第5話 会社が青くなる日
金曜の朝、会社の自動ドアはついに開く前から負けている顔をしていた。
もちろん、ドアに顔はない。
だが、三年も通えば分かる。この鈍い開き方は、だいたい中で誰かが面倒なことになっている時の速度だ。
俺はカードキーをかざし、自動ドアのやる気のなさを全身で浴びながら中へ入った。
事務所の空気は、昨日までのざわつきに加えて、さらに青かった。
顔色が。
人の。
特に森山部長の。
あの人はもともと血色のいいタイプではないが、今日はもうコピー用紙の裏面みたいな色をしている。社長の中津川も、自席から事務所を見下ろしながら難しい顔をしていた。難しいというか、今まで自分が蒔いた種から雑草ではなく手りゅう弾が生えてきた時の顔だった。
俺は静かに自席へ向かう。
途中、営業二課の榊原と目が合った。
榊原は口を開きかけ、閉じた。何か言いたいが、いま俺に話しかけると会社のルールではなく自然の摂理で怒られそうだと思っている顔だった。
正しい判断である。
席に着くと、未読メールは二十三件。
減っていた。
いや、いいことではない。みんなもう俺に丸投げしても無駄だと学び始めただけだ。会社全体としては進歩だが、人類としては遅い。
パソコンを立ち上げていると、黒田がコーヒー片手に寄ってきた。
「おはよう。今日の会社、文化祭の前日に台風来たみたいな顔してるぞ」
「楽しい要素が一個もないな」
「社長が朝から人事と総務呼んでる」
「ほう」
「あと、社労士っぽい人も来てる」
「っぽいって何で分かる」
「革鞄が硬い」
「偏見が強いな」
「あと表情が、助言はするけど責任は取らない人の顔」
「精度高いな」
俺は笑いそうになりながら、メールを確認する。
その中に、神谷弁護士からの一通があった。
会社側代理人から受任通知が届きました。今後、会社との法的交渉窓口はこちらになります。
受任通知。
その単語を見た瞬間、なんだか妙に実感がわいた。
ああ、向こうもちゃんと嫌がったんだな、と。
いままでは会社の中だけで起きていた話が、外の世界の手続きとして形になったのだ。ブラック企業がブラック企業のノリだけで押し切れなくなる瞬間である。文明の光だ。
「どうした?」
黒田が覗き込む。
「会社、弁護士つけた」
「うわ、急にラスボス戦のBGM流れてきたな」
「でも向こう、昨日まで素手だったからな」
「それで殴り合ってたのかよ」
「俺は証拠を持ってた」
「一番怖いやつじゃん」
九時半を回った頃、人事の大村がやって来た。
相変わらず湿った気配をまとっているが、今日はその湿度の中に焦りが混じっている。梅雨に生乾きのバスタオルを足したような感じだ。
「白石くん」
「何でしょう?」
「社長が少し」
「書面で」
「いや、今日はその、正式な面談というより、確認程度で」
「書面で」
俺が反射で返すと、大村は一瞬だけ遠くを見た。人はどうしようもなくなると、たぶん海とか山とかを想像する。
「では、メールします」
「ありがとうございます」
ですますの往復が、ここまで攻防になる職場も珍しいと思う。
大村が去ったあと、黒田がぼそっと言った。
「最近のおまえ、呪文が一個だけの賢者みたいだな」
「書面で、は強いぞ」
「消費MP低そう」
「しかも効く」
十分後、大村からメールが届いた。
件名、業務整理に関する確認。
丁寧語がびっしり並んでいる。人は不利になると文章が長くなる。たぶん短く言い切る自信がなくなるのだろう。
要するに、俺が持っている業務一覧や対応履歴を整理して提出してほしい、ということだった。さらに、今後の引継ぎを円滑に進めるため、可能な範囲で対面説明もお願いしたい、とある。
可能な範囲。
円滑。
最近の社内流行語が全部入っていた。
俺は保存してから、返信を打つ。
対応履歴の一覧化には協力します。対面説明については、現在の人事上の位置づけと指揮命令系統の明確化後に検討します。
送信。
黒田がまた肩を震わせる。
「それもう、やんわり断る文化人みたいになってる」
「断ってるわけじゃない。検討してる」
「一番怖い断り方だよ」
午前中いっぱい、俺は業務一覧を整えた。
これがまた、面白いくらい量がある。
見積書作成補助。顧客一次対応。クレーム一次鎮火。納期調整。営業の誤送信回収。請求書不備確認。備品在庫管理。共有フォルダ整理。複合機の機嫌取り。
最後は正式業務ではないが、実質そうだったので入れておく。複合機はうちの会社で一番感情豊かな社員だった。
項目を並べているうちに、自分でも少しおかしくなってきた。
これを、昨日まで役立たず扱いしていたのか。
会社の目は節穴というより、もう飾りなのではないか。
十一時過ぎ、榊原がついに寄ってきた。
今日は菓子折り代わりか、コンビニのカフェラテを持っている。
「白石さん」
「何でしょう?」
「これ、差し入れ」
「珍しい。なに、地震の前触れ?」
「違う違う。いや、半分そうかもだけど」
榊原はカフェラテを机に置き、声を潜めた。
「昨日さ、社長、会議室でめっちゃ怒られてた」
「誰に」
「社労士さんっぽい人に」
「っぽい人便利だな」
「だって名刺見えなかったし。でも言ってた。『何で退職届を先に出したんですか』って」
俺は危うくカフェラテを吹きそうになった。
外部の常識が社内へ流入すると、こんなにも面白いのか。
