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第9話 和解案はまだ安い


 第二回期日の翌日、会社は露骨に息苦しそうだった。


 自動ドアの開き方からして違う。


 前はやる気がないだけだったのに、今日はもう、開くたびに会社そのものが、はあ、とため息をついている感じがする。気のせいだろうが、三年通うと建物の機嫌まで分かるようになる。分かりたくはなかった。


 事務所へ入ると、空気が重かった。


 静かではない。むしろ電話は鳴っているし、誰かがコピー機に紙を食わせ、誰かがその紙を救出している。


 だが、重い。


 数字が人を殴った翌日の会社は、こういう重さになるのだろう。


 特に社長の中津川が、朝から社長室で難しい顔をしていた。難しいというか、決算書を開いたら自分の雑な判断がそのまま赤字になって飛び出てきた時の、人の顔だ。


 森山部長はさらに分かりやすかった。


 歩く速度が遅い。


 声が低い。


 眉間のしわが、もはや常設設備になっている。


 人は追い詰められると、本当に肩で年齢が増えるんだなと思う。


「おはよう」


 黒田が椅子ごと寄ってきた。


「おはよう」


「今日の会社、完全に数学の追試前だな」


「嫌な例えだな」


「昨日、数字が出たんだろ?」


「出た」


「うちの会社、言葉には鈍いけど数字には弱いからな」


「知ってる」


 その通りだった。


 怒られてもごまかす。現場の悲鳴もごまかす。だが金額だけはごまかしきれない。


 資本主義、たまに正しい。


 パソコンを立ち上げると、神谷弁護士からメールが来ていた。


 >相手方から、修正後の和解水準について打診がありました。前回よりは上がっていますが、なお不十分です。後ほど電話で整理しましょう。


 前回よりは上がっている。


 だろうな、と思った。


 さすがに昨日の審判官の反応を見て、ファミリーセールみたいな額で押し切れるとは思わなかったのだろう。


 だが、なお不十分。


 その一文だけで、会社がまだこちらを少し甘く見ていることが分かる。


「どうだった」


 黒田が聞く。


「和解案、少し値上がりしたらしい」


「スーパーかよ」


「でもまだ安いらしい」


「じゃあ特売だな」


「こっちは俺の人生を売ってるわけじゃないんだが」


「うん、それを会社がまだ理解してない感じか」


 理解していない。


 もしくは、理解していても、その値段で済んでほしいと願っている。


 会社というのは便利だ。人の三年を、わりと気軽に端数処理したがる。


 午前中、俺はいつも通り最低限の業務だけをこなした。


 記録を残す。


 余計に背負わない。


 対外対応は広げない。


 その生活にも少しずつ慣れてきたが、同時に、前の俺がどれだけ無限に拾っていたかも分かってしまう。


 榊原が見積で迷っている。


 経理の田辺さんが請求書の締め日で詰まっている。


 営業二課の誰かが納期の認識を間違えている。


 全部、前なら自動的に俺の前へ流れてきた。


 今は流れてこない。


 いや、流れてきても拾わない。


 その結果、会社のあちこちで小さな渋滞が起きていた。


 ざまぁ、とはまだ思わない。


 でも、ちゃんと困れとは思う。


 そうしないと、何が仕事で、誰がそれを担っていたか、一生分からないままだからだ。



 十時半ごろ、人事の大村が来た。


「白石くん」


「何でしょう」


「少し、事務的な確認で」


「書面で」


 もう条件反射である。


 だが今回は大村も慣れてきたのか、すぐうなずいた。


「はい。メールします」


 ですます口調の応酬に、最近ちょっとした武術の気配がある。


 黒田が横で小さくささやく。


「おまえらのそれ、もう新しい剣術だろ」


「示現流みたいに言うな」


「書面流」


「弱そうで強いな」


 五分後、大村からメールが来た。


 >件名、備品返却状況等の確認。


 備品。


 ついにそこまで来たか、と思う。


 内容は、貸与スマホや社員証、会社資料の保管状況についての確認だった。退職がまだ確定していないくせに返却の外堀だけ埋めてくるあたり、会社らしいせっかちさである。


 俺は保存してから返信する。


 >現在、雇用関係は継続中と理解しておりますので、退職時の返却対象については、その時点で整理します。


 送信。


 しばらくして、廊下の向こうで森山が大村に何か言っているのが見えた。口の動きからして、おそらく、どうしてそうなるんだ、みたいな内容だろう。


 いや、おまえらがそうしたんだよ。


 昼休み、神谷弁護士と電話した。


