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第8話 数字になると強い


 第二回期日の朝、俺はまた裁判所の支部へ向かっていた。


 人は短期間に何度も同じ場所へ行くと、妙に慣れる。


 慣れたくない場所ランキング上位なのに、二回目ともなると最寄り駅の乗り換えも、庁舎前の横断歩道の長さも、手荷物検査でベルトを外すか迷う感じも、だいたい分かってくる。


 悲しい適応力である。


 ただ、前回と違うのは、俺の鞄の中身だった。


 今日は感情より数字が多い。


 残業時間の合計表。


 改ざん前後の差分一覧。


 月ごとのメール送信件数。


 休日対応回数。


 人間の消耗は、こうして表にすると急に強い。


 痛みそのものは曖昧でも、二十二時四十七分の送信履歴は曖昧にならない。


 裁判所のロビーで神谷弁護士と合流すると、開口一番こう言われた。


「今日はかなり大事です」


「前回もそう言ってませんでしたか」


「毎回大事です」


「学校の中間試験みたいだ」


「違います。落第すると生活に響きます」


「余計に怖い」


 神谷弁護士は薄い笑みだけ浮かべ、ファイルを開いた。


「相手方は、初回面談の位置づけでかなり苦しいので、今日は主に金額と勤務実態の整理に寄せてくるはずです」


「金額」


「はい。会社にとっては、正義より金額のほうが理解しやすいので」


 それはすごく分かる。


 うちの会社も、誰かの疲労や現場の悲鳴は雑に扱うくせに、売上表の赤字だけは全力で見る文化だった。


 人間には鈍く、数字には敏感。


 株式会社アーク・サポートは、たぶんそういう意味で極めて現代的だった。


「今日のポイントは二つです」


 神谷弁護士が指を二本立てる。


「一つ、残業代の基礎となる勤務時間の裏付け。二つ、会社がどこまで現実的な解決金を出せるか」


「現実的」


「夢みたいに安い額を出してきても、こちらは現実に戻します」


「頼もしい」


「営業事務の方が作る一覧表くらい、頼もしくありたいですね」


 その評価、最近わりと好きだ。



 審判室へ入る。


 今回も部屋は静かで、狭くて、会社の会議室よりずっと人間的だった。


 会社側は前回と同じ顔ぶれに、同じ代理人。


 だが表情が違う。


 社長の中津川は前回よりさらに紙っぽい。森山部長はもはやコピー用紙ではなく、湿気た付箋くらいの色をしている。大村は相変わらず湿度が高いが、その水分の大半が冷や汗に移行した感じだ。


 そして相手方代理人だけが、今日も硬い革鞄と共に平静を保っている。


 プロはすごい。


 自分の依頼者が雑でも、顔だけは整える。


 手続きが始まる。


 審判官がまず、会社側の追加主張を確認した。


 代理人は前回より慎重に言葉を選んでいた。


「会社としては、申立人の業務量について一定の負荷があったことは認めつつも、あくまで本人の自主的な対応も含まれており」


 自主的。


 出た。


 ブラック企業が困ると使う魔法の言葉である。


 だいたい、やらなければ現場が死ぬ状況を自主性と呼ぶ。


 自主性にしては悲鳴が多すぎるだろう。


 神谷弁護士が、俺たちの作った一覧表を出す。


「自主的対応との主張ですが、提出済みのチャット記録では、営業担当からの依頼、顧客からの直接問い合わせ、経理処理の確認要請が日常的に申立人へ集中しています。加えて、放置できない性質のものが多い」


