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だから、この病は恐ろしい

作者: 小雨川蛙
掲載日:2026/10/27

「お母さん。わかる?」

「皆来たんだよ」


 ご家族が声をかける。

 その言葉を聞いているのか、いないのか。

 彼女は空を見つめて肩で息を繰り返している。


 苦しげに。

 何度も。


 その隣で最愛の子供たちが必死に何事かを訴えている。

 訴え続けている。


「お母さんの子供で幸せだったよ」


 伝えずとも分かっていることを何度も何度も。

 それでも繰り返す。


 その空気の中。

 私は立ち尽くして見守るばかりだ。

 一人の人間として。

 一人のナースとして。

 自分にできることなんてない。


 あるとしたならここにいることだけ。

 きっとそれだけが求められているのだ。



 …。


 やがて。

 彼女は息を引き取った。

 子供たちは泣き続け、それでもなお繰り返す。

 愛の言葉を。

 もう届かないのに。


 ここにきて、私はようやく解放された。

 ――いや、まだ一つだけあったか。



 *



 一週間が過ぎ、私は彼女の娘とお話をする機会があった。

 彼女の娘は感謝の言葉を繰り返し、そして申し訳なさそうに謝罪する。


「ヘルパーさんたちにも伝えましたが、皆さんにも本当にご迷惑をおかけしました。母はその……」


 認知症でしたから。

 そんな言葉を私は言わせない。

 言わせてなるものか。

 そう思って声を出す。


「そんなことはないですよ。お母様は本当に穏やかな方でした」


 この会話を続ける気がないという意思表示。

 しかし、娘に伝わるはずもなく。

 娘の言葉に相槌をしばらく打ちながら、やがて私は恐れていた言葉を聞いてしまった。


「最後らへんには私のこともよくわからなくなっていたみたいで……」


 恐れ続けていたがゆえに私の反応は迅速だった。

 そして、長くこの現場にいるがゆえに的確だった。


「そんなことないですよ。私たちがサービスをしているとき、お母様はいつも言っていましたよ。娘はどこに行ったのかしら? って」


 大きな嘘をつくときは。

 小さな真実を前に置く。

 それが私が人生で学んだことだ。


「そしてね。私は長くこの現場にいるから知っているんです。記憶の底の底には、本人の最も大切なものはちゃんと残っているんですよ。だから、お母様が亡くなる時だって、お母様は皆さんの方をしっかり見ていましたから……」


 告げた言葉は不適切だったろうか。

 わからない。


 ただ、唯一分かるのは。

『彼女』は私の前では何時だって『彼女』であり、不変であったこと。

 一度『崩壊』したものは戻らない。


 あぁ。

 だから、この病は恐ろしい。


 彼女の娘の笑顔を見つめながら、私、自分の母が『そう』ならずに済むことを願わずにいられなかった。

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