 場所はいつもの非常階段だ。会社で弁護士と話す時、人は本当に忍者みたいな移動を覚える。


「和解案ですが」


 神谷弁護士が言う。


「前回よりは上がりました。ただ、未払い残業代の認識がまだ低いですし、初回面談の違法性に対する評価も薄い」


「想定内です」


「はい。相手としては、会社の体面を保ちながら、できるだけ安く終えたいのでしょう」


「体面って大事なんですね」


「会社はお金と同じくらい、面子にも敏感です」


「厄介だな」


「厄介です。でも、そこは交渉材料にもなります」


 神谷弁護士の声は、いつも通り落ち着いていた。


 その落ち着きに、かなり助けられている気がする。


「こちらとしては、次回で現実的な水準へ寄せるつもりです。審判官の心証も踏まえると、相手も大きく外したままでは来づらいでしょう」


「もし最後まで安かったら」


「その場合は審判に移行する可能性もあります。ただ、会社側はそこまで行きたくないはずです」


「ですよね」


「録音と数字が揃っていますから」


 録音と数字。


 最近の俺の武器一覧である。


 剣でも魔法でもないが、現代日本ではかなり強い。


 通話を終えて階段の踊り場から空を見た。


 薄い雲が流れている。


 風は少しぬるい。


 会社の空気よりはずっとましだ。


 午後、事務所へ戻ると、榊原が俺の席の横で立ち尽くしていた。


「どうした?」


「あのさ」


「うん」


「これ、どっちの請求先だっけ」


 手元の書類を見る。


 見積番号が二つ並んでいて、たしかにややこしい案件だ。


 前の俺なら、ああそれはこっち、と五秒で答え、そのまま送付文まで直していた。


 だが今の俺は違う。


 五秒で答えない。


「関連メール見たか」


「途中まで」


「最後まで見ろ」


「厳しい」


「会社がそう育てた」


 榊原はうなだれたが、少ししてから言った。


「でも前より分かる。おまえがずっとこれやってたんだって」


「よかったな。気づきがあって」


「気づきたくなかったけどな」


「だろうな」


 榊原は苦笑して、自分の席へ戻った。


 その背中を見ながら、少しだけ思う。


 こういう小さい気づきが、いちばん遅れて届くのかもしれない。



 退勤前、社長室の扉が開き、中津川社長が出てきた。


 目が合う。


 数秒だけ、互いに止まる。


 前なら、俺のほうが先に目を逸らしていたかもしれない。


 だが今は違う。


 社長のほうが先に口を開いた。


「白石くん」


「はい」


「体調は、大丈夫か」


 その問いに、危うく笑いそうになった。


 急に人間味を売るな。


 いや、人間味そのものは大事だが、それを出すタイミングが遅すぎる。


「問題ありません」


「そうか」


「はい」


「……色々、行き違いもあったと思うが」


「代理人を通してください」


 社長は黙った。


 ほんの一瞬、肩が落ちる。


 気の毒とは思わない。


 退職届を机に出した瞬間から、この流れはだいたい決まっていたのだ。


「そうだな」


 それだけ言って、社長は去った。


 黒田がすぐ横で、小声で言う。


「今の、会社のラスボスが村人Aになった瞬間みたいだったな」


「村人に失礼だろ」


「じゃあ、イベント後の敗北幹部」


「それはちょっと分かる」



 定時を過ぎるころ、会社の空気はまた少し鈍くなっていた。


 静かで、重くて、でも前みたいな一方的な圧ではない。


 向こうも疲れている。


 こっちも疲れている。


 ただ、前と違うのは、その疲れが一方通行じゃないことだった。


 俺は今日のやり取りを全部保存する。


 大村のメール。


 神谷弁護士との連絡。


 社長との短い会話のメモ。


 フォルダの中に並んでいくと、毎日の細かい違和感が、ちゃんとした流れになる。


 そして新しいフォルダを一つ作った。


 名前はこうした。


 『和解案まだ安い件』


 ひどい名前だと思う。


 だが、正確だ。


 帰り際、自動ドアの前で黒田が言った。


「なあ白石」


「ん」


「会社、たぶん今、おまえの三年分を計算してるんだろうな」


「今更か。遅いな」


「遅い。でも、やっとだ」


 外へ出る。


 夕方の風が、少しだけ気持ちよかった。


 駅前の喫茶店からコーヒーの匂いが流れてくる。


 静かな場所。


 うまいコーヒー。


 その二つは、まだ手の中にはない。


 でも、会社が安く見積もったままでは終わらせない、という気持ちだけは、前よりずっとはっきりしていた。


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