第3話 労働審判前夜
水曜の朝、会社の空気は、前日までの混乱に加えて、妙な静けさを獲得していた。
台風の目、というやつだろうか。
いや、正確には違う。
うちの会社には目なんて立派なものはなく、全体が雑に崩れていく瓦礫の山みたいなものだった。その瓦礫の上で、みんなが慎重に歩こうとしている。そんな静けさだった。
自動ドアは今日も渋かった。
もはや会社そのものが、俺の入館をためらっている気がする。
入るなよ、もう面倒だぞ、と建物が言っている。
知ってる。
俺だって面倒だ。
席に着くと、机の上に封筒があった。
白い。薄い。嫌な予感しかしない。
表には俺の名前が印字されている。達筆でも何でもない普通のフォントなのに、人を不安にさせる才能がある字面だった。
開ける。
中身は通知書だった。
『業務命令系統の見直しに伴い、当面の間、対外連絡業務および顧客対応の主担当から外す。』
ついでに、引継ぎ資料を速やかに提出せよ、とある。
昨日まで散々泣きついてきたくせに、今日になって外すらしい。
会社の方針決定速度だけは、こういう時に限って異常に速い。
「わあ」
隣から黒田が覗き込んだ。
「来た?」
「来た」
「どれどれ」
「人の不幸を回覧板みたいに言うな」
だが黒田は遠慮しない。通知書を読んで、眉を上げた。
「なんか、中途半端だな」
「だろ」
「クビならクビ、続けるなら続けるで腹くくればいいのに、なんで主人公をパーティーから追放した翌日に、やっぱ荷物持ちだけやってって言うんだよ」
「異世界なら読者レビューで炎上だな」
「しかも引継ぎ資料出せって、おまえ外すのに、おまえしか知らない仕事が多すぎるって自白してるようなもんじゃん」
まさにそこだった。
俺は通知書をスマホで撮り、神谷弁護士に送る準備をする。
タイトルは簡潔にした。
>主担当外し通知受領。
文面に迷って、結局こう添えた。
>不当解雇の外堀を埋める意図に見えます。なお、業務実態との矛盾が強いです。
送信。
その瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ整う。
人は不安になると、巨大な怪物を想像する。
だが実際の相手は、書式の雑な通知書を出してくる普通の中小企業だ。
化け物ではない。
だから、倒せる。
午前十時過ぎ、森山部長からメールが来た。
>件名、社長面談の件。
本文は相変わらず丁寧だった。丁寧語が増えるほど、会社が焦っていることを俺は知っている。
>本日十五時、社長室にて今後の勤務条件等について話し合いたい。
勤務条件等。
便利すぎる言葉ランキングがあれば上位に食い込める曖昧さだった。
俺はすぐに神谷弁護士へ転送した。
返事は五分で来た。
>単独で行かないでください。録音必須。可能なら回答は保留で。勤務条件の不利益変更や退職合意に誘導される恐れがあります。
仕事が速い人の文章は短い。短いくせに、読むと背筋が伸びる。
俺はそのメールを三回読んだ。
午後までの時間、会社は不自然なくらい静かだった。
榊原は俺に近づこうとして二回引き返した。経理の田辺さんは印刷機の前で紙詰まりと精神の詰まりを同時に起こしていた。総務の杉原さんはいつもの無表情で、しかし普段の一・三倍くらいの速度でキーボードを叩いていた。
皆、何かを知っている。
そして、何も言わない。
会社という場所は、秘密が多いのではない。
秘密っぽい顔をした沈黙が多いだけだ。
昼休み、俺はビル裏の非常階段でコンビニのおにぎりを食べた。
鮭。堅い。人生みたいな塩気。
そこへ、足音が近づいてきた。
杉原さんだった。
黒髪をきっちり結び、今日も観葉植物にしか笑わなそうな顔をしている。
「白石さん」
「はい」
「三分だけ」
短い。ありがたい。
彼女は周囲を一度見てから、手に持っていたクリアファイルを差し出した。
「これ、昨日のバックアップの補足」
中には印刷された勤怠一覧が数枚あった。
赤ペンで、修正前と修正後の差分が線で引かれている。
わあ。
心の中で二回目のわあが出た。
「これ、いいんですか」
「よくはないです」
「ですよね」
「でも、もっとよくないことを会社がしてるので」
その通りすぎて、俺は一瞬うなずくしかなかった。
「どうして?」
「白石さんがいなくなると、次に雑に使われるの、たぶん私だからです」
あまりにも現代日本らしい連帯理由だった。
友情でも正義でもない。次は自分だという、切実で正確な危機感。
だが、それで十分だった。
「ありがとうございます」
「あと」
杉原さんは少しだけ言いよどんだ。
「昨日、人事が社労士に電話してました。たぶん、今さら整えようとしてる」
「今さら」
「今さらです」
俺たちは少しだけ笑った。
笑うしかない、という種類の笑いだった。
「面談、気をつけてください」
「録音します」
「それがいいです。あの人たち、都合が悪くなると急に『言ってない』になりますから」
「昭和の妖怪みたいですね」
「しかも量産型です」
杉原さんはそれだけ言うと、さっさと去っていった。
昼の風が、紙を小さく揺らす。
俺はクリアファイルを抱えたまま、しばらく階段に座っていた。
敵が雑であること。
味方が少しずつ増えること。
どちらも、ものすごく現実的だった。
十五時ぴったり、俺は社長室の前に立った。
録音アプリを起動する。スマホを胸ポケットへ入れる。
深呼吸を一回。
ノック。
「入れ」
声は社長ひとりではなかった。
中にいたのは、中津川社長、森山部長、そして人事の大村。昨日の会議室メンバーが、部屋を変えてそのまま再集合していた。演出の工夫はほしい。
「どうぞ座って」
社長は妙ににこやかだった。
怖い。
人は怒鳴る社長より、急に微笑む社長のほうが怖い。
「白石くん、誤解があったようだから、改めて話したい」
「誤解、ですか」
「昨日の件だよ。君を一方的に排除しようとしたわけじゃない。会社としては、適材適所を考えていてね」
出た。
会社が困ると登場する、適材適所。
だいたい不利益変更の前触れである。
「具体的には?」
「営業事務は負担が重かっただろう。今後は補助的な業務に移ってもらうと思ってね」
「賃金や待遇に変更はありますか」
「そこは、今後の評価次第で」
「就業場所は?」
「場合によっては倉庫管理の応援も」
応援、という言い方で左遷を包むな。
森山が口を挟んだ。
「君も疲れているだろうし、ここで一度、働き方を見直すのがいいんじゃないかな。お互いのためにも」
「昨日は退職届を出されましたが?」
「それは選択肢の一つとして示しただけだ」
「選択肢」
「会社は君に配慮している」
配慮。
俺は危うく笑いそうになった。
昨日、会議室で『役立たず』と言い、『どこへ行っても通用しない』と言った人間が、今日は配慮を売り始めている。昨日の暴言に本日限りの上品な包装紙をかけても、誰が買うだろうか?
