第7話 会社は急に優しくなる
第一回期日から三日後の金曜、会社は気味が悪いほど静かだった。
いや、静かというのは正確ではない。
電話は鳴っている。コピー機は紙を食っている。榊原はどこかでたぶん何かを間違えている。そういう物理的な音はいつも通りある。
ただ、人の態度が静かだった。
俺に対して。
会社という生き物は、劣勢になると急に物腰が柔らかくなる。
野良猫ならかわいい。
ブラック企業だと怖い。
自動ドアを抜けて事務所に入った瞬間から、それは始まった。
「おはよう、白石くん」
総務の若手が、昨日までの一・五倍くらい丁寧に挨拶してくる。
「おはようございます」
俺も返す。
別に感じが悪くなりたいわけではない。だが、朝からこの優しさはだいぶ不自然だ。昨日まで俺のことを、気まずい案件みたいに遠巻きに見ていた人間が、今日は急に近所のパン屋くらい親しげなのである。
席へ向かう途中、経理の田辺さんまで声をかけてきた。
「白石さん、先日の一覧、すごく分かりやすかったです」
「どうも」
「助かってます」
「それは何よりです」
礼を言われた。
礼。
うちの会社にまだそんな文化が残っていたのか。
絶滅したと思っていた。
席に着くと、黒田がすぐに椅子ごと寄ってきた。
「おはよう。見た?」
「何を」
「会社の空気」
「見た」
「完全に、熊に一回ひっかかれた後の山小屋だぞ」
「比喩が怖いな」
「でも合ってるだろ。みんな、刺激しないようにしてる」
言われてみれば、その通りだった。
誰も俺に雑な頼み方をしない。急かさない。ため息を聞かせない。挙句の果てに、榊原が自分の席で見積書を作ろうとしていた。
地殻変動か。
いや、第一回期日の後だからか。
たぶん後者だ。
パソコンを開くと、メールが来ていた。
差出人は神谷弁護士。
>会社側代理人から、和解可能性について探りの連絡がありました。次回までに一定の金額提示があるかもしれません。
探り。
その単語に、ちょっとだけ笑いそうになった。
数日前まで退職届を差し出して『役立たずだからやめろ』と言ってきた会社が、いまは探ってくる。
海賊だった連中が急に外交官ぶっている感じだ。
「どうした?」
黒田が聞く。
「会社の和解の気配」
「うわ」
「うわだろ」
「急に現代日本だな」
「ずっと現代日本だよ」
「いや、おれらの会社、たまに中世になるからさ」
否定できない。
そんな会話をしていると、榊原がまた近づいてきた。今日は手ぶらではない。小さめの紙袋を持っている。
「白石さん」
「何でしょう?」
「これ、もらい物なんだけど」
紙袋の中には個包装の焼き菓子が入っていた。
こわい。
会社で急にもらう菓子はだいたい理由がある。
「なに、毒見?」
「違う違う。そういうんじゃなくて」
「じゃあ何だろう?」
榊原は小声になった。
「ちょっと相談、いい?」
「内容による」
「仕事じゃなくて」
「なおさら内容による」
榊原はちらっと周囲を見てから、さらに声を潜めた。
「俺さ、昨日、部長に言われたんだよ。白石さんの件……みたいになると困るから、残業はちゃんと申請しろって」
俺は思わずまばたきした。
会社がようやく、労基という概念の存在を思い出している。
「で?」
「でも、今まで申請しなくていい空気だったじゃん」
「だいぶな」
「急に申請しろって言われても、何か怖くて」
「会社が?」
「うん」
「正常な感情だな」
榊原は本気で困っている顔をしていた。
この男、仕事は雑だが、たまに妙な素直さがある。
「申請しろって言われたなら、したほうがいい」
「後で何か言われないかな」
「言われたら、その時の記録を残せ」
「うわ、もう思考が法務」
「この会社が育てたんだよ」
榊原は苦笑した。
「なんかさ」
「ん」
「白石さんが戦ってるの見て、会社って勝手に偉いわけじゃないんだなって思った」
その言い方は少し意外だった。
榊原みたいなタイプは、もっと雑に生きていると思っていた。いや、実際雑には生きているのだが、雑なりに何か見ていたのだろう。
「遅いけどな」
「遅いね」
「かなりな」
「でも、ありがたいです」
榊原は菓子を一つ机に置いて去っていった。
礼と菓子が同時に発生している。
ほんとうに気味が悪い。
午前十時過ぎ、人事の大村からメールが来た。
>件名、今後の勤務に関するご相談。
この件名だけで、胃にうっすら膜が張る。
だが前ほどではない。
もう分かっているからだ。相手が何を言うか完全には分からなくても、どう受けるかは決められる。
本文を開く。
今後の業務範囲や勤務継続の可能性について、改めて建設的に話し合いたい、という内容だった。建設的。円満。配慮。最近の社内流行語トップスリーである。
俺はそのまま神谷弁護士へ転送する。
返事は早かった。
>面談自体は可能ですが、その場で合意しないこと。条件提示は必ず書面で。できれば、相手方代理人経由でのやり取りに戻したいです。
ですよね、と思う。
大村へは短く返信する。
>ご連絡ありがとうございます。条件に関するご提案は、代理人間でのやり取りにてお願いいたします。
送信。
もうほとんど定型文だ。
だがこの定型文が、会社にはものすごく効く。
十分後、廊下で大村とすれ違った。向こうは何とも言えない顔をしていた。メロンを買ったら冬瓜だった時みたいな顔だ。
たぶん想定していた展開と違うのだろう。
俺だって違う。
数週間前まで、自分が人事に代理人間でと返信する人間になるとは思っていなかった。
人生、急に法的になる。
昼休み、俺は会社近くの公園へ出た。
小さな公園だ。ブランコ二台。ベンチ三つ。昼休みの会社員が少しだけ座る場所。桜の木が一本あって、今は葉だけが青々としている。
コンビニのおにぎりとお茶を持って、端のベンチへ座る。
風が少しある。
この風に当たると、会社の空気が皮膚から少し落ちる気がした。
そこへスマホが震えた。
妹の真帆からだ。
>審判どうだった?