「あと、森山部長が、おまえがそんなに法律に詳しいとは思わなかったって」
「詳しくなったのは、御社のおかげです」
「俺に言うなよ」
榊原は困ったように笑ったあと、少し真顔になった。
「なあ、マジで戻らないの?」
「戻るって何に」
「いや、前みたいにさ。みんなでうまく」
うまく。
便利な言葉だ。総合的と同じくらい便利で、たいてい弱い側だけが我慢する時に使われる。
俺は少し考えてから答えた。
「前みたいにって、俺が全部拾って、誰かがミスして、俺が謝って、残業して、でも評価は総合的に低い、のことか?」
榊原は目を逸らした。
「……そこまでじゃ」
「そこまでだったよ」
きつく言うつもりはなかった。
でも、言葉にすると、思ったよりはっきり輪郭が出た。
榊原はしばらく黙っていたが、最後に小さく言った。
「悪かった」
「うん」
「俺、結構、投げてた」
「かなりな」
「……だよな」
そのやり取りだけで、妙に疲れた。
でも不思議と、嫌な疲れではなかった。
午後一番、神谷弁護士から電話が来た。
もちろん俺は席を立ち、非常階段へ移動する。会社の中で弁護士と話す時、人はだいたい忍者みたいな動きをする。
「白石さん、相手方の代理人から連絡がありました」
「はい」
「会社としては、解雇ではなく、あくまで話し合いの中での配置見直し提案だった、という立て方をしたいようです」
「録音内容と正面衝突しますね」
「します」
神谷弁護士の声は落ち着いていた。落ち着いているが、どこか少しだけ、向こうの無理筋を楽しんでいる気配もある。
「あと、退職届の件は、本人の将来に配慮した資料提示だったと」
「配慮、人気ですね最近」
「流行語大賞を狙っているのかもしれません」
この人、たまに乾いた冗談を言う。好きだ。
「こちらとしては、録音と文書、業務実態で十分に反論可能です。期日までに陳述書を詰めましょう」
「わかりました」
「それと、会社から直接何か言われても、感情的な応酬は避けてください」
「大丈夫です。最近、ですます口調で殴る技術が上がってきました」
「それはとても大事です」
褒められた気がする。
通話を終え、非常階段の踊り場から外を見る。空は薄曇りだった。ビルの谷間を風が抜ける。下では配送トラックが止まり、誰かが台車を押している。
普通の街だ。
でも、俺のいる世界はもう数日前とは違う。
前は会社の機嫌が天気だった。
今は違う。会社はただの一社で、俺はその中で消耗するだけの部品ではない。たぶん、ようやくそこまで来た。
事務所へ戻ると、森山部長に呼び止められた。
「白石くん」
「はい」
「少しいいか」
口調は抑えているが、目の下に疲れがたまっている。昨日までの威圧感はかなり剥がれていた。高圧洗浄機にかけたみたいに。
「何でしょう」
「君も、ここまで大きくしたいわけじゃないだろう」
出た。
大きくしたいわけじゃないだろう。
人はだいたい、自分が先に火をつけた件について、相手が消防を呼ぶと大げさだと言う。
「大きくしたのは、初日に退職届を出した会社では」
森山のこめかみが動いた。
「言い方の問題だ」
「録音があります」
その瞬間、森山の肩がほんの少し落ちた。
効いている。
すごく効いている。
「……君は、本当にそこまでやるつもりなんだな」
「適法に解決したいだけです」
「会社にも事情がある」
「労働審判で伺います」
森山は何か言いかけ、やめた。
そして、低い声で言った。
「前から思っていたが、君は頑固だな」
「三年で鍛えられました」
それだけ返して席へ戻る。
黒田が聞こえていないふりをしながら、ものすごく聞いていた顔をしていた。
「どうだった」
「頑固って言われた」
「おめでとう。会社にとって都合の悪い人間の第一歩だ」
「栄誉なのかそれ」
「少なくとも社内ではレア称号だろ」
定時前、俺は業務一覧の提出版を整え終えた。
見出しをつけ、項目を分類し、担当頻度と関連資料の場所まで書く。どう考えても役立たずの仕事量ではない。むしろ雑に便利すぎた人材の目録である。
ファイル名を付ける。
『業務整理一覧』
そのままだと悔しいので、心の中でだけ別名をつけた。
『失ってから気づくやつ』
送信先を確認し、社内メールで送る。
直後、事務所のあちこちで小さなざわつきが起きた。たぶん開いたのだろう。みんな、いまさら俺のやっていたことの全体量を見ている。
よいことである。
見ろ。浴びろ。現実を。
退勤時間が近づくと、社内のざわめきは少し質を変えた。朝の青さではなく、もう少し鈍い色だ。自分たちがどこで何を見誤ったのか、ようやく計算し始めた空気。
俺はパソコンを閉じる前に、新しいフォルダを作った。
名前はこうした。
『会社が青くなった記録』
かなり性格が悪いなと思ったが、やめなかった。
このくらいは許されるだろう。三年分の紙コップコーヒーの恨みもある。
帰り際、自動ドアの前で黒田が言った。
「白石」
「ん」
「なんかさ、会社のほうが最近、おまえの顔色うかがってるよな」
「いい傾向だ」
「うん。すごくいい」
外へ出る。夕方の空気は少し冷たくて、駅前のパン屋から甘い匂いが流れてきた。
腹が減っていることに、その時ようやく気づいた。
ちゃんと戦うと、人は腹が減る。
それはたぶん、いいことだ。生きてるほうの疲れだからだ。




