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第4話 労働審判開廷



 木曜の朝、俺は会社ではなく、神谷法律事務所の入った雑居ビルの前に立っていた。


 自動ドアはなかった。


 代わりに、押しても引いても一瞬迷うタイプの重たいガラス扉がある。


 人類はなぜ、入口に心理戦を仕掛けるのか。


 一度だけ押して失敗し、誰にも見られていないことを確認してから引いた。入れた。今日はそれだけで少し勝った気がする。


 エレベーターは遅い。狭い。壁の鏡が現実的すぎる。


 映っているのは、くたびれたスーツの会社員だ。勇者ではない。ましてや復讐鬼でもない。書類を抱えて眠そうな顔をした、どこにでもいる社畜である。


 ただの社畜と違うのは、その鞄の中に、会社がかなり嫌がるやつがぎっしり詰まっていることだけだ。


 神谷法律事務所の扉は白くて、清潔で、余計な装飾がない。


 会社の社長室よりずっと狭いのに、入った瞬間の圧迫感は三分の一だった。人が偉そうに座っていないだけで、空間はこんなにやさしくなるらしい。


「おはようございます」


 受付の女性が微笑む。


 人がちゃんとした敬語で迎えてくれるだけで、少し泣きそうになるのは、完全に労働環境に問題がある証拠だと思う。


 待合の椅子に座ると、黒い革がひんやりしていた。小さなテーブルには法律雑誌と爽やかな香りのインセンス。どちらも俺の会社にはなかった文化だ。


 ほどなくして、神谷弁護士が現れた。


「お待たせしました。資料、かなり整理されてますね」


「営業事務の意地です」


「とても助かります」


 褒められた。


 人は褒められると伸びる。うちの会社が三年間忘れていた真理である。


 応接室に入る。机の上には、俺が送った資料を印刷したものがすでに並んでいた。付箋が貼られ、色分けされ、整然としている。


 昨日まで俺の人生だったものが、今日は証拠になっていた。


 神谷弁護士がファイルを開く。


「まず整理します。会社側は、初日に継続就労困難と言い、退職届を示した。翌日には主担当を外す通知を出し、さらに配置転換と待遇見直しを示唆した。つまり方針がぶれています」


「はい」


「その上で、能力不足の客観資料が弱い。むしろ業務依存の痕跡が強い。加えて、未払い残業と勤怠改ざん疑惑まである」


「だいぶ満貫ですか」


「会社側にとっては跳満くらいあります」


 ちょっと元気が出た。


 俺の人生、いま麻雀用語で説明されている。


「なので、こちらは労働審判を申し立てます。請求の柱は三つ。解雇ないし退職強要の違法性を踏まえた解決金、未払い残業代、付加的に会社の対応の不合理性」


「地位確認じゃないんですね」


「戻りたいですか」


「まったく」


「でしょうね」


 即答だった。


 そこがよかった。


 現実的だ。俺だって会社を法で殴りたいのであって、もう一度そこで働きたいわけではない。ブラック企業に戻るのは、火事場から脱出したあと、自分の意思で炭火に寝転ぶようなものである。


「労働審判って、具体的にはどんな感じなんですか」


「裁判よりは柔らかいですが、雑談ではありません。裁判官一名と労働関係の審判員二名が入り、双方の主張と資料を見て、話し合いと心証形成を進めます」


「心証」


「分かりやすく言うと、誰が見ても変な会社かどうかが、かなり早い段階でばれる制度です」


「いい制度ですね」


「とてもいい制度です」


 神谷弁護士が笑った。


 この人、感情表現は少ないが、会社が変な時だけ少し楽しそうになる。職業病かもしれない。


 午前中いっぱいかけて、申立書の最終確認をした。


 俺は事実関係をひとつずつ読み上げる。いつ、どこで、誰が、何を言ったか。勤務時間。担当業務。改ざん前後の勤怠差分。夜間メールの送信履歴。顧客対応ログ。


 どれも俺には見慣れたものだ。


 なのに、紙の上に並ぶと急に凶器になる。


 人は文章で殴れる。


 正確には、文章と時系列と証拠で、かなり深く痛く殴れる。


 昼前、確認を終えると、神谷弁護士が静かに言った。


「これで行けます」


 その一言の重さに、俺は少しだけ息を吐いた。


 行ける。


 やっと、その言葉が現実味を持ってきた。


 事務所を出る頃には、外は昼になっていた。道路の向こうの定食屋から揚げ物の匂いがする。平日の街は普通に動いている。誰かの人生の転機とは関係なく、青信号も宅配便もコンビニも、いつも通りだ。