「確認ですが」
俺はできるだけ平坦に言った。
「私は現在、雇用継続を前提に、不利益変更を提案されているという理解でよろしいですか」
三人の表情が、ほんの少しだけ固まった。
その一瞬で分かる。
整理してない。
何とかしたいと思っているが、何をさせたいか自分たちでも決めきれていない。
「まあ、そう硬くならずに」
社長が言う。
「白石くんだって、争いたいわけじゃないだろう」
「争うかどうかは、事実関係次第です」
「君は最近、ずいぶん攻撃的だな」
「記録を取るようになっただけです」
大村の指がぴくりと動いた。
俺は続けた。
「昨日の面談では、継続就労が困難とおっしゃいました。本日は雇用継続を前提にした配置転換と待遇見直しの話をされています。会社としての正式な方針はどちらでしょうか」
森山が露骨に顔をしかめる。
「揚げ足取りはやめろ」
「確認です」
「お前のそういうところが!」
「解雇理由になりますか」
沈黙。
社長室の空調の音が、妙にはっきり聞こえた。
勝てる、と思った。
いや、勝敗の最終判断はまだ先だ。
だが少なくとも、この場では、向こうが自分の言葉に足を取られている。
それが分かった。
社長が椅子に深くもたれた。
「白石くん、率直に言おう。会社としても大事にしたくない」
「私も事実に沿って解決したいです」
「なら、退職も含めて柔軟に考えてほしい」
「条件提示は書面でお願いします」
「……弁護士でもついたのか」
それは言わないほうがいい台詞だった。
俺は少しだけ目を伏せた。笑いそうだったからだ。
「必要な相談はしています」
社長の頬がわずかに引きつる。
ああ、効いてる。
めちゃくちゃ効いてる。
その時だった。
社長室の外で、誰かが盛大に書類をぶちまけた音がした。
続いて榊原の声が響く。
「うわあああ請求書がああ!」
ある意味、最悪のタイミングだった。
だが、最高のコメディでもあった。
社長が目を閉じる。森山が天を仰ぐ。大村だけが無の境地に達している。
俺は心の中でだけ、榊原に拍手した。
会社の現状説明として完璧すぎる効果音だったからだ。
しらけた空気が流れて、面談はそこでいったん切り上げになった。
正式な提案は後日書面で出す、と社長は言った。
つまり、今日は何も決まらなかった。決められなかった。
社長室を出る時、俺は確信していた。
もう会社は、俺を雑には処理できないだろう。
席へ戻ると、黒田が秒速で寄ってきた。
「どうだった?」
「『配慮』された」
「うわ出た、会社の配慮」
「昨日の『役立たず』が、今日は『適材適所』の対象者だよ」
「出世魚かよ」
「明日はたぶん『重要人材』になってる」
「週末には『会社の柱』だ」
俺たちは小さく笑った。
笑いながら、俺は神谷弁護士に面談内容の要点を送る。
>退職勧奨と不利益変更が混在。会社方針不明確。書面要求継続します。
送信後、五分で返事が来た。
>そのままで大丈夫です。相手は整理できていません。こちらは時系列を固めましょう。申立ての準備に入れます。
申立て。
その単語を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに定まった。
逃げるでもない。
耐えるでもない。
進む。進めるのだ。
窓の外はもう夕方の色になっていた。
事務所ではまた電話が鳴っている。コピー機は紙を食って沈黙している。榊原は床に落とした請求書を、人生の欠片みたいに拾い集めている。
その全部を見ながら、俺は新しいフォルダを作った。
名前はこうした。
『労働審判準備 確定版』
ついでに、その下へサブフォルダを一つ。
『会社が本格的に嫌がるやつ』
かなり嫌がるだろうな、と思った。
だがもう、知ったことではない。
証拠は揃いつつある。
会社の言い分は揺れている。
俺の手には、深夜のメールも、削られる前の勤怠も、昨日と今日で変わった向こうの台詞もある。
明日はたぶん、次の段階に進む。
冷めた会社のコーヒーではなく、ちゃんと熱い一杯を飲みながら、その書類に目を通す日がやって来る。そんな予感がした。




