第6話 審判室は静かだ
労働審判の第一回期日は、翌週の火曜だった。
前日、月曜の夜、俺は人生で初めて、シャツにアイロンをかけながら法律用語を復唱していた。
未払い残業代。
退職強要。
解雇回避努力の欠如。
配置転換の相当性。
どう考えても、普通の二十代後半の夜ではない。
しかも手元ではアイロンが不器用に唸り、シャツの袖が妙な山脈を形成している。法的には正しくても、生活力としてはだいぶ怪しい。
その時、妹の真帆から通話が来た。
「生きてる?」
「最近その確認から入るの、うちの家系で流行ってるのか」
「労働審判の前夜に元気いっぱいの兄は逆に怖いでしょ」
「元気ではない。アイロンで袖を地殻変動させている」
「何それ」
「見せたいが見せると人権が失われる」
真帆は電話の向こうで笑った。
「緊張してる?」
「してる」
「まあ、するよね」
「でも、会社で社長室に呼ばれる時よりはましだ」
「それ、基準が終わってる」
たしかに終わっている。
だが本当だった。社長室は空気が悪い。審判室はまだ行ってないが、少なくとも殴る気満々の人間が上座に座っている場所ではない。たぶん。
「兄ちゃん」
「ん」
「勝つとか負けるとかよりさ、ちゃんとしゃべって帰ってきなよ」
「へんな励ましだな」
「大事だよ。変な会社にいた人って、途中で自分の話しちゃいけないみたいになるじゃん」
その言葉が妙に残った。
ちゃんとしゃべって帰る。
確かにそれだけでいいのかもしれない、と思った。
「わかった。ありがとう」
翌朝、俺は会社ではなく裁判所の支部へ向かった。
建物は灰色で四角く、外観だけ見ると感情が一切ない。役所と病院と巨大な文房具を掛け合わせたような顔をしている。
だが近づくと、不思議と怖さは薄かった。
少なくとも、ここはルールが見える場所だ。
入口で手荷物検査を受ける。金属探知機のゲートをくぐる時、自分が犯罪映画の脇役みたいで少しだけ落ち着かない。
係員に鞄を渡す。
「ノートパソコンが入ってます」
「はい」
「飲み物あります」
「はい」
「会社への恨みは」
「鞄には入れてません」
言ってから、さすがにまずかったかと思ったが、係員は一瞬だけ口元を動かしただけだった。裁判所の人はたぶん、もっと濃い恨みを毎日見ている。
ロビーは静かだった。
会社の朝礼前みたいな、湿った静けさではない。図書館と病院のあいだくらいの静けさだ。みんな声を潜めて歩いている。床はよく磨かれていて、壁の案内表示も無駄がない。
強い。
床がきれいな組織は、だいたい強い。
待合の椅子で神谷弁護士と合流する。
「おはようございます」
「おはようございます」
「眠れましたか」
「五時間くらいです」
「十分です。会社員基準なら快眠です」
その言い方に、少し笑った。
神谷弁護士はいつも通り淡々としている。だが今日のファイルは厚い。俺の三年分の疲労が、紙の束になって弁護士の手元にあるのだと思うと、妙に感慨深かった。
「流れを再確認します」
神谷弁護士が小声で言う。
「今日は、申立て内容の確認と相手方の主張整理が中心です。こちらが必要以上に長く話す必要はありません。聞かれたことに、事実どおりに、具体的に」
「はい」
「会社側が感情論や人格評価に寄せてきても、巻き込まれないこと」
「はい」
「あと、相手方を見て面白くなっても顔に出さないこと」
「そんなに顔に出ますか」
「少し出ます」
出るらしい。
そこへ、会社側が現れた。
社長の中津川。
森山部長。
人事の大村。
そして、見慣れない男が一人。四十代くらい、紺のスーツに細いフレームの眼鏡。革鞄が硬い。
ああ、社労士っぽい人だ。
いや、今日はたぶん弁護士だろう。さすがに裁判所まで来て革鞄だけの一般人ということはない。
会社側もこちらに気づいた。
