だから、この病は恐ろしい
「お母さん。わかる?」
「皆来たんだよ」
ご家族が声をかける。
その言葉を聞いているのか、いないのか。
彼女は空を見つめて肩で息を繰り返している。
苦しげに。
何度も。
その隣で最愛の子供たちが必死に何事かを訴えている。
訴え続けている。
「お母さんの子供で幸せだったよ」
伝えずとも分かっていることを何度も何度も。
それでも繰り返す。
その空気の中。
私は立ち尽くして見守るばかりだ。
一人の人間として。
一人のナースとして。
自分にできることなんてない。
あるとしたならここにいることだけ。
きっとそれだけが求められているのだ。
…。
やがて。
彼女は息を引き取った。
子供たちは泣き続け、それでもなお繰り返す。
愛の言葉を。
もう届かないのに。
ここにきて、私はようやく解放された。
――いや、まだ一つだけあったか。
*
一週間が過ぎ、私は彼女の娘とお話をする機会があった。
彼女の娘は感謝の言葉を繰り返し、そして申し訳なさそうに謝罪する。
「ヘルパーさんたちにも伝えましたが、皆さんにも本当にご迷惑をおかけしました。母はその……」
認知症でしたから。
そんな言葉を私は言わせない。
言わせてなるものか。
そう思って声を出す。
「そんなことはないですよ。お母様は本当に穏やかな方でした」
この会話を続ける気がないという意思表示。
しかし、娘に伝わるはずもなく。
娘の言葉に相槌をしばらく打ちながら、やがて私は恐れていた言葉を聞いてしまった。
「最後らへんには私のこともよくわからなくなっていたみたいで……」
恐れ続けていたがゆえに私の反応は迅速だった。
そして、長くこの現場にいるがゆえに的確だった。
「そんなことないですよ。私たちがサービスをしているとき、お母様はいつも言っていましたよ。娘はどこに行ったのかしら? って」
大きな嘘をつくときは。
小さな真実を前に置く。
それが私が人生で学んだことだ。
「そしてね。私は長くこの現場にいるから知っているんです。記憶の底の底には、本人の最も大切なものはちゃんと残っているんですよ。だから、お母様が亡くなる時だって、お母様は皆さんの方をしっかり見ていましたから……」
告げた言葉は不適切だったろうか。
わからない。
ただ、唯一分かるのは。
『彼女』は私の前では何時だって『彼女』であり、不変であったこと。
一度『崩壊』したものは戻らない。
あぁ。
だから、この病は恐ろしい。
彼女の娘の笑顔を見つめながら、私、自分の母が『そう』ならずに済むことを願わずにいられなかった。