 その普通さが、逆にありがたかった。


 世界は会社だけじゃない。


 この数日で、ようやくそれが骨に染みてきた。


 俺は駅前のカフェに入った。


 チェーン店ではない、小さめの喫茶店だった。木のテーブル、少し擦れた革の椅子、壁にはよく分からない抽象画。コーヒーの香りがちゃんとしている。


 頼んだブレンドは、熱くて、苦くて、ちゃんとうまい。


 紙コップの暴行とは違う。


 生きてる味がした。


 そこでスマホを見ると、黒田からメッセージが来ていた。


 >生きてるか


 >妹と同じことを言うな


 >会社が死にかけてる


 >早いな


 >榊原さんが請求書の送付先間違えて森山が無言


 >無言の部長は逆に怖い


 >あと社長が今日ずっと社労士と電話してる


 >いい傾向だ


 >おまえ今日いないのに、おまえの名前が十一回出た


 >そんな人気者みたいなカウントいらない


 黒田は続けて、事務所の遠景をこっそり撮った写真まで送ってきた。


 森山が腕を組み、榊原が何か説明し、田辺さんが遠い目をしている。


 全員、疲れた動物園みたいな顔をしていた。


 少しだけ、笑った。



 その時、神谷弁護士からメールが来た。


 本日申立て完了しました。期日の連絡が来たらすぐ共有します。


 申立て完了。


 たったそれだけの文面に、妙な力があった。


 賽は投げられた。


 もう戻れない、ではない。


 前に進んでいる、だ。


 午後、俺は会社へ戻った。


 まだ在籍している以上、無断で全休する理由もない。そこが現代日本の面倒なところであり、逆に言えば面倒なところまできっちりやると強い。


 会社の自動ドアは、いつも通り渋かった。


 だが中へ入った瞬間、空気のほうが先に俺を見た気がした。


 受付の女の子がぴくっとする。営業の誰かが目を逸らす。森山部長は明らかに顔色が悪い。


 どうした? みんな昨日より元気がない。


 あ、俺が元気だからか。


「白石くん」


 大村がやって来た。


 湿った声はそのままだが、昨日までより一段低い。低姿勢という意味で。


「少し、よろしいですか」


「何でしょう」


「社長が、今後の件で」


「書面でお願いします」


 もう反射で出る。


 大村が一瞬だけ、苦いものを飲んだ顔をした。


「そう、ですね」


 ですね、になった。


 人は劣勢になると日本語が柔らかくなる。


 席へ戻ると、黒田が椅子ごと近寄ってくる。


「おかえり」


「ただいま」


「どうだった?」


「『申立て』というのをやった」


 黒田の目が丸くなる。


「マジで?」


「マジで」


「うわ、ついに魔王城に乗り込んだか」


「いや、現代日本だから裁判所の支部だな」


「魔王城より地味だけど強そう」


「強いよ。床がちゃんと掃除されてるし」


「それ強さの基準なのか?」

 

 黒田は笑った。

 俺はパソコンを開きながら肩をすくめた。


 未読メールはまた増えていたが、もう昨日ほど重く感じない。内容もほとんどが確認依頼か、過去資料の問い合わせだ。


 必要最低限だけ返す。


 対外対応はしない。


 記録は残す。


 今の俺はもう、会社を回すための雑用係ではない。争点を増やさないために冷静に行動する人間だ。


 夕方近く、森山部長からメールが来た。


 >件名、業務引継ぎについて再度お願い。


 本文はやはり丁寧だった。


 必要な範囲で協力いただきたい、円満な解決を目指したい、などと書いてある。


 円満。


 最近よく見る単語だ。


 たぶん会社の中で流行っているのだろう。タピオカみたいなものかもしれない。中身はそんなに甘くないが。


 俺はそのメールも保存した。


 返信はこうした。


 >業務の整理には協力しますが、現在の人事上の取り扱いが不明確なため、対応範囲は書面に基づき判断いたします。


 送信。


 黒田が覗き込んで、また肩を震わせる。


「その文面、相手の胃に悪そう」


「コーヒーよりも、か?」


「おまえ最近ちょっと楽しんでないか」


「少しだけな」


 実際、少しだけだった。


 全部が晴れたわけではない。この先の生活はまだ不安定だし、会社とのやり取りはそれだけで神経を削る。だが、少なくとも以前のような一方的な重さではない。


 向こうにも重さが移った。


 それが分かるだけで、人はだいぶ立っていられる。


 定時を少し過ぎた頃、杉原さんが書類を抱えて俺の机の横で足を止めた。


「聞きました」


「何を」


「申立て」


 この会社、情報伝達だけは爆速だなと思ったが、顔には出さなかった。


「ええ、まあ」


「いいと思います」


 それだけ言って、杉原さんは去ろうとした。


 だが二歩進んでから戻ってきて、小さな声で付け足した。


「あと、森山部長、さっき会議室で、『何であいつがこんなに詳しいんだ』って言ってました」


「それは三年間こき使ったからでは?」


「たぶん正解です」


 珍しく、杉原さんが少しだけ笑った。


 その顔を見て、俺も笑う。


 会社の中で笑うのは、ずいぶん久しぶりな気がした。



 窓の外が暗くなる。


 事務所の蛍光灯は相変わらず人を元気にしない色をしている。電話は鳴る。誰かがコピー機を叩く。榊原がまた何かを間違える。森山が低い声で唸る。


 全部、同じ会社の風景だ。


 でももう、同じ意味では見えなかった。


 ここは世界のすべてじゃない。


 ただの一社だ。


 そして、その一社が今、ちゃんと困り始めている。


 俺はパソコンの中に新しいフォルダを作った。


 名前はこうした。


 『労働審判 提出済』


 その文字列を見た瞬間、胸の奥で何かが確かに切り替わった。


 準備ではない。


 もう始まっているのだ。


 会社の紙コップコーヒーは今日もまずかったが、もう前ほど腹は立たなかった。


 もっとおいしいものを、自分で選べる未来のほうを、少し信じられるようになったからだと思う。



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