社長は明らかに顔が固い。森山は目の下のくまが濃い。大村はいつもの湿度に、さらに緊張を足してきた。梅雨に台風を混ぜたみたいな気配である。
相手方代理人らしき男だけが平静だった。
さすが職業人だ。
ブラック企業の現場猫たちと違って、少なくとも表情筋が仕事をしている。
だが、その平静も、俺から見ると少し滑稽だった。
だってこちらは、録音がありますよ。
心の中だけでそうつぶやく。
「白石さん」
神谷弁護士が軽く声をかける。
「はい」
「今日は、勝ちに行くというより、整理されていないことを可視化する場だと思ってください」
「可視化」
「はい。会社がどれだけ雑だったかを、丁寧な言葉で机の上に並べる作業です」
「得意分野かもしれません」
「でしょうね」
呼ばれて、審判室へ入る。
思っていたより小さい部屋だった。
法廷のように段差があって劇的、という感じではない。机が向かい合って並び、奥に審判官と審判員が座る。会議室に似ているが、会社の会議室と違って、入った瞬間に胃が痛くならない。
これが制度の力か、と思った。
部屋が狭くても、ルールが公正だと人は少し呼吸しやすい。
手続きが始まる。
審判官は五十代くらいの落ち着いた人で、声が低くて通る。左右の審判員も穏やかな顔をしていた。片方は企業実務に詳しそうな雰囲気、もう片方は労働現場の機微を知っていそうな表情をしている。
会社の会議室と決定的に違うのは、最初から相手の機嫌を取る必要がないことだった。
審判官が申立ての概要を確認し、会社側代理人に視線を向ける。
「相手方としては、申立人に対する退職強要や解雇の事実は否認する、ということでよろしいですか」
代理人が口を開く。
「はい。会社としては、あくまで組織体制見直しの一環として業務再配置を検討しており、退職届も本人の将来に配慮した参考資料として」
配慮。
出た。
ここでも出た。
どこまで流行ってるんだ、その単語。
俺は顔を無にした。面白がるなと言われていた。
神谷弁護士が、静かに反論する。
「録音反訳を提出済みですが、初回面談では継続就労が困難との明示があり、その場で退職届を差し出しています。少なくとも、単なる参考資料提示とは言い難いです」
代理人が少し資料をめくる。
「表現に不適切な点があったとしても、会社の本旨は」
審判官がそこで割って入った。
「本旨ではなく、その時点で何が行われたかがまず問題です」
強い。
言い方は静かなのに、めちゃくちゃ強い。
俺は心の中で拍手した。
会社の会議室では、いつも本質より本旨とか空気とか上司の気分が勝っていた。ここでは違う。何が言われたか。何が出されたか。どの資料があるか。それだけを見る。
最高だ。
続いて、業務実態の話に入る。
神谷弁護士が、俺の業務一覧とメール履歴、相談ログを示しながら説明していく。
「申立人は単なる補助職ではなく、顧客一次対応、見積作成補助、納期調整、営業の事後処理、請求確認等を横断的に担っていました」
審判員の一人が会社側へ尋ねる。
「これだけの業務を担っていて、能力不足という評価になる根拠資料はありますか」
森山部長の顔が、ほんの少し引きつった。
会社側代理人が代わりに答える。
「評価については、上司の総合判断で」
総合。
おお、こちらも出た。
今日は流行語大賞の会場か。
審判官が資料を見ながら言う。
「総合判断ということですが、指導記録や改善計画のようなものは」
「現時点では」
「ない?」
「……提出資料上はございません」
提出資料上はございません、というのは社会人の上品な敗北宣言の一種だと思う。
その瞬間、空気が少し変わった。
大きくではない。ドラマみたいな決定的場面でもない。
でも、机の上の重さが、少しだけ向こうへ移ったのが分かる。
