをチェックしたりしてしまう。
(私って、意地悪な人間…)
彼が小さな寝息を立て始めたところで、私は台所へ向かった。
玄関の隅にさりげなく置いておいた白い紙袋を持って来て、中をのぞく。その時、ベッドの軋む音がした。
「なにしてるの?」
どきりとして紙袋を取り落としそうになる。
「う、ううん。なんか、作ろうかなって…」
彼の方を見ずに答える。
「いいよ、なんにもないし」
私はそれには答えなかった。答えられなかった。
(チョコか? それともここはおかゆか?)
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ…
彼の脇の下から音がした。その少し後から、彼のため息も聞こえた。
「はぁ、明日大事な仕事があるのに…」
私は顔を彼の方へ向けた。唇を少しかんで、心が決まった。
(よし)
私は腕まくりをして、台所に向き直った。
ご飯はあるようだ。卵は?あと、三つ葉なんかもあれば。
考えながら冷蔵庫をあさる。本当になにもない。これでは何も作れない。
ぐらついた心に、最後の確認をしようと、白い紙袋の中をのぞく。
(…しまった)
私のやることは決まった。何も隠さなくて良いのだ。
「おかゆ作るから、ちょっと待ってて」
チョコレートは作れない。だって、チョコレートのレシピを書いた紙を忘れて来てしまったから。
昨日、リハーサルとばかりに自宅でチョコレートを作った。生まれて初めてしっかりしたチョコレートを作ろうと思った。手作りとは本当に難しい。案の定、大失敗だった。試食したお母さんも、チョコが苦かったのか、言いにくい言葉が苦かったのか、おかしな顔をしていた。お菓子だけに…?
2回目に作るチョコ。ほとんどぶっつけ本番のチョコ。不安でドキドキで、でも作っている自分自身にわくわくもする。ところが肝心の彼が風邪でダウン。それにレシピも無いとなれば、あまりにも危険だ。
「おかゆできたよ」
部屋に登り立つ湯気の何パーセントかは、私の準備不足からくる気恥ずかしさかもしれない。のそりと起き上がった彼は、おもむろにマスクを外し、白い100円均一で買った感まるだしのレンゲを手に取った。
「ありがとう」
(いいよね? こんなんで。ヴァレンタインは心を届けるものだよね?チョコレートじゃなきゃダメってことじゃないよね?)
「うまい」
レンゲが良く動く。彼の口もよく動く。なんだ、元気じゃない。
せめてもの気持ちを宿したハート型のおかゆが、彼の口へ消えていく。
「早く治ってね」
私は言った。彼は、今日一番の笑顔を見せた。
私も笑った。
彼には言わないでおこう。本当はチョコを作りにきたってこと。彼に初めて作るチョコは、一旦おあずけ。「はい、ヴァレンタインチョコ!食べてね」と言って、胸を張って渡せるチョコはまだ作れない。でも、必死になって作ったチョコだから絶対食べてね、と言って渡すチョコもなんだか気が引ける。必死になって作った不安なチョコだから、風邪の今はちょっと食べない方がいいよね、と思う。
風邪が治って、必死にならなくても作れるようになったら、またいつもの、いつも以上の笑顔を見せてほしい。おかゆをかき込み終えた彼を見て、私はまた笑った。
(ほんと、屈託の無い笑顔…)
今日は、私に与えられた、彼からの一番の優しさかもしれない。
「おいしいチョコ、いつでもいいよ」って。
食べ終わったお盆を台所へ下げる。そのついでに、こっそり紙袋を玄関の隅へ隠した。
「ところでさ、今日は突然どうしたの?」
おかゆが彼ののんきさを取り戻してくれたようだ。
「メールしたよ?」
わざとすこし遠回りな返答をする。
「あ、ごめん。気づかなかった」
鈍い人だ。今日が何の日か本当にわかっていないのだろうか。いや、さてはこれまであんまりモテたことがないのだろうか。
「心配したんだから…」
「ほんと、ごめん。だけど…」
「はいはい、布団に入って寝ないと、風邪はいつまでたっても治らないよ」
この先の展開がいやに恥ずかしくなりそうなので、私は話を変える。
「えー、せっかく来てくれたのに…」
風邪がいつもより彼を子供にしている。普段の優しくて男らしい一面は、まだ完治しないようだ。
「明日、大事な仕事があるんでしょ」
口を尖らせ、しぶしぶ布団にもぐる彼。なんとも笑いがこみ上げてくる。
かわいい男。
素直な彼。
ベッドに横になる彼の枕元に腰掛ける。なんとなくそうしたくて、彼の髪の毛をなでてみる。次第に寝息が聞こえて来た。やっぱり、しんどかったんだね。だけど、はじめよりずっと血色が良い。
私は彼の髪の毛を触る。
彼は私の横で寝息を立てる。
部屋には時計の秒針の音だけが響く。
何回、秒針が盤の上を走ったかはわからない。
でもなんとなく、2人の時間だと嬉しくなった。状況はたいして変わっていない。だけどもう2人でいるのに一人でいるような静けさではなかった。
秒針が刻んだ2月14日が終わりに近づいている。
勇気が出た。
私は体を動かし、ベッドの下のひんやりしたフローリングに膝立ちする。体を反転させて、彼の横顔をと同じ目の高さにまで顔を持って来た。
「私が何しに来たか、わからない?」
彼は答えない。もう寝てしまったのだろうか。
「何しに来たか、知りたい?」
彼はほんの少し頷いた、ように見えた。
彼が甘えん坊になっていることぐらい気付いている。
でも、だから私も素直になれる。
顔をぐっと近づける。
鈍いけれどしっかりもので、賢くてかっこいい風邪の彼。
日付が変わる、少し前。
私たちはチョコより甘いキスをする。