番外編 熱
「ただいま…」
玄関を開けると、電気もつかず
暗闇が広がっていた
「うた…?」
嫌な予感に早足になる
帰る、と言ったメールにも
返事がない
キッチンもリビングも人気がない
焦る気持ちで寝室の扉に手をかけた
冷たいものが触れた気がして
目が覚める
「うた」
“熱、出てる”
おでこに当てられた手の冷たさが
気持ちよくて少し息を吐く
心配そうに覗き込む姿を
確認して
慌てて起き上がる
(何時…!?)
帰って来る前に食事の準備を
終わらせておくつもりだったのに
少しだけ、と思って横になったのに
“ごめんなさい…”
落ち込む私に
不機嫌そうに眉を寄せた彼が
体温計を渡して来る
ピピッ
わたしが確認する隙も与えずに
取り上げた彼が
表示を見て
さらに眉を顰めた
「飲むもの持って来る」
置いて行かれたような
心細さと
機嫌が悪そうな事への
不安で
ベッドの上
膝を抱える。
すぐに戻ってきた彼は
そんなわたしの姿を見て
呆れたように息をついた
「…ほら、飲んで」
ノロノロと重い腕を動かして
受け取る
飲み終わったのを確認して
彼が口を開いた
「…いつからなん」
「また、隠しとったやろ」
なにも言えずに俯く
「…まぁ、ええわ」
“まずは熱下げんと”
そう言って横になるよう促す
“怒らせた…“
熱でぼんやりした思考でもわかる
“また、間違えた”
布団に潜り込みながら
押し寄せる後悔
布団をかけ直してくれる
表情は固いままなのに
額、頬、首筋、と移動しながら
確認していくその手つきは
驚くほど優しかった
夜中。
ふと目覚めると
隣にいつもの温もり
身じろぎしたことに気づいて
額に手が当てられる
「下がってへんな…」
どこか焦ったような声が落ちる。
ひんやりとした手が離れていくのが嫌で
捕まえて頬に当てる
「うた…」
困惑したような声
もう一つの手が
前髪を避け、
顔にかかった髪を耳にかけてくれる
その動きが嬉しくて
繰り返す浅い息と一緒に
いつもの場所に潜り込む
「…ったく」
呆れたような声
抱え込んでくれる腕
労わるような手の動き
やっと息ができる
落ちていく意識の中
「治ったら説教やぞ」
そんな声が聞こえた気がした
昼過ぎ。
インターホンが鳴って
詩が玄関を開ける。
「……え」
立っていた昂汰は、
朝より明らかに顔色が悪かった。
帽子を深く被って、
肩も少し落ちてる。
「昂汰さん?」
「……ただいま」
声が掠れてる。
詩はすぐ眉を寄せる。
「どうしたの」
「追い返された」
不機嫌そうな声。
家に入るなり、
ソファに腰を落とす。
深く息を吐いた。
「熱?」
「……37度真ん中くらい」
微妙な数字。
でもスポーツ選手としては十分アウト。
「途中で測らされて」
「トレーナーと監督に帰れって」
「動けるのに」
最後だけ少し低い。
本気で不服そう。
詩は黙って額に触れる。
熱い。
「……しんどいでしょ」
「そこまでは」
でも反応がいつもより遅い。
詩はじっと見る。
昂汰、
その視線に気まずそうに目逸らす。
「……何」
「動けるのと、
動いていいは違うよ」
静かな声。
昂汰は少し黙る。
図星。わかってる。けど
「でも今日軽めやってん」
「走るメニューちゃうし」
まだ言う。
詩、
小さくため息。
「朝ごはん残した時点で怪しかった」
「コーヒーも残してたし」
「動きがなんか遅かった」
淡々と並べられることに。
少しだけ目を見開く。
「……お前、
よう見とるな」
ぽつり。
詩はきょとんとする。
「見てるよ?」
当たり前みたいに返す。
なんかもう、
反論の気力少し消える。
詩はそのまま立ち上がる。
「何か食べれそう?」
「……まぁ」
「じゃあ、うどんにするね」
キッチンへ向かう背中を、
昂汰はぼんやり見てる。
熱で少し鈍った頭に、
変な安心感だけ残る。
ソファに沈みながら、
小さく呟く。
「……動けるっつってんのに」
その瞬間。
キッチンから声が飛ぶ。
「じゃあご飯ちゃんと食べてね」
速い。
その返事の速さに
思わず少し笑う。
その声聞いて、