 審判員が資料を見ながら、会社側へ尋ねる。


「この件数を見ますと、かなり恒常的ですね。会社として分担の見直しはしていなかったのですか」


 森山部長が答えかけ、代理人が一瞬制した。


 だが制し切れなかった。


「現場が回っていたので」


 言った。言ってしまった。


 森山自身も、口にした瞬間まずいと分かった顔をした。


 俺は危うく下を向くところだった。


 面白すぎる。


 でも顔に出してはいけない。面白がるな。神谷弁護士にも言われている。


 審判官が静かに言う。


「『回っていた』ということであれば、それは申立人が実際に相当量の業務を恒常的に担っていたということですね?」


 森山は黙った。


 代理人が引き取る。


「結果として負担が集中していた可能性は否定しません」


 すごい。


 前回の総合判断と配慮から、だいぶ現代日本へ戻ってきた。


 人は証拠を前にすると、少しずつ文明化するのだ。


 続いて残業代の話になる。


 神谷弁護士が、月ごとの時間外労働の一覧と、メール送信時刻、チャット対応履歴、バックアップ勤怠の差分を順に示す。


「現行データでは削られている時間帯についても、送信記録や対応履歴が残っています。少なくとも、ゼロとして扱うのは不自然です」


 会社側代理人が言う。


「差分の一部については、入力ミス等の可能性も」


 神谷弁護士が即座に返す。


「月をまたいでも同種の修正が繰り返されいる点、深夜帯メールと連動している点から、偶発的ミスでは説明が困難です」


 審判員の一人が俺へ向く。


「申立人として、退勤後や休日の対応は、断れる雰囲気でしたか」


「いいえ」


「理由は?」


「断ると、その後の顧客対応や社内調整が止まってしまうので。あと、断ると協調性がないという評価になりやすい空気がありました」


「実際にそう言われたことは?」


「あります。初回面談でも、協調性や自発性の話は出ています」


 声は落ち着いていた。


 前回より、ずっと。


 たぶん今日は、自分の苦労を説明しているというより、業務フローの欠陥を説明している感覚に近い。


 それでいくらか楽だった。


 痛みを語るより、仕組みを語るほうが、人は呼吸しやすいようだ。


 審判官が会社側へ視線を移す。


「会社としては、これらの時間外労働を把握していなかったのですか」


 代理人が少し間を置く。


「十分には」


 うわ、と思った。


 それ、会社としてかなり弱い答えではないか。


 本当は「把握していなかった」で逃げたいのだろうが、本来なら「把握すべき立場」なので「把握していなかった」とは言えない。だが今の発言は、そう言っているに等しい。


 会社ってすごいな。


 守ろうとすることで、むしろ自分の足場を削ってしまう。



 休憩を挟んだ後、いよいよ解決金の話になった。


 俺は内心、少しだけ身構えた。


 数字になると、人は急に現実へ引き戻される。


 怒りも悔しさも、表にすると桁で並ぶ。


 相手方代理人が、会社として考えている水準を示した。


 その瞬間、俺は無表情のまま、心の中でだけ叫んだ。


 安い。


 安すぎる。


 何だその、深夜残業と休日対応と退職届の精神的ダメージを、ファミリーセールみたいな値引き感覚で計算した額は?


 俺が三年で失った睡眠時間を、もっとちゃんと買い取れ。


 だが俺の頼もしい大賢者、もとい神谷弁護士は顔色ひとつ変えず、穏やかに返した。


「その水準では、申立人として到底受けられません。少なくとも未払い残業代の認識に大きな隔たりがありますし、初回面談の違法性評価も踏まえられていない」


 その言い方がよかった。


 怒っていない。


 だが、めちゃくちゃ斬っている。


 会社側代理人も、さすがにこれで押し切れるとは思っていないようだった。少し資料を見て、数字の再検討に含みを持たせる。


 審判官が双方へ言う。


「現時点では、会社側の提示はやや低い印象です。残業代の基礎部分と初回対応の問題を踏まえると、もう少し現実的な整理が必要でしょう」


 その一言で、部屋の温度が少し変わった気がした。


 社長の顔がさらに白くなる。


 森山部長は目を伏せる。


 人事の大村はもう、水を含みすぎたスポンジみたいな顔だ。



 数字になると強い。


 証拠も強いが、そこからきちんと計算された金額はさらに強い。


 会社はようやく、自分たちの雑さがいくらになるのか、現実の単位で突きつけられている。



 期日の終盤、審判官が次回までの整理事項を確認した。


 会社側は、残業時間認定について追加の見解と、より具体的な解決案を出すこと。


 こちらは、残業代計算の補足と、初回面談に関する整理を追加提出すること。


 つまり、もうかなり終盤だ。



 審判室を出ると、俺は息を吐いた。


 前回より疲れた。


 だが疲労の種類は違う。


 ただ削られる疲れではなく、重たいものをちゃんと持ち上げることができた後の疲れだった。


「お疲れさまでした」


 神谷弁護士がファイルを閉じる。


「相手、かなり下げてきましたね」


「はい。特に業務実態はもう否定しきれていません」


「金額は?」


「まだ低いです。でも、次は現実に寄せてくると思います」


「今日の審判官の反応、だいぶ効いてましたね」


「効いています。会社は、社内ではごまかせても、数字にはごまかしが利きにくいので」


 その通りだった。


 会社の中では、総合判断とか、配慮とか、建設的とか、ふわっとした言葉で人を押し切れる。


 でもここでは違う。


 何時間働いたか。


 何回休日に対応したか。


 何を言われたか。


 それが全部、数字や文書になって机の上へ出る。


 曖昧な支配は、数字に弱い。


 裁判所の外に出ると、昼過ぎの風が少し強かった。


 スマホを見ると、黒田からメッセージが来ている。


 >どうだった?


 >会社が数字に殴られてた


 >具体的でいいね


 >残業代って言葉を聞くたびに社長が白くなってた


 >いい傾向だ


 >かなりな


 >あと森山が「現場が回っていたので」って自白した


 >自爆じゃん


 >うん。今日は全体的に会社が自分で自分を説明して沈んでた


 >それもうコントじゃん


 少し笑って、スマホをしまう。


 駅前の喫茶店へ入り、席に座る。


 今日はアイスコーヒーにした。氷が鳴る。冷たさが喉を通る。


 数字になると強い。


 さっき審判室で、はっきりそう思った。


 俺が失ったものは、睡眠も、気力も、自尊心もあった。


 全部を数字にはできない。


 でも、数字にできる部分だけでも、ちゃんと会社へ返すことはできる。返してもらうことも。


 それは、思ったより大きな救いだった。


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