次に残業の話へ移る。
神谷弁護士が勤怠バックアップとメール送信履歴を出す。
「現行勤怠とバックアップデータの間に差異があります。さらに深夜帯の業務メール送信、休日対応チャットが残っています」
会社側代理人が言う。
「自己判断で残っていた可能性も」
その瞬間、審判員の一人が首をかしげた。
「顧客対応や他部署からの依頼に関するメールですね。自己判断だけでこれだけ横断的に対応するのは、通常考えにくいのでは」
そう、それだ。
俺は毎晩、個人的な趣味で会社を支えていたわけではない。
好きで二十二時に営業の誤送信を片づけ、休日にクレームの一次消火をしていたわけではない。そんなボランティア精神があるなら、とっくに山奥で動物保護でもしている。
審判官が、初めて俺に直接尋ねた。
「申立人としては、これらの業務について上司の指示または黙示の要請があった、という理解ですか」
「はい」
声が少し乾いたが、ちゃんと出た。
「明示の指示もありましたし、日常的に私が対応する前提で依頼が集まっていました。放置すると顧客対応や請求処理が止まるため、実際には私が回収せざるを得ませんでした」
「それについて、断りづらい雰囲気があった」
「かなりありました」
「どういう意味で」
俺は一瞬だけ考えた。
事実通りに、具体的に。
ちゃんとしゃべって帰る。
「断ると、協調性がないとか、受け身だとか言われやすい環境でした。実際、今回もそうした評価が口頭で示されています」
審判官が軽くうなずいた。
神谷弁護士は何も言わない。
だがその沈黙が、話せという合図にも、そこで十分だという合図にも感じられた。
会社側は、その後もしばらく、体制見直しだの配慮だの総合判断だのを並べていた。
だが机の上に並ぶたび、言葉の軽さが目立つ。
録音がある。
メールがある。
差分のある勤怠がある。
業務一覧がある。
ここ現代日本では、証拠のないふんわりした支配は、こういう場所へ来ると急に痩せるのだ。
休憩を挟み、最後に審判官が双方へ今後の整理方針を伝えた。
「会社側には、初回面談時の認識整理、評価根拠資料、勤怠差異についての説明を次回までにお願いします」
会社側代理人が、分かりましたと答える。
その横で、社長の顔がさらに紙っぽくなっていた。
紙っぽいというか、もはや提出されたけど中身が薄い稟議書みたいな顔である。
期日を終えて廊下に出ると、俺は思っていたよりずっと普通に立っていた。
膝が震えるとか、世界が変わるとか、そういう感じではない。
ただ、静かに、ああ終わったな、と思った。
「お疲れさまでした」
神谷弁護士が言う。
「どうでした?」
「思ったより、会議っぽかったです」
「そうですね。会社の会議と違って、ちゃんと意味がありますが」
それで少し笑った。
「今日の感じだと、相手はかなり厳しいです。特に初回面談の録音と、評価根拠の薄さ」
「はい」
「次回で、解決金を含めた具体的な話が見えてくる可能性があります」
解決金。
まだ現実味は薄い。だが、少なくとも夢物語ではなくなっていた。
裁判所の外に出る。
空は晴れていた。風が少し強い。庁舎前の植え込みが揺れている。
スマホを見ると、黒田からメッセージが入っていた。
>どうだった?
>会社よりまともな会議だった
>それはもう勝ちでは
>かなりな
>あと、森山が『総合判断』を連発していた
>まだ使ってんのあの呪文
>効かなかった
>だろうな
俺は歩きながら、小さく笑った。
腹が減っている。
緊張していたはずなのに、不思議と食欲がある。
たぶんこれも、生きてるほうの疲れだ。
駅前の喫茶店に入り、熱いコーヒーを頼む。
カップが置かれ、香りが立つ。
ひと口飲んで、ようやく思った。
うん。今日は、ちゃんとしゃべって帰れた。