>会社が静かになった
>勝ってるじゃん
>まだ途中だ
>でも会社が急に優しい
>うわ一番怖いやつ
>分かる?
>分かるよ。弱ったクマほど静かに近づくじゃん
>おまえの比喩、最近ずっと野生動物寄りだな
>ブラック企業はだいたい野生だからね
それには妙に納得してしまった。
真帆は続けて送ってきた。
>で、もしお金取れたらどうするの?
その問いに、指が少し止まった。
どうする。
そこは、まだちゃんと考えていなかった。
いや、ぼんやりとはあった。
会社を辞めたい。
ちゃんと休みたい。
できれば、朝から晩まで誰かのミスを回収しない場所へ行きたい。
それくらいはある。
だが、その先までは、まだ輪郭がぼやけていた。
少し考えて、返信する。
>静かな場所に行きたい
>それだけで十分じゃない
かもな
>あと、うまいコーヒー飲みたい
>急に具体的
>大事だろ
>大事だね
そのやり取りのあと、しばらくベンチで空を見た。
静かな場所。
うまいコーヒー。
その二つを並べると、なんとなく風景が見える気がした。
午後、会社へ戻ると、事務所の空気はさらにやさしくなっていた。
やさしいのに、楽ではない。
まるで、口では大丈夫ですと言いながら、全員が心の中で大丈夫じゃないと思っている葬儀会場みたいな感じだ。
特に森山部長がそうだった。
いつもの鋭さがなく、目だけが忙しい。資料を見て、メールを見て、誰かを呼び、また資料を見る。完全に守勢の管理職である。
十五時ごろ、その森山部長に呼び止められた。
「白石くん」
「はい」
森山は少し言いにくそうに口を開く。
「業務の件で、ひとつ確認したい」
「何でしょう」
「S工業の月次資料、どこまで更新されてる」
俺は一瞬だけ、間を置いた。
「共有フォルダの営業二課、顧客別、S工業、進行管理シートの最新版です」
「最新版が見当たらない」
「最新版です」
森山の眉が寄った。
つまり見つけられないのだ。
見つけられていないくせに、俺を役立たず扱いしていたのか。すごいな。目を閉じて車を運転していたようなものではないか。
「場所をメールで送ってもらえるか」
「承知しました」
俺は席へ戻り、五秒で送れる内容のメールを、三十秒かけて丁寧に書いた。
>共有フォルダ内の保存先は下記の通りです。
だけ。
送信してから、黒田がささやく。
「今の、めちゃくちゃ普通のメールなのに、なんか圧あったな」
「相手の理解力を信用してないからだろ?」
「それ普通に正しい」
夕方、神谷弁護士からまた連絡が来た。
>相手方から、一定額での解決可能性について非公式打診がありました。ただ、現段階ではかなり低い水準です。
俺は画面を見ながら、へえ、と小さく声が出た。
もう、そこまで来ている。
会社は自分たちの勝ち筋が薄いことを、かなり正確に理解し始めているのだろう。
だが同時に、まだこちらを甘く見ている。
低い水準。
数日の退職強要と残業代の端数を丸めて済ませよう、みたいな額かもしれない。
俺は少し考えて、返す。
>現時点では和解の前提が足りない認識です。記録の整理を継続します。
送信。
その一文を送った瞬間、自分で少し驚いた。
前なら、金額の話が出ただけで心が揺れたと思う。
でも今は違う。
たぶん理由は、会社が困っているのを見るだけで少し溜飲が下がっているからではない。
もっと単純だ。
自分が失ったものの量を、前よりちゃんと分かっているからだ。
時間。
睡眠。
平日の夜。
休日の気力。
自分の仕事は役に立っているという感覚。
そういうものが、少しずつ剥がれていた。
その総量を考えると、安い打診で丸められる気がしなくなる。
定時が近づき、俺は今日の記録を整理した。
会社からのメール。
神谷弁護士とのやり取り。
森山からの確認依頼。
全部フォルダへ保存する。
そして新しいフォルダを一つ作った。
名前はこうした。
『会社が急に優しい件』
我ながら性格が悪い。
だが、記録としては正確だ。
帰り際、自動ドアの前で黒田が言った。
「なあ白石」
「ん」
「会社、いま完全に、おまえを刺激しないほうがいい大型動物として扱ってるよな」
「クマか」
「うん、クマだな」
「いや、俺のほうが会社よりルール守ってるぞ」
「それが一番怖いんだよ」
外へ出る。
夕方の空気は、少しだけ涼しかった。駅へ向かう人の流れがゆるく動いている。信号が変わり、自転車が通り、パン屋からまた甘い匂いが流れてくる。
静かな場所に行きたい。
うまいコーヒーが飲みたい。
その願いが、今日は少しだけ、前より現実に近い気がした。