詩も少しだけ笑ってる。
うどんを食べ終わって、
薬も飲まされて。
「……ほら、ベッド行って」
詩が片付けながら言う。
昂汰はソファに沈んだまま、
低く唸る。
「……まだええ」
「えー…そこじゃちゃんと休めないよ」
でも動かない。
だるそうに目を閉じたまま。
テレビもついてない静かな部屋。
キッチンから、
食器を洗う小さい音だけ聞こえる。
「昂汰さん」
少し離れた場所から声。
「……んー」
「ベッド」
「……んー」
子供みたいな返事。
詩、
呆れた顔する。
でも無理やり引っ張らない。
たぶん今、
彼が“ここにいたい”の分かるから。
洗い物を終えて戻ると、
ソファの昂汰は静かになっていた。
「……え」
寝てる。
少しだけ眉間に皺寄せたまま、
だるそうな顔で。
でも呼吸は深い。
完全に電池切れ。
詩、
その顔見て小さく息を吐く。
「……もう」
困った声。
そっと体温測ると
少し上がってる。
「だから言ったのに…」
小さく呟きながら、
起こさないように、
静かに布団をかける。
その途中。
昂汰が少しだけ動く。
熱のせいで重たい瞼を薄く開けて、
「……うた」
掠れた声。
詩、
思わず動き止まる。
「起こした?」
「……ん」
起きてない。
半分寝てる。
毛布掴みながら、
ぼんやり詩を見て。
「……どこ行くん」
詩、
一瞬黙る。
「ここにいるよ」
小さく言う。
「ん…」
安心したみたいに目閉じる。
そんな様子をしばらく見てた
…普段なら絶対こんなこと言わない人。
強がって、
無理して、
平気な顔する人。
なのに今日は、
熱のせいで隠しきれてない。
なんだかちょっと
かわいくて
愛おしくて
詩は少しだけ笑って、
前髪をそっと撫でる。
「……甘えんぼ」
小さい声。
もう返事はない。
でも、
撫でられた瞬間だけ、
少し力抜けたみたいに呼吸が深くなった。
ソファ。
昂汰はまだ眠ってる。
毛布は途中でずれて、
片腕だけ投げ出したまま。
熱はだいぶ落ち着いてきてるはずなのに、
呼吸はまだ少し浅い。
静かで、
ちょっと無防備な顔。
詩はキッチンから戻ってきて、
そのまま立ち止まる。
「……」
声にならないまま見てる。
普段の彼から一番遠い顔。
ちゃんとしてて、
隙がなくて、
余裕があって。
その人が今、
ただ寝てるだけ。
(……こんな顔するんだ)
詩は毛布をそっと直しながら、
少しだけ手が止まる。
そのまま、ぼんやり思う。
(もし、これがもっと先だったら)
頭に浮かぶのは、
未来の“もしも”。
同じように寝てる誰か。
もっと小さい手。
呼んでもすぐには起きなくて。
柔らかい匂いがする。
昂汰と自分の間に、
当たり前みたいにいる未来。
ハッと、
自分の想像にびっくりする。
(いや、何考えてるの)
耳まで少し熱くなる。
昂汰のこと見てただけなのに、
勝手に遠くまで飛んでしまった。
慌てて視線を外す。
毛布をもう一回整えて、
「……なに考えてんの」
って小さく自分に言う。
そのままキッチンに戻ろうとして、
ソファの方をもう一度だけ見る。
まだ寝てる。
何も知らないまま。
詩は少しだけ息を吐いて、
そっと背を向ける。
足音を小さくして
でも足早に、キッチンへ逃げる。
コップを洗う音だけが、
少しだけ早くなる。
ソファでは昂汰が、
何も知らないまま寝返りを打つ。
また、毛布が少しずれた。
ふっと浮上する意識
目を閉じたままでも聞こえてくる
包丁の音。
冷蔵庫開けてる…
あぁ、火がついた
パタパタとスリッパ
目を開ければ
離れた所で小さな背中が
忙しなく動いてるのが見えた
(……こんなふうに、
いつも回っとったんか)
(俺、見えてへんかったな)
パタパタとスリッパの音が近づいてくる
「起きた?」
“気分、どう?”
覗き込まれるのが心地良い。
昂汰は一瞬間を置いてから
「……大丈夫」
ってだけ返す。
いつもより少しだけ柔らかい声で。
「ほんと…?」
信じてない声
額に当てられる手。
「…もぅっ、やっぱり」
文句言ってる
その全部がなんだか優しくて
何故か涙が出そうになった




